第三章 14
「それ、美味しい?」
背後で澄んだ声が響いた。
眼を向けると、シアが立っていた。下着のような恰好はマンションにいた時のままだ。着替えのことは念頭に無かった。さすがに取りには戻れない。
シアは手すりに置かれたグラスを見ていた。
「美味くもなければ不味くもない」
ドウマの答えにシアは不思議そうな貌をした。
ならなぜ飲むのかと言いたいのだろう。
「味覚はあまり発達していなくてね。口に入れば何でも構わない」
「飲んでいい?」
ドウマの横に近づき、シアはグラスに手を伸ばした。触れる前に取り上げる。
「子供が飲む物じゃない」
「子供じゃないよ」
人形のような白い貌が、拗ねたように横を向く。
ドウマは苦笑を浮かべた。
「じゃあ味見だけだ」
グラスの中身を口に含むと、シアの顎に手をかけた。
何をされるか悟ったらしく、上を向いたシアの唇に、ドウマは唇を重ねた。
舌を絡め合う。
シアの喉が動いた。口の中にほとんど残していなかったが、まるで無かったわけではない。慄いたようにシアの喉が震える。水で希釈していない原液が喉を焼いたらしい。熱い息を吐き出すのを、少し口を開けて逃がしてやる。
舌を絡め続けると、酒の味が消え、ほのかな甘さを感じた。
「おまえの舌の方が甘くて美味い」
唇を離して、ドウマは言った。
シアが白い指で口を押さえた。
ひく、とシアの喉が動いた。ひくっ、ひくっ、と続ける。しゃっくりが出始めたらしい。
何が起きたかわからないと言うように、大きな眼をさらに大きくしている。
びっくりした子猫のような貌。
「ふ――」
ドウマは口許を緩めると、声をあげて笑った。
自分のTシャツをシアに渡していたところで端末が鳴った。
リビングのテーブルに端末は放置してある。
バスルームの位置をシアに示してから、ドウマは端末をONにした。
ターニャからだった。
《クジのデータを送るわ》
画像は無かった。
久地龍兒。日本国軍陸戦部隊所属。格闘術、銃剣刀術に優れ、単独戦闘の功績は群を抜いている。戦車やヘリの操縦にも長け、部隊作戦にも貢献。最終階級は大尉。二階級特進。五年前の第三次ゴラン高原の紛争に連合軍として派遣され、作戦行動中に死亡。作戦はC国魔物部隊の殲滅だったが、これは失敗に終わっている。死亡時の年齢は三十一歳。家族はいない。独身。結婚歴なし。
クジリュージ。クジミリタリィカンパニー代表。三十一歳。民間軍事会社。要人警護や戦闘地域での直接戦闘、警備、輸送を請け負う。特に魔物を相手にする仕事は採算を度外視して請け負う傾向があり、対魔物のエキスパートとして業界に知られる。日本国軍の久地龍兒とは年齢、経歴共に一致しない。
ざっと読み終えて、ドウマは思考に入った。
久地龍兒とクジリュージが同一人物かどうかは現時点ではどうでもいいことだ。
仮に同一人物だとしても、死亡扱いになっている久地龍兒にアクセスする手立ては無い。現状無視してもいい情報だろう。
カンパニーの連絡先を見つめる。
シアのマンションを襲って来るなら、クジが来るだろうと考えていた。
背後に創世神来教がいるなら、何のためにシアを狙うのか――それを訊くつもりだったが、現れたのはゾンビであった。
ゾンビでは背後関係を探ることはできない。
死体に記憶は存在しない。
それを承知でゾンビを使ったに違いない。
このタイミングでゾンビが自然発生するはずはなく、使われたのは兵器用ゾンビだろう。
ゾンビは『魔物人権保護法』から外れる。そのため兵器として開発されたが、最悪のダーティウェポンであるため、現在は国際的に使用が禁止されている。国家間では廃棄条約が締結されたが、相当数がテロリストやアングラに流れたと言われている。
それにしても――
今回のことはクジの仕業だろうか。
――その少女の身柄確保を命じられている。
そう言った強化人間と今回のゾンビ作戦は合い入れない。
ゾンビは局地的殲滅作戦用兵器だ。オリジナルの脳内に爆薬を仕掛け、殺害対象あるいは殲滅対象区域の近くに投入する。対象がゾンビ化した時点で爆薬を炸裂させてオリジナルごと全てのゾンビを始末する。
シアが目的なら、ゾンビを使う理由がわからない。
ゾンビは動きをコントロールできないという兵器として致命的な欠陥を抱える。ドウマを排除するためゾンビを使うとしても、シアがゾンビ化する可能性はゼロではない。
(ゾンビになってもかまわなかったのか)
照明を落としてあるリビングで、ドウマは両眼を細くした。
下僕は主人がゾンビになっても隷従するだろう。主人に自由意志が無いとしても、変わらずに主人を守護しようとするに違いない。
シアをゾンビ化させ、その後オリジナルを押さえれば――
あるいはオリジナルを爆発させると匂わせるだけでも――
ドウマは無力化した。
しかし、それだとしたら、狙いはシアではなく――
「オーマ――」
シアの声が思考を中断させた。
リビングの入口にシアが立っていた。ドウマの渡したTシャツを着ている。サイズが合わないため右肩が落ちている。華奢な身体が余計に際立って見えた。胸の形が布地越しに柔らかなカーブを描いている。下着はつけていない。それがわかる。
「着替えがいるな」
ドウマは苦笑を浮かべた。
「それと食糧か。花を食べると言っていたな」
「うん」
「丸二日何も食べていないが、大丈夫なのか?」
「たぶん……」
「たぶん?」
ドウマは眉を動かした。
シアは小さく首を傾げて、胸に手を当てた。
「何か欲しいという感じはしないから――」
大丈夫だよ――にこり、と笑う。
ドウマは無言で玄関に向かった。
シアの答えは当てにならない。大丈夫の根拠が、食欲が無いから――では信用できない。体調が悪くても同じように答える気がする。
「どこかに行くの?」
玄関に置いてあった靴を持ち、ドウマはベランダに移動した。
靴を履きながらシアを呼ぶ。
「シアも連れてくの?」
子供のように笑いながら、シアが近づいてくる。
置いていくリスクと連れ歩くリスクを考えたら、連れ歩く方が危険だろう。シアは目立つ。だが、眼の届かない場所に置きたくはなかった。
「肩に手をかけて」
身を屈めて言う。シアの両腕が首に巻かれた。ふわり、と甘い匂いがした。
シアの身体を抱き上げると、ドウマはベランダを後にした。




