序章 横須賀港の密談
一
横須賀港、海上自衛隊基地――
夜のしじまに、一隻の護衛艦が、錨を降ろして佇んでいた。
護衛艦『ぎんが』――
数日後に、中東方面での情報収集任務という過酷な航海へ出港することとなるその巨体を、今は凪いだ波の上に静かに横たえていた。
風の音と、町の喧騒が、遠く聞こえる。
その、『ぎんが』の鋼鉄の腹の中――
暗く沈んだ厨房に、ぽつんと明かりが灯った。
ステンレスの棚や調理器具が、銀色に鈍く輝いている。
給養員の天野三曹は、中央の大きな調理台を挟んで、目つきの鋭い給養班長、猪瀬一曹と向かい合って立っていた。
「それで猪瀬さん――相談したいことって、なんですか?」
猪瀬の吊り上がった眼に、怪しい光が宿る。
「なあ――今回の任務、中東派遣な……相当、長期間に渡るだろ?」
「そうですねえ、約半年……ですかね? 長いですよね」
「だろ? ビールとか酒類、向こうで調達するのもまた、面倒じゃねえか」
「国内の任務だったら色々やりようはあるんですけどね――向こうじゃ、ちょっと要領得ないですからねえ」
猪瀬は、銀色の大きな調理台の下に右手を突っ込み、
「だからよ――これだ」
ドン!
調理台の上に、大きなポリ袋を置いた。
中には――
大量の食パン、桃、オレンジ、バナナ、パイナップルといった果物が、無造作にぶち込まれていて……
「猪瀬さん……何ですか、これ?」
天野が訊くと、猪瀬は薄い唇の端を、にっ――と歪めて、
「酒をな――造るのよ!」
「ええっ! さ、酒ぇ?」
「おうよ! ここに唾液を入れてな――ボイラーの配管の横に数週間置いておけば、発酵して酒になる、って寸法よ!」
「え――えええええ~っ……そ、そんなんで、酒、出来るんですか? 本当に?」
素っ頓狂な声を上げる天野。
「なんだお前、知らねえのか? 昔の潜水艦とかの常識だぞ?」
「な、な、何ですかその、“潜水艦の常識”って? 聞いたことないですよ、自分は……」
「本当にお前は何も知らねえんだなあ……いいか、パンのイースト菌と、唾液の酵素がどうにかなるのよ!」
「は、は、はあ……」
猪瀬の謎論理に、天野は曖昧な返事を返すしかなかった――
二
「じゃあよ、ここに俺の唾を入れるから、お前も――」
パンと果物の闇鍋状態のポリ袋の口に、猪瀬が顔を差し込もうとする。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 猪瀬さんの……唾ですか?」
天野が、そんな猪瀬を慌てて止めた。
まさに唾を袋に垂らそうと構えた猪瀬が、ぎろっ――と天野を睨む。
「あ? 何か問題あるか?」
「え、その……猪瀬さんの、唾って、いや、それ、ちょっと――」
「何だぁ? 天野、お前、俺の唾が汚ねえ、とでも言うつもりか?」
「あ、いや、えっと、その――参ったな……」
天野が力なく笑う――
すると、猪瀬は、
「馬鹿野郎! お前、『君の名は』観てねえのか? 三葉ちゃんが、唾入れて御神酒造ってたろうが! あれと同じだよ!」
天野の脳裏に、ヒロインの巫女が神事で口に含んだ米を吐き出して酒を造る――口噛み酒の場面が浮かんだ。
「え、で、でも、あれはその、三葉ちゃんが可愛い女の子だったから、その――」
言い募る天野の頭を、猪瀬が、ばちっ! と、ぶっ叩いた。
「バーロォ! 可愛かろうが可愛く無かろうが、唾は唾だ! 同じなんだよ!」
「いってぇ……そ、そーっすかねぇ……」
天野が頭をさすりながら、上目遣いに猪瀬を見詰めた。
「さてと――じゃあ、投入しますかね?」
言うと、猪瀬は再び、ポリ袋の口に顔を近づけ、
ボッ……ボベッ、べッ!
猪瀬の口から、白く泡立った何かが大量にパンとフルーツにぶちかけられた。
――な、何だか汚ねえなあ……
天野の顔が歪む――
唾を吐き終えた猪瀬が、ポリ袋から顔を上げた。
「さあ、天野! お前もやれよ!」
「えっ……え――――――っ? お、俺もっスか?」
「そうだよ。おら、やれよ」
「いや、そ、その、で、でもぉ……」
「おら! 系脱! 主砲撃ち方、よぉ――い」
系脱――主砲を撃つ際、安全装置を解除するための掛け声である。
「け、系脱――って……」
猪瀬の意味不明なノリに、天野は絶句した。
「おら! 系脱だ、系脱!」
ポリ袋を押し付けてくる猪瀬に観念し、天野も袋の口に顔を近づけた。
大量の食パン、バナナ、パイナップルなどの上に、てかてか光る猪瀬の唾液――
「よぉし、いいぞ――しゅほう、テーっ!」
悪ノリする猪瀬の掛け声に、
「べっ……ペッ! ぺっ!」
口をとがらせて、唾の飛沫を飛ばす天野。
「何だお前、シケてんなあ……もっと出せよ、おら、……テーッ!」
くそっ――! 天野は、口の中をもごもご蠢かし、
「くちゅくちゅくちゅ……ぼべっ!」
はあ~……な、何だかなあ……
「おう! よっしゃ、敵艦キル確認! 沈黙したぞぉ!」
がっはっはと、豪快に笑い、猪瀬が天野の背中を叩いた。
「よーしよしよし、げへへ……こりゃあ、数週間後が楽しみだ」
「俺、絶対呑まな……」
「あ? 何だ?」
「な、なんでもありません!」
こうして、怪しい猪瀬の密造酒が、『ぎんが』艦内に仕込まれたのであった……




