43.7 損切りを見せつけられる転生者
撤退を決めたのは、戦場が崩れたからではない。
むしろ逆だった。
包囲は保たれていた。
兵はまだ動ける。
親衛隊も、損害こそあれ、壊滅には程遠い。
だからこそ、カイルは退くべきだと判断した。
「――ラングレー将軍」
仮設幕舎の中で、カイルは地図の上に置いた指をゆっくり引いた。
城塞都市を囲む輪。その一部を切り、退却路へと繋げる。
「包囲は解く。主力は撤退準備に入って」
対面のラングレー将軍は、眉一つ動かさなかった。
ただ、その沈黙は反対ではない。理由を聞く前の沈黙だ。
「理由を伺っても?」
口調は平静だった。
その実、半分は確認で、半分は儀礼だ。
将軍自身、もう分かっているのだろう。
カイルは肩をすくめた。
「城への補給が成功した。たとえ少量でも、あれで士気は戻る。
それに、補給が来たってことは、本隊も近いって向こうは読んでる。いや、読んでなくても近い」
「ふむ」
「士気が落ちてるなら押し切れる。けど、上がってるなら話が変わる。
門から打って出てくる。外の救援も寄ってくる。そうなると――」
カイルは地図の上で、輪の外と内から二本の線を引いてみせた。
「挟まれる」
ラングレー将軍が、低く頷く。
「二重包囲は避けたい、と」
「うん。嫌だよね、あれ。見た目も悪いし」
軽い調子で言ったが、言葉の中身は重い。
包囲する側が逆に包囲される。戦場で一番、絵面の悪い負け方の一つだ。
ラングレー将軍は、そこで初めて少しだけ視線を上げた。
「殿下」
「何」
「いえ。……その判断自体は、私も妥当だと考えます」
それは、将軍としてはかなり踏み込んだ言葉だった。
だが同時に、その先に続くものも読める。
「ただし?」
「ただし、です」
ラングレー将軍は、地図の上から手を離した。
「この撤退で、あなた様が“第一市民代理”の称号を失う可能性はあります。
元老院は、勝ちを求める。第一執政卿閣下もまた、敗北よりは、見映えのする勝利を望まれるでしょう。
そうなれば、次の候補――第三公子へ話が流れるやもしれません」
静かな口調だった。
だが、その静けさがかえって重い。
第一市民代理。
元首たる尊厳者の後継、その仮の席。
兄が夭折して以来、カイルに与えられている称号だ。もっとも最近では、面倒がって“代理”を省く者も多い。
その省略が、逆に政治の曖昧さを増している。
カイルは、少しだけ笑った。
「まあ、その可能性はあるね」
あまりにあっさり答えたので、かえってリュシアの方が眉をひそめた。
「殿下」
「だって仕方ないじゃない。
ここで欲張って主力決戦なんかして、軍を壊したらもっとまずい。称号どころか命も飛ぶ」
そして、少しだけ首を巡らせる。
「それにさ。命婦が出張って来たんだから、少しくらいお目こぼしあるんじゃない?」
リュシアが、呆れたように目を細めた。
「そこでその言い方をしますか」
「するよ。だって実際、あれは“ただの局地補給成功”じゃない。
向こうの変な……いや、妙な象徴が動いた。だったら、こっちも“そこそこ善戦した”扱いにしてもらえる余地はある」
軽口めいているが、ラングレー将軍には分かる。
これは願望ではない。政治勘だ。
敵に“名のある者”が出てきたなら、こちらの失点は少しだけ薄まる。逆に言えば、それだけ向こうが本気だという証にもなるからだ。
ラングレー将軍は、しばらくカイルを見た。
その眼差しには、値踏みと、わずかな感心が混じっていた。
「……承知しました。撤退準備を進めます」
「うん。お願い」
だが、そこで話が終わりそうになった瞬間、カイルが続けた。
「だから、取り敢えず逃げるね」
一瞬、幕舎の空気が止まる。
リュシアが、額に手を当てた。
「その言い方をやめてください」
「事実でしょ?」
「言い方の問題です」
ラングレー将軍は何も言わなかった。
ただ、敬礼もせず、踵を返して幕舎を出ていく。
何も言わないということは、言うべきことを言い終えたということだ。あるいは、言っても仕方がないと見切ったということでもある。
その背を見送りながら、カイルは小さく息を吐いた。
「……まあ」
誰に向けるでもなく、呟く。
「上に立つ者の勤めくらいは、果たさないとね」
「何か?」
リュシアはそう尋ねながら、カイルの横顔をちらりと見た。
軽口を叩いているようで、目だけは妙に静かだ。
「いや。君も、ボクとは違うルートで、さっさと逃げた方がいいよって」
「……検討させていただきます」
返ってきた言葉は、妙に硬かった。
いつもの皮肉でも、上官向けの社交辞令でもない。
“聞き流しはするが、従う気はない”と分かる硬さだ。
「……やっぱり、愛想尽かされたか」
肩をすくめたカイルは、私物をまとめ始めた。
書類は最低限。地図は丸める。不要な装飾は置いていく。
手際が良すぎて、まるで最初からこうするつもりだったみたいだった。
◇ ● ◇ ● ◇
「……すまん、で、なぜ君たちがここにいるの?」
甲冑を起動させ、簡易天幕の外へ出たカイルは、そこで足を止めた。
朝靄の中、数体の甲冑が既に整列している。
その脇には、各機につく僚兵たちまで揃っていた。
逃げるには、あまりにも立派すぎる陣容だ。
カイルは、先頭に立つ親衛隊士官を見た。
そういえば、まだ名前を聞いていなかったな、と今さら思う。
「申し訳ありませんが」
隊長格の士官は、姿勢を崩さずに答えた。
「我々の任務は、殿下をお守りすることですので。
特に、お逃げになるのでしたら、なおさら重要かと」
「……ああ、そういう理屈」
カイルは少し肩を落とし、小さく息を吐いた。
「まあ、仕方ないか」
そう呟きかけて、視線がもう一人に止まる。
「でも、君はなんで?」
そこにいたのは、リュシア・エーデル中尉だった。
彼女は平然と答える。
「ええ、“たまたま”脱出の時間が同じだっただけです」
「あー、その、危険だから……」
「あら殿下」
リュシアの声は美しい。
だが、その声音には妙に逆らいにくい迫力があった。
「逃げるんですよね。
でしたら、どちらへ逃げても危険でしてよ」
その一言に、親衛隊士官たちが一様に視線を逸らす。
あまりに正論で、しかも言外の意味が露骨すぎたからだ。
――あなたの作戦なんて、お見通しです。
そう言われたも同然だった。
カイルは苦笑する。
「……君、最近ますます容赦ないね」
「殿下が最近ますます分かりやすいだけです」
リュシアは、そこで話を変えるように続けた。
「それはそうと、ラングレー将軍から伝言です。
『殿下の策は、あと一歩だったようです。例の命婦、先日のお茶会で振る舞った芋を、救荒食として持ち込んだらしい』――とのことです」
「例の男爵芋か……」
カイルは、わずかに天を仰いだ。
「王国で言うところの、油断してたら女王になった、ってやつだな」
それは、彼の中の“別の言葉”を、この世界の成句に置き換えた表現だった。
瓢箪から駒とか、青天の霹靂とか、そういう類の。
リュシアは、少しだけ口元を緩める。
「ええ。命婦が女王になった、とでも申しましょうか」
「はぁ……」
カイルは、ため息をついた。
だがその顔は、本気で困っているというより、少しだけ楽しそうだった。
「まあ、いい。取り敢えず――あっちに逃げるよ」
彼が示したのは、共和国への退路――とは真逆の方向。
王国側。
これから乱戦になるであろう、最も危険な方角だった。
だが、誰も驚かなかった。
親衛隊士官も。
僚兵たちも。
リュシアでさえ、ただ「やはり」と言いたげに目を細めただけだった。
驚かなかったことに、逆に驚いたのはカイルだけだった。
「……え、そこまで読まれてた?」
「殿下」
先頭の士官が、初めてわずかに笑みを見せた。
「我々は、殿下をお守りする任を負っております」
「うん」
「ですから、殿下が“真っ先に逃げる”と仰った時点で、どこに向かわれるのか判明しました」
「言いたい事はわかるけど、納得したくないなあ」
カイルは苦笑しながらも、甲冑へ手をかける。
逃げる。
確かに逃げる。
だが、最後に敵の鼻先を殴ってからだ。
それが、上に立つ者の勤め。
少なくとも、今の彼はそう考えていた。
ふと、子供の頃にDVDでみた怪獣特撮映画のラストを思いだし、縁起でも無いなと思いつつも、宣言するように全員に告げた。
「我々は、自由に向かって逃亡する」
親衛隊員が一斉に共和国式敬礼を返す中、リュシアのみ思い詰めたような表情をしていた。
次回、4/30 木 9:30投稿予定です。




