第三章 13
夜の風が髪を揺らす。
遠くに幹線道路が見える。流れる車のライト。時おりクラクションの音が聞こえるが、エンジンの音までは届かない。地上百メートル上空。取り壊し寸前のビルの最上階に、ドウマは部屋を持っていた。他に住人はいない。着替えと非常食、水と酒が置いてある。
グラスから漂う酒の匂い。
ベランダの手すりに置いたグラスには、琥珀色の液体を半ばまで入れてあった。氷は入れていない。
視線を地上に向けたまま、ドウマは左手でグラスをとって、口許で傾けた。
アルコールは体内に入った瞬間に無毒化される。酒を飲む意味は無いのだが、口さみしい時に酒を選んでしまうのはターニャの影響だろう。あちらは酒が主食だ。
手元を見ないで、グラスを手すりに戻した。
シアのマンションからこちらに移動して、すでに十五時間以上経過している。
エレベータシャフトの中で寝てしまったシアは、まだ目覚めていない。
体力は人間並み。あるいはそれ以下か。
魔物化が全て人間を超えるかと言えばそうではない。人間よりも弱体化するケースもある。人間には何でもないものが、致命的なダメージになることも多い。
今後はその手のことからもシアを護らなければならないだろう。
シアに危険が迫れば自分は冷静ではいられない。
今回のことでそれがわかった。
主人の危機に反応し、下僕は正気を失う。
思考しているようで思考していない。まともな判断ができない。
自分の脳ごとゾンビを殺す――そのような相殺的な戦法は冷静になれば愚かだったとわかる。自分の死後シアがどうなるかという視点がまるで無い。
結果的に死ななかったわけだが、意識が戻るまでシアを無防備な状態で放置した。
新たな敵が現れれば、シアをどうにでもできた。
殺すこともできただろう。
――本気で言っているのか。
エレベータシャフトの中で、ぎちり、と筋肉に力が入った。
主従契約が反応したのかもしれない。どこまでが自分の意思で、どこからが契約の反応かわからない。だが、どちらでも同じだ。左足の膝を立てた。右手でシアの肩を抱く。
――護る気かな。
伯爵がそれを見て言った。
――当たり前だ。
――下僕だからか。それとも、その少女だからか。
――何が言いたい?
――君は本来下僕になるような男ではない。君の本質は支配者であり、隷従者ではない。なのに、下僕になった。その少女にそれだけの理由があったのかね。
――あんたには関係無い。
――ドウマオーマ。
伯爵の声が硬くなる。ドウマは息を吐いた。理由を答えない限り、伯爵は引かないだろう。
――シアを見て、昔知っていた女を思い出した。
――昔の女ということか。
――十年以上昔だ。ガキの頃の話だよ。
――その女性は?
――死んだ。詳細を答える気は無い。
――シア・ラヴィアはその女性に似ているのか。
――貌や姿は似ていない。だが、ちょっとした表情とか言動がその女に重なる。
――それが下僕になった理由なのか。
――ああ。
――意外とロマンティストだったのだな。ドウマオーマ。
――かもな。
肩をすくめると、伯爵は口を閉ざした。五歳児の貌だが、シアが持つ無邪気さはかけらも無い。中身は子供じゃない。
Dウィルスに感染した第一世代の生き残りだ。
人間であった時の記憶も人間の意識も残している。
――あんたは最初からおれを危険視していたな。それでもおれを自由にさせていたのは、おれを信用しているからだと思っていたが。
――信用しているよ。君はね。
アッシュブルーの眼がドウマを見据える。
――精神年齢が高い。『少女』の下僕になるような酔狂な面もあるが、
苦笑する。
――精神状態は安定しており、激情にかられることもない。
――そうでもないがな。
――少なくとも見たことは無い。何より人間を殺して悦ぶ趣味が無い。君という存在が君自身のコントロール下にあるなら問題視しない。だが。
――シアは信用できないか。
――幼すぎる。子供の気まぐれで人間を滅ぼされてはたまらない。主人を護りたければ、いらぬ命令を出させないことだ。
――命令権は主人にある。下僕がどうにかできるものじゃない。
――彼女は君の意向に従うように見えるがね。
――そうだな。
同意すると、満足したのか、伯爵は顎を上げた。
――夜明けが近い。私は帰るとしよう。
――ターニャの店に行くなら、礼を言っていたと伝えてくれ。
――君は?
――セーフハウスに潜る。
シアの首から細い鎖を引きちぎった。先端についている端末を握り潰す。
――了解した。
伯爵が言った。
金色の髪が揺れ、天使のような貌が空気に溶けていく。
黒い羽毛が渦を巻き、カラスの群れが現れた。あぁ――と鳴く。
――伯爵。
ドウマは口を開いた。
無数のカラスの眼がドウマを見つめる。
――おれの意識が戻るまでシアに付いていてくれたわけだ。
その気になればシアをどうにでもできたはずだ。主人が死ねば、などと言いながら、実際は護っていてくれたのだろう。ゾンビの第二派か別動隊がいれば危なかった。
――感謝するよ。
カラスの眼が細くなった。笑ったのかもしれない。
あぁ、と鳴き、カラスの群れがエレベータシャフトの出口に向かって飛翔していく。
通風孔があれば、そこから外に出ていくだろう。
伯爵の気配が消えてから、ドウマは独り呟いた。
――意外と人が好いな。伯爵。信じたのか。
下僕になった理由のことだ。
シアの中にユミエを見たのは嘘じゃない。だから下僕になった、というのも事実だ。
だが、そこにロマンなど求めてはいない。
ドウマはシアに視線を落とした。
――ユミエの行動パターンを誰に仕込まれた。
あどけない寝顔に低く囁く。
ユミエを連想させる少女。これを偶然の空似だとは思わない。
ターゲットは自分だ。
最初から気づいたが、同時にこの少女から情報は得られないことも悟った。近づいて来た少女は人形のように何も知らず、子供のように幼かった。
だから下僕になった、と言えば伯爵はどう言うだろう。
言いなりに下僕になれば、少女の裏にいる何者かが姿を現す――そう考えた、と言えば。
ミイラ取りが――と言われそうな気がする。
どうやら自分は正気であっても、破滅的な戦法をとる傾向があるようだ。
くく、と喉を鳴らすと、腕の中でシアの身体が動いた。
思わず肩に力が入ったが、シアは身動ぎしただけだった。
白い瞼は閉ざされ、長い睫毛は伏せたままだ。
ほう、と息を吐く。
この少女に、おまえはおれのために用意された餌だ――と告げる気は無かった。何も知らないのなら、このまま無邪気に笑っていて欲しい。そう思う。
この感情が下僕のものかわからないが。
シアの頭が肩から落ちそうになり、シアの背中にまわした右腕でバランスを取った。シアの吐息が首筋にかかり、苦笑を浮かべる。下僕でいるにはそれなりに自制心が要りそうだ。
シアを抱いて立ち上がった。エレベータシャフトの壁を蹴って出口に向かう。
廊下に出た瞬間、濃厚な血の匂いが鼻腔を刺激した。ゾンビ化した警察官とマンションの住人達。脳を潰された大量の死体が転がっている。
相当な騒ぎになるだろう。ゾンビだと同定されなければ、大量殺人事件だ。
が、今は考えても仕方がない。
屋上に向かう。ターニャのロックがかかっていたので、ドアは蹴破った。
風が髪を揺らした。
久しぶりに新鮮な空気を吸った気がする。
白み始めた空の下に高層ビル群が並んでいる。朝靄のせいでビルの下層部が霞んで見える。このマンションもまた靄の中に沈んでいるだろう。死者達の墓標のように――
ドウマは屋上の床を蹴った。




