第三章 10
左手が痺れた。
指先から腕までの感覚が失せていく。
脳の奥で画像がフラッシュした。暗い壁。狭い。塔の内部で下から上を見上げたような画像。太い金属のワイヤーロープ――らしきもの。画像は鮮明ではない。色も無い。
肉眼が見ている画像ではなかった。
左眼は血に濡れた廊下と、階段を上って階段口から出てくるゾンビの群れを見ている。
ドウマはエレベータのドアに眼を向けた。
階段口の対面に設けられたエレベータは、位置表示のランプが消えていた。
電源が落ちているのだ。
磨き抜かれた金属のドアにドウマの姿が映っている。
背後の階段口から溢れてくるゾンビの姿も――
ドウマは右眼を開けた。
ゾンビの動きが止まった。
金属のドアに映ったドウマの右眼は血の色だった。ゾンビと同じ眼の色にゾンビが足を止める。
ドウマは右手の指をエレベータのドアに差し込んだ。かごがその場に無ければドアのロックは解除されない仕組みだが、強引に開け放つ。
死臭が鼻の奥を刺激した。
「よりによってエレベータシャフトか」
唇の端を歪めた。
その瞬間、オリジナルの意識が上を向いたことをドウマは知った。脳裏にフラッシュするゾンビ視点の画像――塔の内部で下から上を見上げたような画像に、矩形の穴が生じ、ドウマらしき影が現れる。影はアメーバのように輪郭が揺らぐ殴り書きのような描線の塊に見えた。気配を無理やり形にしたような画像だ。
(これがゾンビの視覚か)
興味深いが、愉しんでいる時間は無い。
ドウマはエレベータシャフトの中に飛び降りた。
エレベータのかごは一階と二階の間に停止していた。そのかごの屋根部分に、その男はいた。普通の人間に見える。年齢は三十歳前後。すらりと細い身体にスーツを着ている。微かにコロンの匂いがするのは、死臭を隠すためか。
警官を咬むには警官に近づかなければならない。見るからにゾンビではそれはできない。細長い貌は血色が悪く、よく見れば瞳孔は開いているが、この男の姿なら咬みつくまでの時間をごまかすことは可能だろう。
オリジナルの意識がドウマに向いた。
ドウマの左手が動いた。ドウマ自身の喉笛に掴みかかってくるのを、右手で防いだ。引き寄せて、左の手首を口で咥える。左腕が逃げる前に右の掌底で左の上腕部を破壊する。
口を放すと、だらりと左腕が落ちた。
骨は砕け、肉も潰れた。
だが、痛みは無かった。すでに左半身はオリジナルの支配下か。心臓も止まっている。
ドウマはオリジナルに跳びかかった。
右手でオリジナルの頭部を掴む。床に叩きつけようとするドウマの運動エネルギィをオリジナルは背筋だけで封じた。両肩と後頭部が床についたが、叩きつける力は消された。
オリジナルの右手が伸びた。ドウマの首を掴む。気道が塞がれた。
血流と呼吸が止まれば、脳は機能を停止する。その分、ゾンビ化も進む。
オリジナルがにちゃあと笑った。オリジナルの意識がドウマの脳に侵入してくる。
ドウマを完全に支配する気だ。
視界から色が消えていく。
ドウマの眼に映るオリジナルの貌。その貌が薄れ、アメーバのような黒い塊が脳裏に広がった。オリジナルの視点が優位になろうとしている。黒い塊はオリジナルから見たドウマの貌だ。
(受け入れろ)
自分自身の思考のようにオリジナルの思念が湧く。
(われと同化し、われとなれ)
肉体の感覚が薄れ、意識が拡散していく。マンションに存在する全てのゾンビが認識できた。オリジナルの感覚がドウマの感覚になろうとしている。
オリジナルは派生したゾンビを仲間とも従僕とも捉えていない。全て自分だと認識している。
ゾンビに自我は存在しない。
ゾンビ化とはオリジナルとの同化であり、自我を失くすことだ。
呑み込まれようとする刹那、意識の奥底で月の光が揺れた。月光色の髪。
――生きて帰ってシアにキスして
「……われ……ドウマオーマ……」
唇だけを動かしてドウマは言った。
――シア・ラヴィアをわが主とし
――下僕となることをここに誓約する
「主人は……すでにいる。……おまえのものには……ならない」
唇の端を上げて言い放つと、ドウマは右手を支点に足を跳ね上げた。
ドウマの脳に侵入していたオリジナルは身体の反応が遅れた。ドウマの右膝がオリジナルの鳩尾に炸裂する。ゾンビに人間のような痛覚は無いだろうが、腹に衝撃を喰らえば下半身も上半身も反動で前に出る。膝を叩き込んだ力を利用して右腕を引いていたドウマは、床から浮いたオリジナルの頭部に今度こそ右の拳を叩きつけた。
ぐちゃり――と鈍い音がエレベータシャフトの内部で反響した。
この瞬間、オリジナルから派生したゾンビの脳も同じく潰れた。
ドウマの脳も、ゾンビ化していた部分は運命を共にした――
――脳を潰すって。この子の……
遠のく意識のどこかで女の声を聞いたような気がした。




