1話「新生活と性癖と」
ウミウシという生き物をご存知だろうか。
如何にも解説が始まりそうな書き出しをしたが、こんな小説のページを開くようなお人だからきっと大丈夫だろう。割愛させていただく。読み手を信頼するというのは書き手にとって最も大切なことだからである。たとえ分からなかったとしてもお手持ちの端末でググってほしい。なんかいっぱい出てくる。これこそ文明の勝利というやつである。
「私はウミウシの擬人化のドタバタコメディーが見たくてこのページを開いたのに全然本編が始まらない! あと読み手をどうにかして笑わせようとする必死な感じが寒い! 」
とページを閉じるのは待ってほしい。待ってほしい。今からもう本編のスタートだ。あと作者は大阪人であるためその辺りはご理解いただきたい。話はそれるが、もともと作者は同じ大阪人にさえ「お前の言うことは寒い」と凍りついた表情で言われるほどのギャグセンスの高さである。今はまだ発揮できていないが、これからその才能を爆発させていこうと思う。
だいぶ遅くなってしまったがいよいよ本編。の前にあと少しだけ。本編に大きく関わることだから安心してほしい。
『すらぐ荘』の話である。
擬人化されたウミウシが集まって暮らす家であり、二階建てアパートのような見た目をしているがドアは一つだけ。つまり大きな一室、ということだ。まあもちろん中に入れば小さい個別の部屋に分けられているのだが。ちゃんと個人部屋、風呂、トイレ、キッチンなど、生活に必要な部屋や設備は整っている。そこで複数の種類のウミウシたちが暮らすのである。いわゆるシェアハウス、というものだ。
初めにさらっと「擬人化されたウミウシ」と書いたが、なぜウミウシが擬人化するのか。
知らん。そこまで考えて創作をしていない。もともと原形が好きで何か創作をしようと考えたが、ウミウシ同士の関係性を描くときに原形だと動かしにくかった。それだけのことである。
ここまで読んでくださった辛抱強い方、もしくは寒さに耐性のある方はお気づきだと思うが、あまり細かくこの作品を見ない方が楽しめるだろう。何しろ「ウミウシ擬人化日常コメディー」である。一般の小説と比べればまあまあぶっ飛んでいる方ではなかろうか。しかしそこが趣味でする創作の良いところだと作者は思っている。ぜひ頭のネジを一本取ってから次のページをめくってほしい。
雑な手書きの地図を手に、イシガキリュウグウウミウシこと、イシガキは足を進めていた。日差しはちょうどよく、歩いていても苦にならない気温である。まるで今日から始まる新生活をあたたかく照らすような陽の光であった。同時にイシガキの額から生えた深い緑の触角と、それよりかは明るい緑とオレンジのストライプがついた服もまた優しく照らされていた。イシガキはそれを穏やかに想った。
が、目的地に着いたイシガキの顔はたちまち曇った。まず、ボロい。そして、ボロい。あと、ボロい。
『すらぐ荘』とマジックペンで書いてある厚紙に紐が通されており、ドアに吊るされている。『すらぐ荘』と書かれてはいるが、ドアは一つしかなく、薄汚れて変なグレーに染まっている。
(ここ、全部で一室なのか……? てかそれ普通に一戸建てじゃ……)
イシガキは不思議な気持ちでもう一度ドアをじっと見る。やっぱり汚い。でも、自分はここで暮らすしかない。一話目なので言っておくが、特に深刻な問題や理由があるわけではなく、そうしないとこの『うみうし駐在』の話が進まないからだ。
(とりあえず開けるか……)
銀のドアノブを回す。ガチャ、と音を立てた。ドアを開けた途端、いかにも元気そうな女性の声が響く。
「こんにちはー!! 新入りの人~!? 」
赤色で、うっすら黒い斑点のある髪の毛。長いまつ毛。右目の下にほくろのような黒い点々が横並びに五つ、ついている。フェイスペイント、というやつだろうか。そして髪と同じような、赤地に黒い水玉模様のカーディガンを着ている。
そんな女の子がぽつっと一人で部屋の真ん中に座っている。なぜ真ん中か。それは、
「…………おい、なんだこれは。」
「ゴミ。あふれんばかりのゴミ。」
「豚小屋」という言葉がある。汚い部屋に向かって言うことで、文字通り豚小屋に見立てている言葉である。
おそらくこのすらぐ荘内部は世界のどんな豚小屋よりもゴミが散乱している。というか、豚は実は綺麗好きであるし、まず動物なんだから小屋が汚くたってしょうがないだろうと作者は思う。ちなみに作者の部屋は豚小屋並に綺麗である。
「何がどうなったらこんなにゴミが溜まるんだ! 」
あまりのゴミの量に、イシガキはその女の子に掴みかかって怒鳴った。その激しさを軽く受け流すように、水玉の彼女は答える。
「ゴミの日知らないんだよね~」
「調べろ! ……ったく、引越し早々なんで俺がこんなことを…… 」
「! ねえ見て見てー!! 」
「あ? 」と機嫌の悪さを最大限に出したイシガキをまったく気にしない様子で、女の子は雑誌をバサッと広げた。
「Hな本見つけた~」
見ると、どのページにも裸、もしくはそれに近い姿の女体が艶めかしいポーズで並んでいる。二人はペラペラとページをめくり、この女性が可愛いだの、どこがそそるポイントだのとしばらく楽し気に言い合った。
「ねえねえ、このお姉さんお胸すごいよー! 」
「馬鹿、女は胸よりも顔だよ。」
「君、面食い? 」
「そうじゃねえよ。顔というか……まあ、表情だな。泣き顔とか怯えた顔とか最高にそそ……って違ーう!! 」
バシッ。イシガキの平手打ちが水玉の彼女の左頬に決まった。彼女は目を丸くして大声を出した。
「なんか間違えたの!? 」
「お前が間違えてるんだよ! こんなの見てる場合じゃないだろ、掃除だ掃除! 早く片付けろ! 」
けたたましく怒鳴った後、イシガキは大きなゴミ袋を持って少し離れたゴミの山脈へと向かった。ぽつんと残った彼女は、
(普通に痛い)
とちょっと赤くなった頬をさすって渋々片付けの続きに取りかかった。でも、なんだか愉快だと彼女は感じた。イシガキは割と初めからうるさく自分を怒ったけれど、片付けはなんだかんだ真剣に手伝ってくれて、途中でエロ本まで一緒に見て語り合って、それでまた怒られて。そんなことが全て、彼女にとって面白かったのである。
彼女は近くにあった丸い紙ゴミを、ゴミ袋にポイポイ、と投げ捨てた。そしてゴミがなくなり、何か月ぶりかに見えた床を雑巾で掃除しているイシガキの方を見てふふっと軽く笑った。
五時間後。
「ねえ新入りさん見て、すごいテキトーな時間の描写。」
「やめろ。片付いたからいいだろ。」
イシガキが訪れたときの、世界のどんな豚小屋よりも汚いような部屋はもう一つもない。床も足が映って見えるほどピカピカになっている。
「そういえばさ」
女の子は変わらず明るい表情でイシガキの方を向いた。
「なんだ? 」
「片付けてたらこんなの出てきたんだけど」
そう言って彼女が持ってきたのは、深緑のバッグ。彼女がジャッとバッグのファスナーを開けると、
真っ赤な太いロウソク、少しチクチクするような手触りのロープ、如何にも作り物っぽいピンク色のいわゆるそういう玩具、手錠、猿轡……完全に「そういう感じでああいう人を悦ばせるセット」がそこにあった。
イシガキは静かに言った。
「それ俺のバッグ。」
「……引いたか? 残念だけどこれが俺……」
「なんで? 引かないよ? 」
イシガキはえっ、と意外そうな、自分だけに聞こえる小さい声を漏らした。確かに目の前には、あどけない、何も邪険に思っていない笑顔の少女がいる。彼女はイシガキを手で指し、言った。
「それが君の、一つの『個性』じゃん? だから、全然おかしくない! 」
屈託のない、綺麗な笑顔だとイシガキは思った。どこか救われたような気にもなったかもしれない。イシガキはフッと力の抜けた笑みを漏らし、その笑顔に返した。
「汚物女かと思えば、なかなか面白い奴だな。」
(汚物女……)と少しの引っ掛かりを覚える彼女の前に、イシガキは手を差し伸べる。
「イシガキリュウグウウミウシだ。イシガキでいいぞ。」
「! アタシ、イチゴジャムウミウシ! ジャムとか、ジャム子って呼んで! 」
ジャム子はイシガキの手を勢いよく、ぎゅっと握った。お互い、綺麗な笑顔だった。
「あっ、あのっ! 」
横から投げ込まれた細めの声の方を、二人は同時に向いた。すると、その客人は少しびくっと体を硬直させ、二人を上目遣いで見た。あざとさはなく、本気で怯えているようだった。ウェーブのかかった長い緑の髪に、重たそうな緑のニットとロングスカート、少したれ気味のぱっちりとした目。いつ入ってきたのか、女の子がそこにいるのである。その子は、ぐっと思い切ったように口を開いた。
「あ、あの……すらぐ荘って、ここ……でしょうかっ! 」
2話につづく