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空の底 〜天世界で狼は最強のエースに駆け上がる〜  作者: 塩屋去来
第一章:アルスター王国陥落

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空に魅せられた日





 ブルースが「空」と出会う直前、その魅力よりかは従姉と一緒に行く予定だった「サマー・クライング・レイン」のイースタベリ公演のほうにずっと興味を持っていた。なにしろバンドのかき鳴らすギターリフのつんざく轟音にすっかり魅了されいたし、お姉さんと一緒に行くライブ公演という企画はとても素敵のように思えた。


 ブルース・ケイン。時に10歳。


 その日彼は母方の祖父の葬儀に参列していた。


 少年はひとの死という事象を知らないほど子供ではなかったが、その意味を知るほど大人でもなかった。だから、祖父が亡くなったことを特に感慨もなく受け入れていた。それはさして突然の死ではなかったのもある。祖父は長らく癌で闘病生活を余儀なくされていたし、それに人生の酸いも甘いも十分噛み分けるほどに噛み分けた老齢であった。


 ダヌ神殿は敬虔な信徒であった母に何度も連れられて来ていた。石で出来たその古めかしい建造物はコンクリート製住宅で育ったブルースにしてもなんとなく冷たい感触を呼び覚ますものだった。彼はきっと神様は冷たいひとなんだろうと思っていた。


 女神像の前に、祖父の遺体を収めた棺が置かれている。ここまでダヌ教会がしてくれるのは、それだけ祖父が御国のために尽くしたからなんだよ、とあまり交流のなかった叔父が教えてくれた。祖父は愛国者であった。それを示すように、まるで戦死した兵隊の棺のように、棺にはアルスター王国の双龍旗――対になった赤と青の龍を描いた国旗がかけられていた。彼は実際に退役軍人でもあった。


 参列者は結構多かった――それだけ祖父が敬意と愛を集めていた証なのだろう。


「おお、我らが母なる女神よ、あなたの大いなる導きによって、またあなたの子、ひとつの魂が『空の底』に還ってゆきます。願わくば、その旅路に慈悲のあらんことを」


 ブルースが親族の葬儀に参列したのはこれが初めてではなかった。しかしいつでもその言葉が頭に引っかかった。今回も密やかにお姉さんに訊いてみた。


「ねえ。『空の底』って、なんなの?」


 5歳年上の従姉はそれに頭を撫でながら答えた。彼女にしてもよく分かっていないようだったのだが、それでも少年よりはいくらか大人だった。


「死んだらみんなそこに還るんだって」


 確かに、この世は見上げれば空があるし、見下ろしても空がある。そして生きるべき大地は空の中で浮遊している。それを不思議に思ったこともない。「ムンディアル・シエロ」――彼らは生まれながらにして空の世界の住人だった。


「でもなんで『底』なの? なんで上に昇らないの?」

「そんなの、あたしも知らないよ」


 厳粛な神官が葬儀の呪文を唱える中、ブルースとその従姉はひそひそと話していた。しかしそれでも目立ってしまったのか、前の席に座っていた母が振り返り、言葉にはしなかったが叱責するように彼の頭をはたいた。あまりお行儀がよくないのを分かったので、ブルースはその後はずっと神官様の言霊を(退屈に)聴いていた。


「SCRのライブ、楽しみだね」

「うん」


 祖父の葬儀がライブ当日にならなくてよかった。そんな不謹慎なことを従姉弟たちは考えていた。いや、従姉がそう思っていたかどうかは結局のところ分からないけれど、ブルースにとってはそうだった。


 神殿での儀式が一通り終わると、祖父の棺は、ブルースの父を含めた主だった男性親族によって運ばれ、外に出て行く。それから葬儀の本儀、「空葬」が行われる。一生懸命生きた人間に、敬意を持って行われる行為である。


「でもなんだかおかしい。2年前死んだキッドは焼かれて土に埋められたのに」


 ブルースは生まれた時からの友達だった猫のことを思い出してすこしだけ心が揺れた。そんなことを思い出すのも、この妙にしんみりした雰囲気のせいなのだろう、と彼は勝手に思っていた。


「飼い猫と一緒に『底』に還りたがるひとも中にはいるよ。しかし猫は地の生き物だが、人間は空の生き物なのだ」


 なんとなくぼやいていたブルースに声を掛けたのは、彼の母の兄、つまり叔父であった。彼は神官ではなかったが、そこそこ高名な宗教学者であり、イースタベリ国立大学の助教授でもあった。親族では一番のインテリと目されていた。ブルースはことのほかこの叔父――つまり従姉の父でもあるのだが――にかわいがられていることを自覚していた。


「でも人間には翼が生えてないよ。飛行機がないと飛べない」

「しかし飛ばなくては人間は生きられなかった。だから飛行機を作ったんだよ」

「なんだか、どっちのどっちが先かって話だね」

「ブルースはとても賢い子だ」


 参列者に見送られ、祖父の棺は大地の崖から「空の底」――雲に覆われたその底へと放たれた。参列者はその棺の影が完全に見えなくなるまで目をやっていた。それはブルースも例外ではなかった。


 自分も死んだらああいう風に「空の底」に葬られるのだろうか、と考えるとちょっと身震いした。尿意もちょっと感じられた。なんというか、みんなが言うところの「空の底」は自分にとってはすこし無気味なところに思えてならなかったのだ。


 まだまだ「死」について考えると怖くなる幼い年頃の彼だった。


「誰もがいつかは『空の底』に還っていく。その約束があればこそ、人間は今の生を一生懸命をまっとうできるんだ。それは世界の理なんだよ、ブルース」

「そうなのかなぁ。神様がそういう風にこの世界を作ったの?」

「実際のところは分からない。我らが母なるダヌに祝福されない――ヴァルハラの民も死んだ者は空に還す。空葬は全世界普遍的なものだ。宗教を否定した共産主義者ですら、例外じゃない。私にとってはそれが興味深い研究対象だが……ああ、いや、こんなことをブルースに言っても仕方がなかったな」


 それこそが、我々を空の世界の生き物と定義する証拠である、と叔父は言った。


「じゃあ、『底』の底にはなにがあるの?」

「ブルースはとても頭のいい子だね」


 叔父は講義を続けた。


「結論から言えば何も分かってはいない。『底』から生還した人間はひとりもいないからね。ダヌ教では、『底』には母の大いなる意思に魂が融合されると説いている。ほかの教義では『底』に着いたあと次の転生を待つまでの楽園が存在するともある。唯物論者は『底』には底がなく、ただ永遠に落下するだけだとも言っている」

「うーん。よく分かんないや」

「そう、死後の世界なんて、結局のところ誰にも分かりやしないのさ」


 叔父は職業に忠実なのか、それとも職業に反するのかあいまいなところで答えた。


「ま、子供はまだそんなことを真剣に考えんでもいいさ。それよりも今を精一杯生きなさい。明後日はライブに行くんだろう? 娘のことをよろしく頼んだぞ」

「そんな、お姉さんのお世話になってるのはぼくのほうだよ」


 そんな話をしたあと、ブルースは何故だか急に独りになりたくなった。死のことを考えていたからかもしれない。


 ダヌ教の神殿は空葬を行う手前、そのすべてが島の沿岸に建立されている。そうすると「空の底」にどうしても意識が行ってしまうが、それが怖かったのでブルースは「空の底」ではなく「空の上」を見上げた。


「空、かぁ……」


 しかしそれはもうひとつの意味を示していた。空の沿岸には神殿だけではなく、ほかの施設も利便性の理由から存在するのである。


 神殿の隣にはアルスター王国空軍・イースタベリ基地があった。それ自体はブルースも知っている。初めて来た場所ではないからだ。


 だが、この時こそ――


「うわ、あれ!」


 それは緊急発進(スクランブル)ではなく通常の哨戒任務だったはずだ。しかしブルースはここから実際に戦闘機が発進し、飛ぶのを見たのは初めてだった。耳をつんざくような離陸時の轟音はすぐに空の上に消えていった。彼が思っているよりも戦闘機というものは大きかった。一人乗りの飛行機なんてそんなに大きくないだろうと思っていたのである。


 その大きな銀翼が思うがままに空を()けるのを、ブルースは興奮と共に見ていた。それは「サマー・クライング・レイン」のCDを従姉に借りて聴いた時以来の衝撃だった。いや、そんなものよりもっともっと、稲妻に打たれたかのような、全身が痺れるようなショックを覚えていた。そしてそれは心地よくもあると同時に怖いものでもあった。


「そら……そらが……」


 ブルースはあうあうと口をあんぐりと開ける。あの空を――あの翼で自由に飛べたらどんなに気持ちいいことなのだろう? ブルースはその戦闘機の機動をずっとずっと、遠くに行って豆粒のようにしか見えなくなっても眺めていた。


 空って、なんだろう?


 そこには快感があるように思えた。震えるほどの滾りがあった。それは少年が男になる時の、決して避けては通れない興奮のようでもあった。


「ああいう風に飛びたい、な……」


 その名も無き戦闘機パイロットの、特に緊急でもない出撃(ソーティー)。平和の空に飛ぶその軌跡、機動は簡単にブルースを魅了した。


 この年頃の少年が空に、戦闘機に魅せられることなどさして珍しい話でもないだろう――だがこの時確かにブルース・ケインの人生は決定したのであり、それは同時に史上最強とも謳われ、あるいはもっと単純に、狂気の、とも言われたエースパイロットが誕生したそもそもの始まりであった。

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