第六章 雨に魔物は咽び泣く
第六章 雨に魔物は咽び泣く
細長い酒場はカウンターとテーブル席がひとつしかなかった。
ドアはカウンターの死角になるが、ドアを開いたところに鏡が置かれ、カウンターから客の来店が見えるようになっている。逆に客の側からも店の入りがわかる仕組みで、満席ならそのまま店に入らずに帰ることができる。
もっとも、この店が満席になることがあるのか甚だ疑問だが。
カウンターに五脚の椅子。奥のテーブル席に二脚。
今もカウンターの椅子には誰もおらず、無口なバーテンダーが黙然とグラスを拭いている。グラスには曇りひとつ無く、カウンターとテーブルに置かれたキャンドルの光をちらちらと反射している。
ぎぃ、とドアが鳴った。
重い樫の木のドアは初訪の客を拒絶しているが、その男は開いた隙間から滑り込むように店内に入って来た。鏡に眼を向けてから、死角から身体を現す。
目立たない男だった。中肉中背。くたびれたスーツ。ポケットに手を入れる癖があるのか、左手側のポケットだけ形が崩れている。貌も特徴が無いが、眼が細すぎるのが特徴と言えば言える。
男は片眼だけ少し見開き、奥に置かれたテーブル席に足を向けた。
板張りの床が、男が歩くにつれ、ぎしぎしと軋む音をたてる。
テーブル席まで来た男は、木製の椅子を引いて腰を下ろした。ぎしり、と椅子が鳴る。
「鏡に映っていませんでしたよ」
テーブルに片腕を置き、男は言った。
丸いテーブルはこれも木製で、木の節目が残っている。金属をあまり用いない造りが気に入っている店だ。
「失礼――」
薄く笑って、キャンドルの灯るグラスを指で弾いた。
湾曲したグラスに逆さまの姿が映った。同時に入口の鏡にも映る。
二十代の青年の姿。アングロサクソン系。ウェーブのある金髪を軽く後ろに掻き上げている。ダーク系のスーツに同色のシャツ。ネクタイだけは鮮やかな青色。
「時々忘れてしまうようだ」
青年はテーブルに置かれた煙草に指を伸ばした。この店は禁煙ではない。
細長いシガレットに店のマッチで火を点け、深々と吸い込む。
肺を一巡させ煙を吐くと、甘い香りが漂った。
「吸血鬼も煙草を吸うんですか」
男に眼を向けた。あ、いや――と男が眼を逸らす。
青年は無言で煙草を燻らせた。
男がポケットに手を入れる。煙草を取り出したのを見て、青年は自分の煙草を勧めた。箱を軽く振り、一本だけを数センチ出して男に差し出した。
「ああ。これはどうも。――へえ。ダンヒルですか」
男が煙草に火を点けて吸った。
「わりと軽いですね」
感想は聞き流す。煙草を与えたのは善意からではない。他の煙草の匂いが混ざるのが嫌だったからだ。
血液以外の食べ物は砂のように味気なく身体も受け付けないが、煙草は香りを愉しむことができる。わざわざ呼吸をする甲斐もあるというものだ。
「創世神来教ですがね――」
煙草の灰を灰皿に落としながら、男が口を開いた。
「総務省が力を失い、御魂省の下の総務局に格下げになりました。最高幹部だったサカキは行方不明。本部の方は消されたと見ています。サカキが握っていたはずの金に動きが無いのがその理由です。金と兵器。あの男が一番の危険人物だった。教団内部のクーデタだけで済むならかまいませんが、その気になれば国家を転覆できるだけの力でしたからね。本部は創世神来教の監視レベルを下げましたよ」
「下げた? しかし――」
「教祖は瀕死の重病人。後継者の孫は十一歳。御魂省のレイエンが実質的な支配者になるわけですが、彼女は政治に興味が無いですからね。国家の脅威になり得ない。薬物の開発は、ものによっては危険視していますが、総務省の販売ルートを失った上、研究施設を幾つか閉鎖に追い込まれていますから、当分は何もできないでしょう。潜入監視員は引き揚げますよ。それよりも――」
紫煙を吐きながら、男は声を潜めた。
「研究施設を潰した者に関心があります」
「……」
「わずか一週間かそこらで創世神来教の研究施設のほとんどを潰した存在。海外の拠点は手付かずですから、この国にいるのは間違いない。それ以外は個人なのか組織なのかもわからない。当然、目的も思想背景も不明。姿が見えないだけに不気味だ。人間なのか。それとも――」
男の細い眼が見つめてくる。
「魔物なのか」
「その件は私に任せてもらおう」
「心当たりが?」
「……」
無言を貫くと、男は灰皿で煙草を潰した。
「とりあえず預けますが、本部の方は危険視しています。世界のバランスを崩す存在なのでは――と」
「……」
「人間なのか、と言いましたが、その可能性は薄い。創世神来教に対抗するような人物も勢力も観察されていない。ならば考えられるのは魔物だ。それもSランクの。たとえばあなたのような――」
男の眼の奥で、疑惑の光がちらついている。
どれほど人間の味方をしようと、人間の信用を得ることはできない。
男の思考はトレースできる。人間よりも強者である魔物がいつまでも人間を放置しておくわけがない。人間を滅ぼすか。支配しようとするに違いない。『ハロウィンの狂気』の時はまだ人間の意識が強かったかもしれないが、今の魔物達はそうではない。いつ人間に牙を剥くか知れたものではない。実際、『ハロウィンの狂気』の時も人間に抵抗した魔物がいなかったわけではない。あの時、魔物達を統率する者がいれば、世界は人間と魔物の戦争になっただろう。いや。今この瞬間にも、その統率者が誕生しているかもしれない。
たとえば眼の前に――
「……」
青年の眼の前で紫煙が揺れる。
指の間に挟んだ煙草から紫煙が立ち上っている。
灰は長く、火は指の近くまで来ている。指に触れ、じゅっ、と水に触れたような音をたてて、火は消えた。指には何の痕も生じない。六百度の高温も吸血鬼の身体を傷つけることはできない。
男の特徴の無い貌に恐怖のさざ波が走る。
「私はバランスを崩さない」
煙草を灰皿に捨ててから男の眼を見据えた。
男が気圧されたように頷く。信じていますよ――そう言ったが、口だけだろう。
「創世神来教から眼を離すな」
立ち上がりかけた男に言う。
「理由は?」
「理由は無い」
男は片方の眼だけを見開き、本部には伝えますよ――と応じた。
テーブルから離れ、出口に向かっていく。ぎしぎしと床が鳴る。カウンターの向こう側で死角に入ったが、ドア近くの鏡には男の背中が映っている。肩越しに、鏡に眼を向けてくる。足を止めた。
「鏡に映っていませんよ」
死角から貌を出して言う。
その眼がいっぱいに開く。
「おい。どこに行った?」
バーテンダーに叫ぶ。バーテンダーは困惑したように首を振る。どこにも行きようがないからだ。テーブル席は行き止まりの壁際にあり、青年は壁を背に坐っていた。だが今青年の姿は無く、レンガ造りの壁の前には空っぽの椅子があるだけだ。テーブルの上に、ダンヒルの煙草のパッケージが残されている。
「ちっ」
男が身を翻した。たったひとつの入口から外に出ていく。
路地から男の姿が現れ、少しして男のまわりに数人の男達が群がった。すぐに別れて、ストリートに散っていく。
「私も監視対象か」
ビルの屋上から男達を見下ろしながら青年は呟いた。風にスーツの裾が揺れる。スーツの輪郭が空気に溶けている。服だけではない。青年の身体も。
霧のように霞んでいる。
視点が低くなった。実体化した小さな手に視線を落とし、肩をすくめる。五歳児の身体は未だに自分のものではない気がする。
頬に冷たい雫を感じ、貌を上げた。夜の空に雲が垂れ込めている。
「雨か……」




