第9話
光りの中から現れた俺、というよりルシルに男は警戒心を強め、一歩間合いを取り左手を胸元に当てた。
「空大に存在せし大気の精よ、我が身に宿り賜え」
詠唱を終えると男の全身が一瞬淡い緑色に光った。恐らく何かしらの術によって自身を強化したのだろう。俺が戦う訳ではないが、次に一体どんな攻撃が来るのか考えて緊張してしまう。
「ふっ!」
男が息を吐いたと思ったら既に一撃目の斬撃が目の前に迫っていた。体を動かしているのが俺だったら何が起きたのかも分からず斬られていただろう。しかし、俺の体は、ルシルは迫りくる刃を右手で掴んで止めた。白刃取りなんてものではなく、明らかに刃を握っていたが手は一切の傷を負っていない。よく見ると右手が白く発光しており、恐らくそれのお陰で刃を防げたのだろう。一体どんな能力を使ったのかルシルに尋ねたいところではあるが、今は目の前の敵を倒す事に集中してもらおう。
「速いだけで俺を倒せると思うなよ」
剣から手を振りほどこうと力を入れる男を見てルシルは余裕そうな笑みを浮かべ、右手に力を込めて剣にヒビを入れる。
「ちっ!」
男は舌打ちをして剣を手放すと、サマーソルトを放つ。ルシルは蹴りを難なく躱すが、左頬に痛みを感じ左手を当てて見ると血が出ていた。
「鎌鼬ってやつか?面倒くせぇ攻撃だな」
ルシルは右手の甲で頬の血を拭って振り払うと同時に握っていた剣も後方に投げ捨てる。不可視の風の刃をどう凌ぐか考える間もなく男は次の攻撃を放ってきた。離れた距離で腰に構えた右拳による正拳突き。男の目的は殴打ではなく風を操った攻撃だろう。ルシルは先ほど剣撃を防いだ時の白い光りを両手に纏わせて防御の体勢に入った。しかし、今回の攻撃は剣撃や鎌鼬といった直接的な傷痍を与えるものではなく、拳から発せられたのは強烈な風圧だった。予想外の攻撃にルシルはバランスを崩してしまう。
「覚悟しろ!」
男は一気に間合いを詰め、大きく広げた両腕を前方で交差させるように振るうと、鋭利な風の刃が俺の体を引き裂こうと迫って来た。風の刃が見えた訳ではないが、直観的に分かった。
「(ルシル、避けろ!)」
咄嗟に叫んでいた。攻撃が来ている事も、避ける場所が無い事もルシルは知っているだろうが叫ばずにはいられなかった。脳内に響く俺の声にルシルは口角を上げて笑った。
「良いぜ、そうやって必死に足掻いていこうぜ!エフィム!」
声を張り上げると同時に発光させた右手を突き出して風の刃を断ち切った。壁や床に大きな傷を残したが、俺の体には傷一つ付いていない。
「何!?」
男が驚愕して一歩たじろく瞬間、ルシルは素早く詰め寄って右手で男の顔を掴んだ。その拍子にフードが外れ、男の顔が露わになる。ブラウンの短髪に切れ長の目をした男の表情は始め驚愕していたが、次第に憎悪を浮かび上がらせる。
「俺を殺したいならもっと強くなって出直すんだな!」
「クソがっ!」
ルシルは右腕を振りかぶって男を投げ飛ばすと同時に右手から男の全身を包み込む程の白い光線を放ち、壁を突き破って彼方へと消し去った。
光りの照射は数秒後、徐々に勢いを失っていき最後には消滅した。俺が目の前の出来事に唖然として何も言葉が出せないでいると、ルシルが片膝を着いた。
「(お、おい、大丈夫か?)」
「(ああ、少しはしゃぎ過ぎただけだ。疲れたから交代な)」
意識が揺れる感覚がすると、俺は自分の体を動かす事ができるようになっていた。辺りを見渡すと目に入って来るのは傷だらけの床や壁、そして床に倒れているマルカの姿だった。俺は急いでマルカの傍へ行き、抱き起す。
「マルカ!おい!」
外傷は見当たらず気を失っているだけなので暫くすれば目覚めることは分かっていたが、今は直ぐにでも目を覚まして欲しいと思った。戦闘の興奮がまだ収まらないのか、いつもの笑顔を見て安心させてほしかったのだ。
「ん……」
俺の願いが通じたのか、マルカは直ぐに目を覚ました。それで安心してしまったのか、感極まって抱きしめようとした寸前で俺は平常心を取り戻し、いつもの抑揚のない声でマルカに声をかける。
「無事か?」
「う、ん……あ、エフィムこそ大丈夫!?何があったの!?」
初めはぼんやりとしていた様子だったが、直ぐに気を失う前の記憶を思い出したのだろう、体を起こして俺の正面に座り直すと顔を近付けて状況の説明を求めてきた。
「その傷どうしたの!?待ってて、直ぐに救急箱持ってくるから!」
俺が状況を説明するより早く、頬の怪我を発見したマルカは立ち上がって駆け出して行ってしまった。まったく慌ただしい妹だ。俺は腰を下ろして壁にもたれ掛かり、ルシルと会話を始める。
「(なぁ、少し良いか?)」
「(どうした?)」
戦闘で疲れていると思いきや意外にも平気そうな返事が返って来て少し安心する。
「(……今日中に儀式を済ませて、出来れば天使を探しに出掛けたい)」
先ほど起きた戦闘を思い出し、荒れた自分の家を目の前にして、俺は今すぐにでもこの場を去りたい気分だった。今回は怪我をするには至らなかったが、マルカを戦闘に巻き込んでしまった。悠長にしていてはまた家族を巻き込んでしまう。そうなる前に天子としての儀式を終わらせ、教会から家族に護衛をつけてもらいたい。
「(ああ、俺は一向に構わねぇよ。寧ろエフィムが行動的で嬉しいくらいだ)」
「(そうか。じゃあ早く出掛ける準備をしないとな)」
立ち上がろうとして体に力を入れた瞬間、ルシルの意地の悪い声が脳内に響く。
「(エフィムってもしかして戦うの好きか?)」
一瞬硬直した後に脱力して再び壁にもたれ掛かって溜め息を吐く。息と共にやる気も出て行ってしまっている気がする。
「(そんなわけないだろ。どうしたらそう見えるんだ?)」
「(いやぁ、さっきの戦闘じゃ見事なくらい思考が回ってたなぁと思っただけさ)」
そんなに思考が回転していただろうか。攻撃を躱すことに必死でよく覚えていない。それより、さっきの戦闘について俺も聞きたい事があった。
「(右手から出したあの光はなんだよ。凄い威力だったけど)」
自分の手からあんなものが出たとは信じらず、右手を握ったり開いたりしてみるが特に変わった様子はなかった。
「(俺は光を司る天使だからな、あれぐらいできるさ。敵だって拳から風を起こしてただろ?)」
言われてみれば男も風を操って攻撃してきたな。しかし、マンガやゲーム等で使われる術のようなものが現実に有り得たとは驚きだった。
「(おいおい、まさか天使が石や棒切れを持って戦うのを想像してたわけじゃないよな?それに天使が地上に住んでるご時世だ、人間が何らかの方法で術を使えるようになってても不思議じゃない)」
どうやら俺が思っているほど世界は平凡ではないようである。今後のためにも自分の知っている常識はあまり当てにしないよう気を付けるとして、早いところ荷物をまとめよう。重い体を両腕と両足に力を入れ、どうにか立ち上がらせて自室へと向かった。