009:Cryptoclearance
任務の本懐を忘れてはいけない。アルスター王国空軍は血を望む軍ではなく――この時は輸送船団の護衛が目的である。
そして空賊も目的は虐殺ではなく金である。
初めての実戦にあって、ブルースは自分でも恐ろしいほどに冷静だった。もっと戸惑うものだと思ったが、そうではなかった。あるいはまだ、現実感を持っていないだけかもしれない。
「〈ランスロー8〉、敵機を視認できるか」
「まだです、〈ランスロー1〉」
隊長がそんなことを聞いた意味がよく分からなかった。こちらを落ち着かせるためなのか。
「あたしにも見えません、タイチョー」
「〈ランスロー7〉、きみには聞いていない」
「なんですか、その差別」
ミーティアはぶうたれていたが、すくなくとも彼女も怯えている訳ではないようだった。とはいえ無闇に明るくてもいけない状況ではある。
空の冷たさをいやに感じる時だった。だがそれこそが心地よくもある。血が冷えていくような感覚――それは空に上がった時はいつでもあった感覚。それが今はなにか自分を頼もしく思えるようだった。すくなくとも緊張して熱くなるよりは、よほどいい。
「自分の眼を過信するな。計器でよく観測しろ。難しく考える必要はないぞ。訓練通りにやれば必ず生き残れる」
確かにそれは何度も口酸っぱく言われてきたことだった。
HUD画面に敵機が示された。急速接近。どんどん数字が下がっていくのが、まるで自分の運命をカウントダウンしているようだった。そしてブルースは自分が集中して狙われていることに気付いた。
時間がひどく緩慢になっているような気がする。それだけ感覚が研ぎ澄まされているというのか。怯懦はない。昂奮もない。
「ぼくが敵機を引き付けます」
「無茶はするな、〈ランスロー8〉」
「狙われているのは間違いないですから」
ブルースは戦闘機動を開始する。レッドアラートが鳴り続ける中、強力に感じるGはなんとも心地いい。もちろんやられるつもりはない。出来ればミーティアが敵を倒してくれればいい、と思っていた。
「〈パーシヴァル3〉が墜とされた!」
誘導弾を回避するだけで必死。しかし必死さこそがブルースを駆り立てた。彼は初めての実戦にあって、すぐに戦士になっていた。もっとも今は逃げ回っているだけだが。
「〈ランスロー7〉、発射!」
ミーティアの苛烈で美しい声が通信で響いた。AWACSから送られてくるリアルタイムデータで彼女が1機撃墜したのをブルースも確認した。
「やった! ……やった?」
ミーティアの声には珍しく戸惑いの色が見られた。仕方ないのかもしれない。これが彼女にとってのファーストキルなのだから。
「童貞卒業おめでとう、〈ランスロー7〉」
「レディに向かってなんてことを言うの!」
〈ランスロー4〉の軽口に合わせている辺り、すでにその混乱からは抜けているようだった。機動も安定している。それどころかどんどん鋭くなっていく。彼女はパーティーの主役になりつつあった。彼女と踊るパートナーはたいへんだろうが。
「ナイスキル!」
ブルースは言った。
「ナイスキル、ねぇ」
ミーティアは冷静だった。ブルースが同じく冷静であるように。ふと思った。自分がこの状況で冷静にいられるのは彼女のおかげなのではないかと。
「〈ランスロー8〉が引き付けてくれたおかげだよ」
それから彼女は続けた。
「きみも早く童貞卒業しなよ」
「ぼくはそんなに焦ってない」
「童貞卒業するのはいいけれど、処女喪失はしちゃダメだよ」
「そういう下品なジョークは、好みじゃないな……」
「文句は最初に焚き付けた〈ランスロー4〉に言ってよね」
冗談を言い合っているが、死線にいるのは変わりない。
ブルースは相変わらずアラートがなる中で回避機動を続けていた。危うい一発があった――彼は一回だけ、敵の誘導弾、炎の槍のようなものがコックピットを掠めかけるのを視認した。それでもまだ怖くはない。異常なほどに、怖くはない。なにかが麻痺しているような気がする。
それが実戦なのか。
「どうやらきみたちには空戦の適性があるようだな」
初陣でここまでやれる新人などみたことがない――と〈ランスロー1〉は言った。褒められているような気分にならないのは何故だろうか――人殺しの才能がある、と言われているようなものだからか?
「〈ランスロー8〉、貴官も攻撃に移れ、一気に畳みかけるぞ」
戦闘は優勢に進んでいた。空賊が弱かった訳ではない。彼らはそれなりに練度の高い部隊であった。だがそれ以上にミーティアが圧倒的な戦闘力を発揮していた。
「奴だ、奴を止めろ!」
そんな敵の通信も傍受できる。
「止められるもんかァ!」
負けていられないな、とブルースは心で感じた。そして彼女が目立つに従い、状況も変わってくる。空賊はミーティアを狙い始めたのだ。機体の性能はほぼ互角――となれば純粋に腕が試されるところ。簡単に彼女が墜とされるがないとは思っていた。
「食い付かれているぞ、〈ランスロー7〉!」
そして今度は自分が彼女を助ける番なのだ。
2機が〈ランスロー7〉の尻に接近している。ここでブルースは危険を承知で、ある機動を試みた。変則ヘッドオンとでもいうべきもの。彼は前からミーティアと交錯し、ぞの頭上を掠め、敵に対して精確な誘導弾を放ったのである。ヒット。2機同時撃墜という芸当だった。だが彼自身はそれがどれほど凄まじいことなのか分かっていない。普通のつもりだった。すくなくともミーティアよりかは、普通だ。
「やるじゃん!」
しかしその彼女に称賛されると悪い気はしなかった。初めての人殺しなのも、今は気にならなかった。機体に乗っての空戦では「殺している」という実感が湧かないせいかもしれない。しかしこれで彼もまた、「空の底」に戻っても祝福されない咎人になったのは確かだった。すくなくともダヌ教の教えではそうなっている。
「なんだ、あの2機は……」
ミーティアは急旋回し、ブルースと翼を合わせた。
「助けてくれてありがと、ブルース」
彼らは並行して飛行する。もっともそれは一瞬だけのことだった。またアラートが鳴り響く。敵も簡単にやられる気はないらしい。
「〈ランスロー7、8〉! 狙われているぞ! 散開せよ!」
注意したのは〈クラウンズサイト〉だった。よく見ている。かれらはすぐに交差してから離れ、急上昇。一瞬だけ眩しい太陽がちらついた。それはすぐに逸れていき、しかしブルースはさらに高みを目指す。
血が冷えた感覚はまだ残っている――変わっていないのかもしれない。変わったのは慣れのほうだった。連続した戦闘機動がすこしずつ彼の感覚を狂わせていく。平衡感覚も、速度も、そして死の香りも。そうだ。今は生死を分かつ戦いをしているはずなのだ。なのにそれが麻痺している。まるでそこが自分のあるべき場所であるかのように――
ブルースは敵機の中から飛行を乱している機体を見つけた。それに食らい付く。それに気付いたのか、向こうも回避機動を取り始めた。左右に振られる。同時に振ってもいる。すこしずつ高度は下がっていた。しかしその内に尻をつかみ、通常誘導弾の射程に入る。ロックオン。発射。
「〈ランスロー8〉、敵機撃墜! いいぞ、そのままだ!」
彼には空賊の戦闘機は遅く鈍く見えた。その理由を誤解していない。空賊は決して弱兵ではなかった。にもかかわらずそう見えたのは、つまり、比較対象が彼のずっと追っていた天才、ミーティアだったからなのだった。
ブルースが1機墜としている間に、その天才は2機屠っていた。彼はその哀れな敵機が「空の底」に落ちていくのを見やっていた。
空戦はやがて一方的なものになっていた。
「野郎ども、新人に遅れを取るな!」
〈ランスロー4〉の叫びが友軍全機の通信に響いた。もちろんブルースも聞いていた。それだけ彼と、それ以上にミーティアの戦果が傑出していたのだった。ブルースは必死に状況に食らい付いていたに過ぎない。緊張すら置き去りにして。しかしミーティアはそこで天性の才能を発揮しているように思える。
だが戦闘はそこで終わりを告げた。状況不利を悟った空賊の戦闘機部隊は撤退していったのである。残っていたのは僅か3機その内ミーティアが5機墜とし、ブルースが3機墜とした。すくなくとも、この1戦だけでミーティアが「エース」の称号を勝ち取ったのは明らかである。
「戦闘終了。各機、通常航行に戻れ」
〈クラウンズサイト〉の冷静な声が響く。アルスター王国空軍の戦闘機パイロットたちは技術的にも精神的にも練度は高く、すぐに編隊機動に戻った。その中にはもちろんブルースとミーティアも含まれていた。
こちらの損害は〈パーシヴァル3〉のみ。完勝と言っていいが、墜ちてしまった彼にしてみればたまったものではないだろう。しかし生き残らなければ不平をこぼす口すらも失われてしまう。
つまりブルースたちが身を投じた「空」とは、そういうものだった。
戦闘が終わって初めて、彼はその恐ろしさに気付いた。冷えた血にも。なんて恐ろしいことをしてしまったのか――
「生き残ったね、ブルース」
「ああ、そっちも」
それをすこしでも和らげてくれたのはミーティアの存在だった。だが彼女の声もすこし震えているように思える。彼女もまた、戦場の冷厳な現実を突き付けられて蒼ざめているのかもしれない。
「怖かったよ」
「ふぅん? ミーティーでも流石に怖がるんだな」
「そりゃ怖いよ。ブルースは怖くないの」
「もちろん、怖かったさ」
この恐怖を乗り越えた先に「自由な空」があるとするならば――
それは果たして、人間が手に入れていいものなのだろうか? 彼はそんな疑問を初めて持った。




