第三章 16
気がつくと――
新月になっていた。
魔物のバイオリズムが最も低下する時期だ。しかも夜明けが近い。
来る、と思った。
路地裏。前も後ろも迷路のように入り組んでいる。貌を上げれば、高いビルが視界を塞いでいる。路地の幅は両腕を広げたほどしかない。この先が行き止まりだとしたら完全に追い込まれる。
――まずい。
ターニャはビルの壁に胸と腹をつけた。
身体をくねらす。
するすると壁を這った。『白銀の妖蛇』の名は伊達ではない。
ひゅん、と空気が鳴った。
身を翻すのが一瞬でも遅れれば、首を斬り落とされていただろう。壁に喰いこんだのはギロチンの刃だった。電磁ブレードの中でも最大級の代物だ。青白い光を放っている。空気の焼ける匂い。
ターニャは壁から離れた。落下する。一瞬後、別のギロチンブレードが壁に喰いこんだ。ビルの屋上にハンターの影。台車のような影はギロチンブレードの射出台か。
――ちっ。
地面に着地すると同時にターニャは走った。方向は路地の入口側。ターニャが入ってきた方だ。反対側はどうなっているかわからない。進むのは危険だ。
入口側。街灯の光をバックに影が生じた。ギロチンブレードの射出台と認識する前にターニャは反転し、同時に地面に身を投げ出した。首のあった高さをギロチンブレードが通過する。間髪置かずに立ち上がった。連射にはわずかだが間がある。その間に逃げるのだ。
轟、と風が身体を揺らした。
斬、という音は後から聞こえた。
身体の両側に強化人間が立っていた。政府の対デーモン部隊。全身を覆う対吸血鬼用スーツはいかなる魔物の爪も牙も通さない。
ビルの屋上から飛び降りる姿は視認できなかった。轟という風を感じただけだ。
ぼてり、と鈍い音がした。柔らかい物が地面に落ちた音だった。
腕の形に見覚えがあった。細長い指も爪の形も。
ターニャの両腕だった。
強化人間の手に、ジャックナイフ形の電磁ブレードが握られていた。
ぶしゅう、と音をたてて斬り口から血が噴き出した。
電磁ブレードは斬り口を焼き潰すはずだが、あまりの斬撃のスピードに焼ける間も無かったらしい。
血に濡れるのを嫌って、強化人間がターニャから離れた。だからと言って何もできない。膝の力が抜けた。前のめりに身体が崩れた。コンクリートが視野に迫ったが、身体を支える両腕は無い。頬と額を打ち、眼の奥に痺れるような衝撃を感じた。
――がっ、は……
喘ぐような声が洩れた。
――《手間をかけさせやがって》
機械の合成音のような声が聞こえた。
――《始末するか》
強化人間なら外部スピーカをONにしなくても仲間同士で会話ができるはずだ。
あえて聞かせているのだろう。
ターニャに死の恐怖を味あわせるために。
屈辱的なポーズのままターニャは視線を上にした。強化人間はターニャを見下ろしている。ひとりが腕を伸ばし、ターニャのターバンで巻いた頭を掴んだ。ターニャの半身を起こし、顎を仰け反らせる。
ずるり、とターバンがずれた。
白銀の髪が溢れるようにこぼれた。褐色の肌をしたターニャが白銀の――と呼ばれるのはこの髪の色のせいだ。
毛先がゆらりと動き、次の瞬間、鞭のようにしなって強化人間の腕に巻きついた。
――《なに?》
驚愕が強化人間を硬直させた。巻きついた髪の中で、金属の軋む音が響いた。強化した筋肉と骨格が毛髪ごときに折れそうになっているのだ。
もうひとりの強化人間が動いた。電磁ブレードが一閃し、ターニャの髪を断ち斬った。
反動でターニャの身体が背中から倒れる。
肩と後頭部を打ち、ターニャは呻き声を洩らした。
反射的に起き上がろうとするのを、腹部に叩き込まれた衝撃が邪魔をした。
強化人間の軍靴が、ターニャの腹を踏みつけていた。
内臓が潰れるような気がした。ひくひくと足の先が痙攣を始める。
――《おれが殺る》
ターニャの髪に巻きつかれた強化人間が、腹に足を乗せている強化人間に言った。
足を乗せていた強化人間が、場所を譲ろうとするように腹から足を降ろした。
その足のまわりに、断ち斬られたターニャの髪が散乱している。
――《ほう?》
――《なんだ?》
――《見ろよ》
足を降ろした強化人間がコンクリートの地面に散らばるターニャの髪を示した。
その髪の一本一本が蛇と化していた。白に近い髪の毛の色そのままに、無数の細い蛇となって鎌首を持ち上げている。しゃあ、と無数の蛇が口を開ける。
腕の無い肩口を地面につけて身を起こしながら、しかし、
(ここまでか……)
ターニャは唇を咬んだ。
無防備な敵であれば、無数の蛇は敵の身体の穴と言う穴から体内に侵入して中身を喰い荒らすことができる。だが、強化人間の身体を包むのは対吸血鬼用のスーツだ。細胞を霧に変える吸血鬼の侵入さえも許さない。ターニャの髪では太刀打ちできない。
強化人間の視線がターニャに戻った。
ゴーグルで覆われている。眼球からも侵入することはできない。
実際の視線が、だからどのように動いているか不明だが、貌の動きからたぶんターニャを見ているのだろう。
強化人間の腕が伸び(もうどちらがどちらだかわからない)、ターニャの顎を掴んだ。
――《爬虫類型の獣人か。希少種だな。伝説の石化能力も持つのか?》
どのみち対魔物用のゴーグルが邪眼の力さえも封じるが――と強化人間が嗤う。
ターニャは唾を吐いた。
唾はゴーグルを汚した。
顎から強化人間の手が離れ、強烈な裏拳がターニャのこめかみに炸裂した。
腕の無い身体はごろごろと丸太のように転がり、ビルの壁で止まった。
もう悲鳴も出ない。
全身が血塗れだった。服は血を吸い、ぐしょりと重い。重いのは身体だろうか。
――《研究室に送るとしよう》
強化人間の声が聞こえた。
――《希少種は歓迎される。データを搾り取れるだけ搾り取ってまだ息があったら、兵器に使えばいい。獣人ならSランクだ。利用価値は高い》
――だれ……が人間…なんか……に。
ターニャの声は聞こえなかっただろう。声が小さかったわけではない。
強化人間の背後にギロチンブレードの射出台が落下してきたのだ。
地面に激突し、金属のひしゃげる音が、ビルの壁にぐわんぐわんと反響する。
その後を追うように、首のねじ曲がった強化人間の身体が落ちてきた。
強化人間の体重は見た目よりもはるかに重い。ギロチンブレードの射出台にも匹敵する激突音が路地裏に響いた。
この音の前ではターニャの声など聞こえるわけがない。
ビルの屋上をキープしていた仲間が屋上から落とされた、と強化人間達が即座に判断する。弾かれたようにビルの壁に背中を押し付け、左手で腰の銃を抜いた。右手は電磁ブレードを握ったままだ。
――《何者だ? この化け物の仲間か》
外部スピーカの音量を上げて、強化人間が誰何する。
声を放つと同時に場所を移動し、ターニャの近くに寄った。
何者かを牽制するように、ターニャの頭部に銃口を突きつける。
ビルの屋上を地上から見ることはできない。屋上の縁は、夜の空を背景に黒々としたシルエットと化している。
――《誰だ。答えろ》
強化人間の質問は、屋上にいる何者かとターニャに対してだった。
ターニャの仲間だと思っているのだ。
もちろん、知るわけがない。
ギロチンブレードの射出台が舞った。今度は水平移動だった。路地の入口側から飛来してくる。射出台の幅は路地裏の幅ぎりぎりだった。強化人間達が身を伏せる。ターニャの身体は最初から地面に転がっている。
射出台が水平方向への運動エネルギィを失って落下する。
地面に激突する音。地面に落ちるまで、射出台はビルの壁に触れもしなかった。
ぎりぎりのサイズなのに。
コントロールがいい。
妙なところにターニャは感心した。
両腕を失い、失血死するかもしれないこの状況で。今にも頭部を撃たれて死ぬかもしれないこの時に、ターニャは笑いの衝動が起きるのを感じた。
路地の入口側から、首と両腕両足の関節をあらぬ方向に曲げた強化人間が、風車のようにくるくると回転しながら飛来して、眼の前で落下したところで衝動はピークに達した。
――く……は、は、は。
ターニャは笑った。
――《なんだ。何が可笑しい》
路地裏の強化人間が苛立ったように叫ぶ。
ひとりが路地の入口に銃口を向け、もうひとりがビルの屋上側に銃口を向けている。
路地の入口に影が生じた。
人影だ、と認識する前に強化人間が引き金を絞った。
通りすがりの一般人ということはない。街は封鎖されている。その証拠に、射出台が落下した時の金属音に、誰ひとり集まってこない。ビルの窓にも明かりは灯らない。
強化人間の反射速度で全弾を撃ち尽くす。
影は、ゆらり、と動いたように見えた。
それだけで、全弾を躱したらしい。着弾音がしない。
強化人間が銃を捨てた。弾倉を変える時の隙を拒否した。右手には電磁ブレードを握っている。身体の前でブレードを構え、腰を落とす。
もうひとりは、背中合わせになり、ビルの屋上に銃口を向けたまま、貌だけ路地の入口に向けている。相手は複数だと思っている。屋上側の警戒も解くことはできない。
――《子供?》
どちらかが言った。
影は小さかった。大人だとしたら相当に小柄だ。一四○センチも無い。
ビルの非常灯が影の貌を浮かび上がらせる。
十歳前後の少年だった。艶のある黒い髪。深い闇のような黒い眼。少年なのに、その眼は威圧的だった。無意識に後ずさりたくなるような迫力があった。
この少年が射出台をスクラップに変え、強化人間を風車にして飛ばしたのだろうか。
魔物なら可能かもしれないが、それでも並外れたパワーだ。
すらりとした少年の身体を見ると、嘘でしょ、と言いたくなる。
その細い腕で、強化人間の首やら腕やらを折ったのか。
ぽきぽき、と。
笑えてくる。ターニャの笑いの衝動はまだ収まっていない。半ば死を覚悟したところでの状況の変化に、精神のタガが外れたのかもしれない。
ターニャは、くふふ、と喉を鳴らした。
――その女を置いて去れ。
少年が言った。
言われて、はいそうですか、と従うわけがない。ターニャは思うが、強化人間達は明らかに逡巡の色を見せた。こんな子供の言葉に――?
すう、と周囲が暗くなった。
街灯が消えたのか。
いや、違う。少年の背後で街灯は光を放っている。少年の足下には影ができている。現れた時と影の濃さは変わらない。街灯の光量に変化は無い。
なのに、明らかに暗くなった。
眼が変になったのか。擦ろうとして腕が無いことに気がついた。
笑える。そんなことさえも。
ターニャの笑いは止まらなくなった。
――《暗い?》
――《ばかな。ゴーグルが調整するはずだ》
強化人間達が狼狽する。
――もう一度言おうか。
少年が足を踏み出した。
強化人間が後ずさった。気圧されたのだ。
深い闇のような少年の眼。周囲の暗さが、その眼と同じ底無しの闇に染まっていく。
――《これ……は…邪眼……か》
眼に何らかの魔力を持つ魔物は珍しくない。魔眼あるいは邪眼と呼ばれる。見ただけで石に変える力もあれば、意のままに操る力もある。
だが、その力は対魔物用のゴーグルが封じると言っていなかったか。
少年が近づいてくる。平然と。広がる闇と共に――
――《くっ……》
強化人間が身を翻した。背中を見せ、路地裏の奥に走り去っていく。
あっさりとそれを見送り、少年はターニャの近くで跪いた。
ターニャの身体を起こし、背中をビルの壁にもたれさせた。両腕が無いため、身体の軸を真っ直ぐにしないとすぐにどちらかに倒れそうだ。
――なんで……逃がしちゃうのさ。
絶え絶えの息を吐きながら、ターニャは言った。
呼吸が荒いのは、今まで笑い続けていたからだ。
少年が不思議そうな貌をする。
――いけなかったか?
――当たり前じゃない。連中はハンターよ。また襲ってくるわ。
――あの二人を殺せばもう襲われないのか。
――まさか。別のハンターが来るわよ。
――ならあの二人を逃がそうと、ここで殺そうと、状況は変わらないと思うが?
子供のくせに、大人びた口をきく。
――あんたの状況が変わるのよ。
ターニャの言葉に少年が首を傾げる。
――全員殺しちゃえばあんたという存在は隠蔽できる。全部あたしの仕業になるわ。でも、逃がせば、あんたまでハンターに狙われる。
――ああ。なるほど。
少年は眼を細くした。笑ったようだった。
――おれを心配してくれているわけか。
――心配なんか……
なに見透かしたようなことを言うのよ。子供のくせに――
――おれのことなら気にしなくていい。狙ってくるなら、面白い。
――面白いって……
――危険は嫌いじゃない。
少年は立ち上がり、ターニャから離れた。ターニャの両腕を拾ってまた戻る。
――だから救けたの?
トラブル自体を愉しむために。
救けられて文句を言える筋合いではないが、嬉しい気分にはなれない。
――女を研究室送りにするのが気に入らなかった。
少年が言う。そう言えば、研究室に送ると強化人間が言っていた。それを聞いて救けたということか。
――とりあえずお礼を言うわ。
ターニャが言うと、少年が鷹揚に笑う。それもまた子供のくせに小憎らしい態度だ。
腕の左右を確認しながら、少年はターニャの片腕を肩に押し当ててきた。
――お。くっつく。
子供のように笑った。歳相応の貌もするんだ、と思う。
もう片方の腕もターニャの肩につけ、少年は包帯が欲しいなと呟いた。さすがに固定しなければ、ちょっと動いただけでとれてしまいそうだ。
満月期の狼男や吸血鬼レベルの再生能力はターニャに無い。
――あたしの服を破いていいよ。
ターニャは言った。
――血を吸って重いし。汚れてるから脱ぎたいし。
――わかった。
全く躊躇いもせずに少年がターニャの服に手をかける。
平然と破った。ターニャの胸が顕わになる。褐色のふくらみはつんと上を向き、ほの白い乳首がその先端でぷくりとしている。少年は顔色ひとつ変えずにターニャの服を破き、ほとんど全裸にしてから、あれ、と言った。
――もしかして、女じゃなかった?
――性別を訊くのはマナー違反よ。ぼうや。
ターニャに睨みつけられ、少年は苦笑のような笑みを浮かべた。
――ぼうやはやめて欲しいな。
――じゃあ名乗りなさいよ。
――ドウマオーマ。
どこか嬉しそうに少年は名乗った。
――自分の名前が好きなのね。
ターニャは言った。少年が少し驚いたようにターニャを見つめ、子供のように笑った。
――それは気づかなかった。そうかもしれない。
自分の名前を好きになる理由。それは命名者のことを好きだからに他ならない。
普通は親だ。
好きな彼女に素敵な名前ねと言われたから、なんてことも考えられるが、女の服を剥ぐ意味を理解していなさそうな子供に、そのケースは考えにくい。
まだ子供だ。親を好きな――親はいないと後になって聞くが、この時はそう思った。
子供なのに――
精神年齢は高そうだ。いい男になりそうな予感がする。
(やばい。惚れてしまいそう)
――あたしはターニャ・マラータ。ターニャでいいわ。
――よろしく。ターニャ。
それはただの挨拶であったかもしれないが――
――よろしくと言うからには今後も付き合うつもりと考えていいわね。
ターニャは笑みを浮かべて言った。少年が苦笑を浮かべる。
――いいよ。
――女遊びは許すけど男とはダメだからね。
――は?
子供には理解されなかった。




