第9話「新たな兆し」
――数分前まで、村の広場は戦場のようだった。
だが今は、静寂が支配していた。盗賊たちは震える足で逃げ去り、地面には水の飛沫の痕跡と、わずかな緊張の名残だけが残っている。
「……やったのか?」
誰かが、ぽつりと呟いた。
その言葉を皮切りに、村人たちはいっせいに歓声を上げた。だがミナトは、それを背にしながら地面を見つめていた。濡れた土。散った水滴。その中心に立つ自分の足――。
「これが……俺の力……?」
自身の手のひらを見つめる。その表面に、もう水は残っていない。だが感覚は、まだ指先に残っていた。まるで、今も水の精霊が囁いているかのように。
「ミナト!」
リーナが駆け寄る。顔には安堵と驚きが混ざったような表情。彼女の視線は、ミナトの掌と、水の針が突き刺さっていた地面を交互に見ていた。
「大丈夫? ケガは……ないよね?」
「うん、平気だよ。そっちは?」
「私は何もしてないから……でも、あの技……すごかったよ。あれって、精霊の泉の力なの?」
ミナトは静かにうなずいた。
「たぶん……正確には、“泉の許し”みたいなものを得て、ようやく形になった感じかな。泉の前で、何かが“応えた”気がしたんだ」
リーナの目が真剣になる。
「じゃあ、ミナトは……もう“使える”んだ。魔法が」
「魔法かどうかはわからないけど……たぶん、そうだと思う」
ミナトは言いながら、自分の胸の奥にある感覚をたしかめる。何かが、静かに目覚めはじめていた。泉で得た水の気配。それが彼の中で、まだ眠りきっていない。
「なるほど……」
老人の声がした。振り返ると、長老が杖を突きながらゆっくりと歩いてくる。目元の皺が深くなり、眼差しには複雑な色が浮かんでいた。
「お主が“選ばれた”ということか……いや、呼び起こした、か」
「……長老?」
「精霊の泉は、誰にでも力を与えるわけではない。あれは、ただそこにあるだけじゃ。許しを得ぬ者が近づけば、たちまち迷いを飲み込まれてしまう」
ミナトは、ふとあの泉の深淵を思い出した。あの瞬間、確かに自分の中の“何か”と向き合わされた。自分の弱さ、喪失、そして希望――。
「だが、お主は答えを出した。だからこそ、力が宿ったのだ」
ミナトは黙ってうなずく。
「この村にとって、“異能”を持つ者が現れることは、吉兆と同時に災いの兆しでもある。今回の盗賊も、外からの“風”が吹き込んだからこそ招かれたもの……。お主がここに来なければ、村は平穏を保っていたかもしれん」
「……それでも、俺は来たかった」
静かに、だが迷いなくミナトは言う。
「ここで、何かを始めたかったんです。自分の居場所を、見つけたかった」
長老の表情が柔らかくなった。
「……ふむ。ならば、お主がここに来たことが“正しかった”と証明するがよい。お主の力で、村を守り、人と交わり……そして、この先の世界を見極めよ」
ミナトは深く頷いた。
そのとき、鋭い鳥の鳴き声が村の上空を貫いた。
見上げれば、巨大な黒い鳥が旋回していた。翼を大きく広げ、こちらをじっと見下ろしている。まるで、何かを監視するような眼光。
「なんだ、あれ……?」
リーナが声を上げる。
ミナトは目を細め、ただ静かに呟いた。
「誰かが、見ている……」
黒い鳥は旋回を終えると、山の方角へと飛び去った。
その場にいた全員が、不思議な予感を覚えた。
――外の世界も、動き始めている。
*
その夜、村は小さな祝祭のような空気に包まれていた。
盗賊たちの撃退。守られた塩と水。そして、目の前で初めて見た“奇跡”。
村人たちは小さな酒を持ち寄り、焚き火を囲んで語り合っていた。子供たちはミナトを囲んで、「すごかった!」「水が剣みたいだった!」と目を輝かせていた。
リーナが膝を抱えて座りながら、ミナトを見つめる。
「なんだか、もう村の英雄って感じだね」
「いや、そんな大したもんじゃないよ」
ミナトは苦笑しながら言うが、リーナは首を横に振る。
「ほんとに、そう思ってる? あんな風に誰かを守れる人、なかなかいないよ」
その言葉に、ミナトは少しだけ黙りこんだ。
「……俺は、昔。誰かを助けられなかったことがある」
リーナの目がゆっくりと見開かれる。
「今でも、時々夢に見るんだ。その時、自分に“何か”できてたらって。でも、できなかった。……だから、ここではちゃんと、誰かを守りたかった」
「……ミナト……」
リーナがそっと、彼の手に触れた。
「じゃあ、もう叶ったね。ちゃんと、守ったじゃん」
ミナトはゆっくりとリーナを見る。揺れる焚き火の光の中、彼女の瞳はどこまでもまっすぐだった。
「……ありがとう」
彼は小さく笑った。
夜が深まるにつれ、村は再び静けさを取り戻していった。
焚き火の火がパチパチと音を立てる中、ミナトは一人、泉のほとりに座っていた。
星が瞬く夜空。その光が、水面にゆらゆらと映っている。
「……これが、俺の始まりなのかな」
誰に向けるでもない言葉。だが、泉の奥で、小さく波紋が広がった。
まるで、その言葉に“応えた”ように。
ミナトはふと、自分の胸の内に問いを立てた。
「……この力を、どう使えばいいんだろうな」
風が吹いた。泉の表面がかすかに揺れる。
その波の向こうで、何かが呼んでいるような気がした。
――まだ見ぬ場所。
――まだ知らぬ世界。
彼の旅は、ここから始まるのだ。