第三章 9
口を開いたゾンビが涎を溢れさせながら近づいてくる。
ひゅっ――
口笛のような息を吐き、ドウマから間合いを詰めた。
一瞬で彼我の距離をゼロにする。ゾンビに視力があるなら、眼前にドウマの貌を認めただろう。虚ろな眼をしたゾンビの貌に右の掌底を叩きつける。血と脳漿を散らしながら、身体は次のゾンビに向かう。
「……おにい……ちゃん」
腕の中で子供が呻いた。
「気持ち……悪い」
人間の三半規管はドウマの動きに対応できない。
ドウマは動きを止めた。
にちゃあ――とゾンビが口を開く。
あぁ――と小さな声が聞こえた。
ふ、と笑って、ドウマは左腕を振った。子供の身体を背後に投げる。
無数の影が子供の身体を包んだ。影は黒いカラスだった。形は成体だが、サイズが異様に小さい。翼を広げても手のひらほどしかない。しかし、何百何千という夥しい数のカラスが群れを成し、子供の身体を受け止めていた。
受け止めて、あぁ――と鳴く。
黒い羽毛が渦を巻き、カラスの群れが霧のように消えていく。
黒い霧の中から金色の巻き毛が揺れ、天使の貌が現れた。
「よう。レイヴンズ伯爵――」
ドウマは、に、と笑った。
「来たのか」
「ターニャ・マラータに部屋のロックを依頼したろう。ならば住人を護るつもりかと思ってね。手伝いに来たよ」
子供を両腕で赤子のように抱いて、伯爵は言った。
伯爵は五、六歳の子供にしか見えない。その身体で十歳ほどの子供を抱いて、平然としている。見た目はどうあれ、吸血鬼なら鋼鉄を握り潰すほどの怪力を有す。
「では住人の保護はあんたに任そう」
ドウマは笑って言うと、次の瞬間、その場にいたゾンビを瞬殺した。
いや、一体だけ残した。
首を引きちぎりかけ、途中でやめた。足を叩き折って動きを封じる。
袖を捲り上げ、左腕をゾンビの口の前に差し出した。
「何をする気だ。ドウマオーマ」
伯爵が驚愕の声をあげる。
「オリジナルの居場所を知りたい。最初に咬んだ奴がどこかにいるはずだ」
「ゾンビ化して探す気か?」
「全てのゾンビはオリジナルに繋がっているからな」
「ミイラ取りがミイラになるだけだぞ」
「その時はその時だ」
ゾンビが口を開けた。涎が糸を引く。
差し出されたドウマの左腕にゾンビがかぶりついた。
「く――」
ドウマは右眼を瞑った。
口の端から血を溢れさせながら、ゾンビの顎が閉じようとする。ドウマは右手を上げた。
「噛みちぎらせる気は無い」
ゾンビの頭を掴み、握り潰した。ゾンビの身体から力が抜ける。
ドウマは左腕を振った。ゾンビの口が離れた。噛み痕から血が溢れ出てくる。粘ついた涎が血と混ざり合っていた。
「……ドウマオーマ」
伯爵の声に、ドウマは右眼を閉じたまま笑った。
「逃げろよ。伯爵。いつまで正気でいられるかわからないぜ」




