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花鬼  作者: KATSUKI
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第三章  11

 

 少年は眼を開けた。

 白い部屋は常に照明を灯しているが、少年の感覚は今が夜だと告げている。

 理由が無ければ目覚めない。

 天井の監視カメラに眼を向けた。四六時中向けられている視線が途絶えているのに少年は気づいた。機械は機能している。だが、カメラの向こうの眼が存在しない。

 少年は視線に敏感だった。

 生まれてからずっと、いや、生まれる前から監視されているのだ。

 カメラの向こうが見えるわけではないが、見られているかどうかは感知できる。

 少年は身を起こした。

 ドアが開いた。ユミエが立っていた。息が荒い。

 少年は眼を細めた。ユミエから血の匂いがしたからだが、それだけではなかった。きな臭い匂いが少年の鼻奥を刺激した。

 ユミエが少年のベッドに近づいた。ベージュ色の手術着を着ている。肩口のひもをほどけば脱がすことができるものだ。妊娠八カ月の腹部は丸みを帯びている。その腹部から胸の辺りに血が飛んでいた。胸元で固く握られた手。その手には銃が握られている。

 ――何があった?

 ――脳を……

 震えながらユミエが言った。

 ――脳を潰すって。この子の……

 ユミエは左手を腹部に当てた。右手は銃を握っている。グリップを握る指の関節が白い。

 少年は手を伸ばした。

 ユミエの指を開き、銃を取り上げる。きな臭い匂い。それが硝煙の匂いだと少年は知った。ユミエのもたらした百科事典や図鑑の類は、少年に武器の基礎知識も与えていた。

 リリースボタンを押して弾倉を抜く。十五発中残弾は五発。チャンバーに一発。

 ――胎児の時に潰して……再生するか調べるって。ダメならダメでいいって……また作ればいいって……

 腹部を両手で抱えてユミエが言う。

 ――だから……逃げなきゃ……って、監視室を……

 少年は弾倉を銃に戻した。

 身体の上からブランケットを剥ぐ。左の足首には鎖付きの足環がはめられ、鎖の反対側はベッドの脚に繋がっている。

 少年は無造作に銃口を足首に向けた。セーフティはロックされていない。

 引き金を引いた。銃声にユミエが悲鳴を上げる。五発の銃弾が少年の踝で炸裂した。肉が裂け、骨が砕ける。銃をベッドに置いて、少年は足を掴んだ。血に濡れた足を足首から引きちぎっていく。最後に伸びきった神経がぶつんと切れた。

 足を失った足首から足環が落ちる。

 自由になった足首に少年はちぎり取った足を繋げた。シーツを引き裂いて縛りつける。銃を手に、少年はベッドから降りた。残弾は一発。空いた手でユミエの手をとる。

 ――い……痛くないの?

 ユミエの問いを少年は無視した。

 ユミエにドアを開けさせ、廊下に出る。誰もいない。気配も無い。

 少年はこの部屋と検査室しか知らなかった。右に向かえばいいのか左に向かえばいいのかもわからない。検査室なら左だが。

 ――左に行った奥にエレベータがあるよ。

 ユミエが少年の手を引いた。

 ――早く外に出よう……

 ――この研究所の周辺はどうなっている?

 少年はユミエの言葉を遮った。

 ――え……周辺?

 ――外に出るだけで逃げられるのか?

 ――あ……外は広くて何も無くて、まわりは森とかあって……

 どうしよう。逃げられないよ――子供のようにユミエが言う。

 ユミエは裸足だった。手術着の下は何も身に着けていないだろう。仮にまともな服装であったとしても、妊娠八カ月の女が長時間歩けるとは思えない。

 ――移動手段は? 

 少年は訊いた。

 ――地下に駐車場があるけど……

 ――そこに行こう。

 ユミエに案内させてエレベータに向かう。エレベータのドアを開けた瞬間、少年はカメラが復活したことを知った。首筋に張り付く視線。

 少年は無言でエレベータに乗った。他に手立ては無い。

 ユミエは白い貌で小刻みに震えている。ユミエに言ったところで不安にさせるだけだ。

 地下に着き、エレベータのドアが開いた。

 眼の届く範囲に十数台の車。駐車場の通路は右に折れ、その先はわからない。たぶん、別のアクセスがあるのだろう。死角になっている通路の先から男達が現れた。

 白衣の研究員達。さらに制服を着た男達。監視員か警備員の類だろう。

 ユミエが悲鳴をあげた。

 ――馬鹿なことをしたものだ。

 研究員のひとりが口を開いた。視線はユミエに向けられている。

 ――女を捕えて手術室に運べ。胎児を取り出して人工子宮に移す。そこまで育っていれば母体に用は無い。

 研究員の指示に警備員達が無言で前に出る。

 ユミエがいやいやをするように首を振った。

 少年はユミエの前に出た。

 ――気をつけろ。子供の姿だが、化け物だ。

 研究員の指示が飛んだ。警備員達の足が止まる。

 ――腹に二、三発撃ち込め。手足にもだ。その程度では死にはしない。

 警備員達が銃を抜いた。銃口が少年に向く前に、少年は手にしていた銃を持ち上げた。

 反射的に警備員達が身構えるが、少年は銃口をこめかみに当てた。

 驚いたように男達が動きを止める。

 ――それ以上近づけば脳を潰す。

 少年は口を開いた。

 警備員達の表情はそれほど変わらなかったが、研究員達は明らかに狼狽の色を見せた。

 これまで脳を傷つけられたことはない。

 手足を切断され、臓器を摘出されることはあっても、脳と心臓だけは実験の対象から外れていた。

 だが、クローンの脳を潰すと聞いて、本当は脳に手をつけたくてたまらなかったのだろうと少年は知る。同時にそれは、男達の手の中に少年のような実験体が一体しかいないこと、致命的ダメージを与えたくない貴重な実験体であることを少年に気づかせた。

 ――退がれ。

 少年は言った。

 ――クローンができてもオリジナルの脳には価値があるはずだ。

 警備員達が研究員達の顔色を窺う。

 研究員達は逡巡したが、警備員達を引かせた。逃がしたとしても、捕まえるチャンスはあると考えたのだろう。脳に再生機能が無ければ、貴重な実験体を失うことになる。それは避けたかったに違いない。クローンがオリジナルを完全にコピーしているかはまだ確認されていない。

 少年は男達に視線を向けたまま、左手でユミエの手を掴んだ。

 は、と息を呑む。

 ユミエの手が異様に冷たかったからだ。恐怖が自律神経を狂わせている。ユミエの手は指先まで強張り、小刻みに震えていた。

 ――落ち着いて。大丈夫だから。

 少年はユミエに囁いた。眼は警備員達に向けている。

 ――そんな状態では胎児が保たない。

 ――あっ。

 ユミエが悲鳴をあげた。ばしゃり、と液体が床に落ちた。破水したのだ。

 ユミエが少年の手を振りほどいた。

 両手で腹部を押さえ、ふらつくように後ずさった。

 ――離れるな。

 銃声が響いた。ユミエの額に穴が穿たれ、後頭部に抜けた銃弾が脳漿を撒き散らした。

 衝撃が少年の右手に炸裂した。別の銃弾が少年の手に穴を空け、少年が手にしていた拳銃を弾き飛ばした。拳銃は背後にあったエレベータのドアに当たり、床に落ちて、からからと転がっていった。

 ――手術室の準備を。胎児を摘出する。

 研究員の誰かが言った。

 ――実験体は部屋に戻せ。待て。近づく前に手足を潰せ。

 銃声が何回か響き、少年の両肩、両肘を砕いた。大腿にも数発。膝が砕かれ、少年は床に膝をついた。ユミエの身体が倒れている。少年の指先がユミエの身体に触れた。

 銃を構えたまま、警備員が近づいてくる。

 少年に触れようとした。手を伸ばしてくる。

 その動きが止まった。

 少年が貌を上げたからだ。

 警備員の眼に少年の眼が映っている。闇よりも深い。深淵の闇――

 ――ひっ……

 警備員の喉が鳴った。

 その瞬間、少年の貌の前で、警備員の手が指先から黒い塵となって崩れた。

 ――な……っ

 警備員が身体を引いた。その身体が崩れ、悲鳴をあげようとした貌もまた霧散する。

 一瞬であった。

 残りの警備員達もその全身が崩れていく。

 警備員達が立っていた床も天井も近くに駐めてあった車も塵芥と化して、散っていく。

 黒い塵が渦を巻き、驚愕に貌を歪めた研究員達に向かう。

 ――D反応です !

 天井のどこかで、おそらくは監視員の声が響いた。

 ――センサーが振り切れて……

 悲鳴のような声が途絶える。聞いている者はもう誰もいない。研究員達は黒い塵に包まれ、包まれると同時に塵と化した。天井の照明が消え、天井が瓦礫と化し、その瓦礫が瞬時に粉塵となっていく。

 ――WAAAAAAAAAAAA……

 少年は声にならない声をあげた。

 身体の奥から暗いエネルギィが膨れ上がり、広がっていく。

 何もかもを呑み込み――

 半径三キロ圏内が灰と化すのだが、それを少年が知るのは、嵐のような激情が収まってからであった。




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