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笑止千万  作者: 曲瀬樹
第三期 あけぬなづきの海
38/42

第三十五話 地下室にて

 控えめに扉を叩き、しばらく中の様子を伺う。それでもまだ何にも返ってこないから、もう一度叩こうと手を上げた時、ばたばたと足音がして、びっくりした私があげた手を戻す前に、開いた扉の奥からぽかんとした顔が現れた。紫色の両目が瞬きをする。それから、紫色の目の持ち主、まもるは、声の出し方を思い出すように、ちょっと喉が詰まったような顔をしてから、


「やあ、こんばんは……いや、おはよう、ですかね」


 と、突然やってきた私に向かって、肩をすくめてみせた。


***


 俺が部屋の扉を開けたとき、部屋の中で茜が立ち上がった。髪を下ろして寝る支度をしてはいるが、何かを待っていたような風だった。黒髪に囲まれたその顔の中で、朱色の両目が恐れに痛々しい形で見開かれ、俺を、俺のことだけを見つめていたのがわかったとき、腹の底から強烈な感覚が沸き起こった。俺は彼女に近寄ると、その腕を掴んで引き寄せ、彼女を自分の腕の中に抱え込んだ。彼女はぞっとしたように背中を強張らせると、めいっぱいの力で俺のことを突き飛ばし、自分自身もよろめきながら後ずさる。カーペットの上を足がすれる音がする。


「なに」


 その声の震えに目が覚めたような気がして、俺は寝言のように覚束ない声で、


「見てきたんだ。君が今まで見てきたものを」


 と、泣きそうに言った。彼女は困惑した表情のまま、俺の顔を見返していた。彼女に向かって、俺は何か決定的なことを言いたかった。けれど、彼女に最もふさわしい言葉をかけてやろうと頭を回すほどに、頭痛のするような散々な記憶の一部が頭の中を駆け巡り、俺の唇はわなわなと震えるだけだった。それでも俺が彼女の両手をとることができたのは、彼女に「俺の話を聞こうとするような」風情があったからだった。俺はこちらを見つめたままの彼女の手を持ち上げ、己の額に捧げ持った。


「俺は君のことを少しずつ、少しずつ知っている」


 知っているんだ、と吐き出された空気の震えと、俺の手の中でだらりと垂れた、彼女の死体のような手。


「信じてくれ」


 俺は祈るようにそう口にする。部屋の冷たい空気の中に、俺の体温が溶け出し始めた。



***



「彼女は語るだろうか。ネクラーソフの詩のように」


 僕がそう呟くと、書架のすぐ下で椅子に座った彼女は、読んでいた本を閉じる。


「決まってる」


 彼女の両目はこちらを向いた。


「彼女は必ず話します。伝えます。彼女の物語を」


 僕と目が合うと、彼女は微笑んだ。


「だって彼女は、彼女の物語を追ってきてくれる人を、本当は、待っていたから」


 彼女の真摯な言葉のひとつひとつに、僕がなんだか気恥ずかしくなって目をそらすと、彼女は微笑んだまま目を伏せ、手元の赤黒い装丁の皮表紙を撫でた。


「いつだって、誰だって、みんな本当は、自分の心の一番奥を開け渡せる人を探しているんです。胸の奥に飼っている、誰にも見せることのできなかった、秘密のもの。ことによっては、醜悪かもしれないもの。そういうものさえ、誰かが抱きしめてくれることを、夢見て」


 彼女の手の内にあるその本は、ここ何日かの間に、彼女にとってますます価値あるものとなったようだった。


「そんなものがない人なんていません。いえ、違います。そんなものがない人のことを愛したって、愛したことにはならないんです」


 そういってうっとりと微笑む彼女に、僕の中に批評めいたいたずら心が湧き出した。


「君は、愛ってものを必要以上に崇拝してるんだね。危ないぜ」

「あなたは私の言うことを信じてくれるんでしょう」


 彼女は、また僕とばっちりと目を合わせる。迷いのない、得意げなそのまなざしってのに、僕は弱い。


「私のことを、信じずにはいられないんでしょう」

「君はどこにだってメスを入れたがるな」

「褒めてくれているんですか?」


 彼女は僕をからかうみたいに笑う。


「……君は生粋の破壊者だね」


 と僕が冗談っぽく毒づくと、彼女は眉毛をハの字にして笑った。


「作るためには、まず壊さなきゃいけないんです」


 彼女がもうひとつ瞬きをしてからこちらを見、ね、と小首を傾げた時、僕は、ああこれは本当に恐ろしい女性なのだな、と今更ながら思ったのだ。



***



「誰から、何を聞いたの?」


 茜の口調は冷たく問いただすような調子のままだったが、しかし彼女が俺と会話を続けようとしてくれているということに、俺は大きな喜びが胸の中に広がるのを感じ、それを噛み締めた。


「聞いたんじゃない……見てきた、いや、そうじゃなくて」


 と、まごつく様子の俺に彼女は眉根を寄せる。


「『読んで』来たんだ……いや、そうだ。これは君に──君は、本棚がいっぱいのところに行ったことはあるのか? かすみの部屋のドアを開けた奥に……いや、ドアを開けると、そこに繋がるんだ。暗くて、ランタンだけが照らしているんだけど、天井が全部、窓になっていて……」


 彼女が、俺の言葉の全てについて到底理解できない、というように困り果てた顔をしたから、俺は


「行ったこと、ないのか」


 と、項垂れた。そうすると、彼女はますます不安そうになって、腕を組む。


「本当なんだ……とにかく俺はそこで、読んだんだ。君がどういう風に、今まで生きてきたのか、そういうのが書いてある、君の本なんだよ……焼けた家の上を歩いたり、俺の知らない──きっと俺より前に君のそばにいた男や女だけど──そういうやつらと話をしたり、売春宿みたいなところや裁判所にいたり、何か、綺麗な身なりの男に、聖書を、読まされたりして……」


 と、そこまで言って、あのおぞましい記憶に俺が閉口し、なんとかまた口を開こうとした時、彼女の口元がわなわなと震えているのが見え、やがてその口から


「どうやって……?」


 と、かぼそい声が聞こえた。うつむいてなんとか見てきたものを思い出そうとしていた俺は、顔を上げ、そこにあった彼女の目を見た。


「どうしてそんなことを……?」


 彼女の声は「信じられない」という色合いを帯びていたが、それは、彼女が俺の話を今にも「信じようとしている」ことの表れだった。


「誰にも、話してない」


「見て来たんだ。本当に……。もしくは、『読んで』きた」


 俺は辛抱強く彼女の目を見て言葉をかけ続けるが、彼女は困り果て、組んでいた腕は解けてだらりと身体の横に垂れた。俺は、放心したようなその表情に驚きながら、彼女の手を取ろうとしたのをやめて、でも、と口を開く。


「見た記憶はとても断片的で、それがどんな風に繋がるかもわからなかった」


 彼女は俺の肩越しにその向こうを見ているようだったから、俺は彼女の目線を捉えようと、彼女の顔の真正面に立って、言葉を続ける。


「だから、わかっているようで、よくわからないんだ。知っているようで、どうしてそんなことになったのか、俺にはよくわからない。けど」


 と、そこで俺は一度息を吸った。


「こんなものを、君一人じゃとても抱えきれないってことは……」


 そこまでいって言葉を一度止め、だからさ、と俺は続ける。また彼女に拒絶されるんじゃないかという恐れで、俺の背中は、全財産を賭けて勝負する賭博師みたいに強張っていた。


「君の口から、君の言葉で聞かなくちゃならないんだ」


 そう言い切った時、どこか遠くを見ていたように思われた彼女の目が、今度こそほんとうに、実際に、俺の目の前で、俺のことを見た。


「話して欲しいんだ。君がどんな風にして、今まで生きてきたのか。そうして話すってことが、きっと君の救いになるんだ。君が自分の言葉で話さなきゃ、だめなんだ。だから……」


 俺の言葉を受けとってこちらを向いた彼女の顔の中の朱色の両目が、暗い部屋の中で星のようにきらめいた。



***



 私がカップから顔を上げると、


「レモンの蜂蜜漬けです。お好きでした?」


 と、まもるが私に向かって微笑んだ。私は、彼のいる地下室の肘掛け椅子に座って、貸してもらった毛布を被って、飲み物を出してもらっている。口の中にあったとろっと甘いのを飲み込む。


「……おいしい」


 と口にすると、まもるは


「でしょう? でも、入っているのはレモンと蜂蜜だけじゃなくって──レシピは秘密なんです」


 と、冗談ぽく笑ってみせる。そうして口の中の唾を飲み込んでから


「……ごめんなさい、こんな時間に押しかけて」


 と、ずっと思っていたのに言えずにいたことを私が口に出すと、まもるは


「いいえ」


 と首を振ってから、


「でも、そうですね。びっくりしました。なんだか随分と……思いつめている様子だったから」


 と、口元に笑みを保ったままうつむいた。それからまた顔を上げ


「何か相談事ですか? 困ったことでも……?」


 と優しい口調で聞いてくれるから、私は勝手に泣きそうになる。今困っていることをまもるに話してしまおうかと思って、けれど、やっぱりやめて、開きかけた口をつぐむ。唇がそれからまた解けた。


「具体的なことじゃ、ないの……」


 と、私は春待ちゃんのことを思い出しながら、それを頭の中で脇に避ける。確かに、部屋を出てくる時はそういうつもりだった。春待ちゃんのこと、茜のこと、それだけじゃなく、これからここで暮らしていくことの全部が上から降りかかってくるみたいで、不安で、どうしたらいいかわからなくて。だから、そういうことをどうやったら解決できるか、うまくやれるのか、まもるに相談すると私は心に決めていたはずだったんだ。けれど、こうしてまもると面と向かって、毛布をかけてもらって、あたたかい飲み物を飲んでいるうちに、私は自分のほんとうの気持ちがわかった。ずっと私の心の中にあった、ほんとうの気持ちだ。私は、まもるに、春待ちゃんや茜のことを解決してほしくてここに来たんじゃない。そうではなくて、私は不安な気持ちを軽くしたくて、好きな人にそばにいて欲しくて、まもるに会いに来たんだ。


 そう気づいた瞬間、私のほっぺはじんわりと熱くなって、口はますます強張ってかたまる。そんな私を見て、まもるは困ってしまったように肩をすくめる。それから、


「じゃあ」


 と声を出した。


「外に出てみるのはどうです? ここでじっとしているのは、あんまりいいとは思えません。歩いているうちに、頭の中がすっきりしてくるかもしれませんしね」


 私がきょとんとして彼の目を見返すと、まもるは、はにかんだ。


「外とは言っても、この地下通路の奥にある場所です。とても華やかな場所とは言えなくて申し訳ないけれど、俺のとっておきの場所なんです。どうですか? 行ってみませんか」


 と、まもるは私の目を覗き込んで、子供のご機嫌を取るみたいに眉毛をハの字にして問いかけた。私が小さく頷くと、まもるはほっとしたような顔で、


「じゃあ、飲み終わったら出発しましょう」


 と言って、脇に退けてあった自分のカップを手に取り、あたたかい蜂蜜レモンを口に含んだ。



***



「どこから話せばいい?」


 と足を投げ出してベッドに座った茜に問いかけられ、出窓に寄りかかった俺は、


「……君の、子供時代から」


 と、自分の興味が湧いたまま口に出す。彼女は困ったように肩をすくめたが、それから俯いてしばらく考えると、その口は次第に喋るべき言葉を含んで、解け始めた。


「海の近くに住んでたわ。あんまり綺麗じゃない海。少し離れたところには工場からの廃水が垂れ流されてるようなさ。お父さんとお母さんには、あんまりに海に入るなって言われてた……。けど、言われて聞く子供じゃなかったし、暑くなったら毎日みたいに飛び込んでたな」


 俯いた彼女は、自分の記憶の中の風景に沈み込むようにして、背中をかがめた。


「兄さんと弟がいたの。どんな友達より一緒に遊んだ」


 と、彼女の声がぽつりと部屋の中に浮かんでその余韻が消えた時、彼女が俺のことをちらりと見た。


「でも、もういないの。誰もね」


 俺は彼女の朱色の目が揺らがずそこにあるのに胸が苦しくなり、いつのまにか彼女の次の言葉が流れ出しているのに、数秒してから気づいた。


「大きな火事があったのは知っている? 堺の方、工業地帯」


 俺は頭を巡らせ、どこかで聞いたのかもしれない火災を思い起こそうとする。そうして俺が記憶を辿っているのをこの表情の中に見たらしく、茜は、


「十年も前のこと。私がまだ、九つだったとき……年も暮れの頃だった。寒かったから覚えてる」


 と、言葉を続けた。



***



 と、まあ、彼女は彼に向かって自分の過去をずっと同じ調子でぽつぽつと話し始めた。彼女の言葉と彼の相槌を起こったまま延々書いて行きゃあいいのかもしれないけど、それもあなたにとってはあんまりいいことじゃない気がするし、ここは僕が引き取って、ある程度彼女の言葉を省いたり、引用したり、彼女が見た当時の光景を再現したりしながら、代わりに話していこうと思う。彼女は、理知的なようでいて、自分自身のことを物語仕立てにして目の前の人間に話すということがどうにも得手じゃないらしく(僕ならいくらでも喋れるのにね)、彼女が話してる間、夜が永遠に続くんじゃなかろうかって、彼も彼女も思っているくらいだった。永遠だとして、きっと彼らふたりにとっては絶望的な意味での永遠じゃなかったのだろうけど、それでもこのお話に使える文字数ってのは限られているのだし、次の話やその次の話まで、彼女の人生について話しているわけにも行かないんだ。だから、僕がこういうやり方をすることをどうか許して欲しい。僕ら、もう友人だろ? そしたらさ、僕のこんな頼みくらい、聞いてくれないかな。今までだって、色々わがままを聞いてもらったのだし、あなたはもうへっちゃらだろ? まあ、ぶつくさ言ってないで本題に入ろう。彼女の物語は、僕が上手く端折ったところで、長く重たいことに変わりはないんだから。


 それじゃあ、とうとう本題だ。お話はここから始まる。彼女の生家は、海のそばだった。工業地帯に隣接した、労働者たちの住宅密集地に、彼女ら五人家族は住んでいた。両親はふたりとも働きづめで、年が離れた兄が彼女と弟の面倒を見ていた。裕福ではなかったが、おそらくはありふれた類の、幸福と言われるような家庭と言えるだろう。幸福なんてのは、他人に決められるものじゃないのだしね。


 悲しい出来事の始まりは、家の近くの工場での爆発事故だった。日が傾き始めた真昼間、鼓膜がイカれるような爆音と共に、冬の街に稲光のような白い閃光が走った。嘘のようなその白い一瞬は、彼女の脳裏に今でも焼き付いている。その閃光の後、工場から燃え上がった火は、乾いた冬の空気の中を走り抜け、隣り合っていた住宅街へと瞬く間に広がった。火事が起こった時、彼女はちょうど兄と一緒にいて、岬で釣りをしていたんだ。彼女は海辺で爆音を聞き、兄に「そこにいろ」と言い含められて、両親と弟がいる街の方へと戻っていく兄の背中を見送った。彼女は兄の言葉を常に信じていたし、ただならぬ事態に身もすくんで、夜が来て、遠く上がっていた黒煙が消えてもずっと、そこでひとり待っていた。凍えてかじかむ手を擦り合わせながら、兄のお下がりの男の子向けの上着の上から両腕をさすって、兄や両親が「もう大丈夫だ」と自分のことを呼びに来てくれるのを待っていた。真っ暗な星空の下、彼女は岬で寝ずに過ごしたんだ。けれど最後、誰も彼女のことを呼びには来なかった。遠くにサイレンの音が聞こえて、人の声がして、けれど海はいつも通り穏やかで、彼女は「真っ黒な海の、波の音だけを聞いて心を落ち着けた」。


 夜が明けた次の朝、彼女は消防車や軍の車両が入り乱れる残骸の中に入っていって、とうとう焼け落ちた住宅街を見た。瓦礫の降り積もった一面残骸の景色。実際のところ彼女は、どこが自分の家であるかもわからなかった。ただ、鼻にこびりつく異臭、つまりは人の焼けた匂いが、木の焼けた灰の向こうに漂っていたのを、彼女は忘れられない。


 家族という寄る辺を失った彼女がそれからどうしたか、ここからが話の主題となってくる。彼女の両親は有り体に言ってよそ者で、北陸の家を出奔して都に逃げ延びた恋人たちだった。彼女は両親伝には身寄りがなくて、実際のところ彼女自身、家族以外には自分の親戚というのをひとりも知らなかった。


 しばらくの間、彼女は災害支援の避難所である公営の体育館で過ごしたけれど、その後、外国籍の非営利団体に引き取られる。身寄りのない子供たちの自立を支援するボランティア団体だ。もっとも、国内においては邦人がその主席についていて、組織としてはある程度この国に帰化するような形になっていたわけなんだけど。その主席であった男は、魅力的なはにかみを持つ好人物で、理事の職を務めながらも自らメディアに露出し、「子供好きのおじさん」としてそのキャラクター像を確立していた。


 ただ、「子供好き」な理事には醜悪な習慣があった。彼は、自分の団体が保護した身寄りのない子供たちの中から、お気に入りを一人選び出し、その子を自分の「使い」にすること──つまりは、その子供を性的に虐待すること──を水面下で繰返していた。彼は決まったひとりを自室に招き、聖書の文言を覚えさせる。そうして覚えさせたその文言を、自分との性行為の際、儀式のように唱えさせるのだった。彼は敬虔な信者である一方で、見るに耐えない生理的な欲求を児童にぶつける醜悪な怪物であった。


 使いに選ばれた子供は、女児ならば初潮と共に肉体関係を終える。けれど、男児ならば彼がその容姿を気に入らなくなるまで「儀式」の贄にした。そうして、初潮が来るか、もしくは飽きるまでその子供と交わり続け、それが終われば他の子供と取り替える。理事長はその取り替えっこを十三人も繰り返していたという。


 そして、当の彼女もまたその十三人の中のひとりであって、理事長に対する務めを終えた後、少女期を抜けないうちに、理事長の不法行為の証拠を抹消するように、帝都の売春宿に売り払われた。彼女はその売春宿の、この世の一番底のような場所で、売り払われたときの金額を借金として返す形で身を売ることになった。


「私があのじいさんの何番目だったかは知らない」


 と、彼女は彼に向かって話した。


「でも、施設から売春宿に移って二年かそこら、その頃に、迎えが来たの」


 彼女の中でかの理事長にまつわる生々しい記憶が不確かな夢に思われ始めた頃、とうとう彼の悪事は暴かれた。誰より子供を守るべき人間である彼が、いたいけな子供たちを相手に十数年にわたって虐待し、それを繰り返していたという刺激的なスキャンダルは、大いに帝都人の好奇心や正義感を騒がせた。そうして大掛かりな裁判をともなって、ほとんどエンターテイメントのような様相を呈しながら、彼への裁きという一大行事は進行していった。そういった勧善懲悪のシナリオの中で、検察側が見つけた大いなる証拠、それが、彼女だった。


 理事長に虐待を受けた子供たちの中で、彼の逮捕後も「生きていて」、なおかつ、「証言のできた」被害者、理事長を裁くために検察が証人として見つけることができた当事者というのが、唯一彼女だけだったのだ。他の子供については大半が消息不明。数人の居場所がわかったものの、彼らはとても事件について口をきける状態ではなかった。そのような悲惨な状況の中で、─彼女の初潮が平均よりも早く訪れたという偶然もあって──不幸にして強い造りをしていた彼女は、もっとも自身を保ったまま生きていたのだ。


 上下揃いのグレーのスーツを身に纏った女性検事は、


「私は正義を信じているの」


 と言って、彼女の手を握った。


「あなたの発言は、これから苦しむかもしれない誰かのことを、救うかもしれない。そのひとにとって、大きな助けになるかもしれない」


 今にも泣き出しそうな様子でそう息巻いた検事の熱情に、彼女は喉が詰まるような息苦しさを覚えながら、けれどその手を振りほどくことができなかった。


「あなたの力が必要よ」


 検事のその言葉に、彼女は頷かざるを得なかった。頷かずにいることができるだろうか。もしも断ったなら、「あなたの中に正義はないの?」と、むせび泣かれそうな剣幕であったのだから。かくして、彼女は裁判というエンターテイメントの舞台に上がることとなる。


「それからはまた最悪だった」


 と、彼女は自嘲気味に笑いながら彼に向かって話した。


「私の中ではもう終わったことだったのに、あのひとたちは私の過去のことを何もかも掘り返すのね」


 彼女はそこで膝を抱え、自分のつま先を見つめていた。


「裁判が終わるまではずっと、法廷でも、外でも、可哀想って言われるために生きてるみたいだった。誰もが、最悪の人間と、それに虐げられた可哀想な子供の両方を求めているのね。そうして、自分の感情の肥やしにするの。可哀想って言って、そう言うことによって、気持ちよくなる」


 彼女はそこで自分の顔を膝にくっつけてうなだれた。


「地獄みたいだった」


 裁判は三年続き、理事だった男は長年にわたる罪の数々を暴かれ、懲役二十五年となった。事件は決着がついたとされ、大衆の注意の波は事件や彼女自身からあっという間に引いていった。裁判中、検察に保護されていた彼女は、彼らの仲立ちを受けて児童養護施設に移される。けれど、彼女はそこでの生活になじめず、二ヶ月ほどでそこを脱走する。


「それから、私の復讐が始まったの」


 そう言った彼女の両目は爛々としていて、彼女の話をずっと聞いていた彼は、彼女に悟られないようにと、密かに生唾を飲み込んだ。



***



 薄暗い地下道に、私とまもるの足音と、まもるが持っているランタンの持ち手が擦れる音が聞こえている。


「何か、相談してみる気にはなりましたか?」


 と、まもるに問いかけられて、私が答えられないでいると、先を歩いていたまもるの背中が笑った。


「別に、いいんです。君のタイミングでね。でも、もしかしたら力になれるかもしれませんから……」


「……うん」


 私の相槌は足音の間に消えていって、地下道はまた足音とランタンの音だけになった。しばらくそうして黙って歩いていた後で、まもるは、俺はね、と、柔らかい声で話し始めた。


「太陽の光のないこの場所では、ひとは、正気でいる方が難しいんじゃないかと思っているんです。誰だってずっとこんなところにいたら、変な気分になります。憂鬱になって、もうお先真っ暗、みたいにね」


 まもるの声は笑っていたけれど、そこには誰かを馬鹿にするような感じは全然ないのだった。


「そうすると、君は随分と頑張っているんじゃないかと思うんですよ。俺は」


 急に自分のことを言われて、私は、自分の心臓が一寸飛び上がったような気がした。


「君はそれこそ、太陽みたいなひとだ。明るくて、微笑ましくて……」


 私は、まもるの後ろを歩きながら、顔が真っ赤になっていくのを感じていた。何もうまく返せる気がしなくて、そのまま黙っていることに決めた。


「でも、誰だって不安になるんです。こんな街にいたら……君だってそうでしょう。そう見せないように頑張っていたって、駄目な時は駄目だ」


 まもるは振り返らない。振り返らないまま、話してくれる。私はそれをものすごい優しさだと思った。そして、まだ二度くらいしか話をしたことのないこのひとが、私のことをしっかりと見ていてくれたんだってことに気づいて、苦しいくらい胸がいっぱいになった。


「でも大抵のことっていうのはきっと、絶望するほどじゃないんです。『お先真っ暗』だとどんなに思えてもね」


 彼の言葉の終わりは、優しい笑い声に弾んで、短い呼吸の後に綺麗な響きが続いた。


「この世界はきっと、俺たちが見ているよりもずっと、美しい」



***



 彼女は、自らの果たした「復讐」について話し始めた。


「なんて馬鹿らしいんだろうと思ったの」


 こんな風に、誰かの感情を満たすための商品みたいになっていることがね、と、彼女は言って、自分の髪の先を弄んだ。


「私は、顔も知らない、そもそも、この先ほんとうに存在するかもわからないような『誰か』のために、正義っていうようなもののために、自分の身を売ったのよ。でもね、馬鹿だった。誰かのためになんて言って、馬鹿正直に表に出て行ったのが間違いだった。黙っていればよかったんだ。あの検事の手を振りほどいて、そんな馬鹿なことはまっぴらだって、ほっといてくれって、もう私のことを傷つけないでって言って、ずる賢く黙って、泣いて同情を買えば、きっと売春宿の借金だって払ってもらえたでしょう。でも、そのときの私はそうしなかった。ほんとうに、馬鹿だった」


 彼女はそう言い捨ててから、その顔に不気味な笑みを浮かべる。


「だからね、もう『誰かのため』なんて気まぐれの偽善はやめようと思ったし、私をこんな最悪なことにした社会に従って生きるのはやめることにしたの。ううん、それどころじゃなかった。私の過去のことや、あのじいさんがどんな風に私とセックスをしたのか、そういうことを知って、可哀想って言葉で自分の体裁を守りながら、ほんとのところは心底そういうポルノを楽しんでるような連中のことをね、今度は私の方が、思うまま逆に傷つけてやろうと思ったの。そうやって、あの施設を飛び出した」


 彼女はそれから、家を持たずに帝都の中を歩き回るようになった。彼女はそれまでの経験上、どうやら恵まれているらしい自分の容貌への自覚と、それまでに培ってきた男のあしらい方でもって、路上で知り合った男をたぶらかし、彼らの家に次々上り込むようになった。謎めいた危うく小悪魔的な少女を演じれば、寝床にそう困ることもなかった。


 彼女は男の部屋に上がり込むと、自分の身体を使ってそれなりに相手をしてやってから、男の気が緩んだ隙に部屋から金目のものを盗んで姿を眩ませた。不幸なことに、その小規模で小賢しい復讐は、彼女の要領の良さも手伝って上手く運んで行った。そうして何度も成功を繰り返すうち、最初は男の財布から金を抜く程度だったのが、男の身分証を抜き取るようになり、さらには時間が許す限り部屋中のものを物色するようになった。そうして色々な男のところを練り歩くうち、彼女は帝都のごみごみした区画においては、ある意味有名な女になっていった。


 そうした状況を肌で感じるうち、彼女が自分の縄張りを別の場所に移しかけた頃だった。雨の日、陸橋のすぐそばにあった電話ボックスで電話をしていた青年は、そこを出ようとした瞬間に奥へと押し込まれた。笑いながら男にじゃれつくようして入って来たのは彼女だった。


「寒いね」


 と彼女は言って、濡れた髪の下から男の顔を見上げた。男は露骨に嫌な顔をした。けれど、彼女はそのくらいでは諦めなかった。


「家出して来ちゃったんだよね」


 彼女はそこで、悲しそうな色合いを心持ち自分の頬に漂わせ、微笑むのだった。嫌な顔をしていただけだった男はたじろいだ。男は彼女を押して一緒に電話ボックスを出て行き、傘を開いて、彼女に向かって傾けた。


「小銭を貸してやろうか」


 男は、彼女が電話代を自分にたかっているのだと思ったのだ。けれど、彼女は財布を取り出そうとした男の手をとって、自分の首元に持って行った。


「そういうんじゃ、ないんだよね」


 傘に落ちる雨の音と、自分のうなじを滑っていく水滴の感触を覚えながら、男は彼女の笑顔の意味を理解し、彼女の手を振りほどいた。


 結局のところ、男は彼女に怪訝な目を向けながらも、彼女を自分の部屋に上げた。彼女は男にすり寄ったが、男は彼女を遠ざけた。それから、彼女に向かって、子供に興味はない、恥を知れと言った。けれど彼女を追い出しはしなかった。そうして二進も三進もいかないまま、男が洗面所に消えた時、彼女はなんだか煮え切らないような気持ちになりながら、その部屋に長居する理由もなかったので、部屋の中を漁り始めた。現金、身分証明書、アクセサリーの一部、目についたものをポケットに片っ端から押し込んで、それからやっと、男が息を殺して自分のそういった悪事を全て見ていたことに気づいた。


「自分が何をしているのか、わかっているのか」


 彼は、慎重に彼女に向かって近づいた。


「盗ったものを戻すんだ。元の通りに……」


 顔に嫌な汗を浮かべながらじわりじわりとにじり寄ってくる男の姿を前にして、彼女はそれまで感じたことのないような類の恐怖感に襲われていた。無音の室内で彼女の心音は加速して行き、口の中は乾いて貼りつくようだった。男の口が震えながらもう一度開き、


「君の目は、動物みたいだ」


 と言ったのに合図を受けたように、彼女は懐に手を入れ、安いガスライターを取り出した。男は困惑したが、彼女はすぐさま火をつけ、それが男の目の中に映り込んで揺れ始めるように掲げた。


「近寄らないで。火を点けるよ」


 男の顔が理解と恐れに歪んだ。しかし彼は引き下がらなかった。彼女の足がソファの足に当たってその身体がかすかによろめいたとき、彼は彼女に飛びかかった。彼女はとっさにライターを投げ出し、男の下敷きになった。けれど、放られたライターは窓の方へと転がり、カーテンに火がついて、たわんだ布地はまもなく煌々と燃え始めた。男は彼女を押さえつけていたところから慌てて身を起こして、手近にあった上着を手に取り、火を消し始める。彼女はそれを見、どこか後ろ髪を引かれる思いを振り切り、胸の打つ早鐘に背中を押されるようにして部屋を逃げ出した。


 それは夕方ごろのことだった。彼女はいつしか止んでいた雨の後、乾いた風が足元を吹き抜ける中を歩いていた。男の部屋からずいぶん離れたのに、早まった鼓動は治る気配がなかった。彼女はそのままじっとしてもいられず、とうとう男の部屋へ引き返すことにした。


 男の部屋があるアパートは焼けていた。サイレンの音に引き寄せられるように人々が群れ、黒煙の上がる夕方の空と、その下で煌々と燃える赤い火の色を、彼らは固唾を飲んで見つめていた。建物の奥から子供の泣き声が聞こえ、同じ階の別の部屋にも火の手が回ったと誰かが叫んだ。彼女は人々の間に立ち尽くし、しばらくの間動けなかったが、湧き上がった胸の痛みと吐き気に耐えきれず、走ってその場を後にした。


 彼女は、警察や男自身が自分を追ってくるのではないか、あの火で死んだ人間がいるのではないか、人々の間、湿った空気の中で嗅いだあの臭いは、人が焼ける臭いだったのではないか──そういったことを延々と考えてしまう自分自身の心を押さえつけ、それからしばらくは、息を殺して帝都の暗がりに潜むように身を隠した。日が沈んでからでなくては、怖くて往来を歩くこともできなかった。夜の闇が自分の姿を秩序立った暗い街の背景に濁らせてしまわなくては。


 それから何週間も経ったが、彼女の元に追っ手は現れなかった。そうしているうちに、彼女は自分の記憶を否定し始め、自分があの男の部屋に行ったことも、金品を盗んだことも、火をつけたことも、全てが夢だったのではないかと思われ出した。そう思ううちに彼女の心は静かに落ち着いて行き、体の震えは治るのだった。


「でもね、私が火をつけたのは、現実のことだったの」


 ある夜のこと、大通りで信号待ちをしていた彼女は、いらいらと足を揺らして青信号を待っていた。けれどどうにも手持ち無沙汰で、道路の反対側の人混みになんとなく目をやった。そこに並ぶぐったりと疲れきった顔たちのひとつひとつを見遣り、暇をつぶす。するとたちまち、ぞっとした。信号待ちの先頭に並んでいた彼女は慌てて人と人とをかき分けて、必死に通りを引き返す。一瞬しか見なかったけれど、知った顔だった。道路の対岸にいたのは、彼女に何もせず、部屋を燃やされたあの男だった。人混みに消えようとしながらつい振り返った彼女のことを、その男もまた見ていた。でもその表情は、彼女の想像とは裏腹に、怒りなどというものではなく、疲れ切って諦めを覚えた人間に特有の、程遠い悲しみで満ちていた。男は、彼女と道路越しに数秒見つめ合い、その後、踵を返して歩み去った。彼女は、信号が変わり、周りの人々が一斉に歩き出しても、その場に立ち尽くしたままだった。


「その夜からおかしくなった。日が沈んで安い宿に身を潜めている時、勝手に涙が出てくるの。あのひとが愛おしいとか、自分のことが可哀想だとか、そういうことから来るような悲しみじゃないの。あの悲しい顔が私の頭の真ん中に張り付いて、それを何度も思い出すの。夢にまで出てきた。そうするとね、夢の中で、あのひとは私を殴るの。私は、殴られるの。現実じゃ全然、そんなことなかったのに。あのひとは私を見逃しただけだったのに。それなのに、私はごめんなさいって謝りながら、あのひとが私を殴って『くれる』のに耐えてたんだ。どうにかして、裁いて欲しかった。そのためなら、いくら殴ったってよかった」


 彼女はそれから一切物盗りをやめた。自分が踏みにじってきた人間たちのことを思い出し、過去に戻ることを祈った。くだらないと吐き捨てて放り投げたはずの、正義とか道徳とか良心といったものが、今更彼女のことを死ぬほど苦しめるのだった。


 だが、それで終わりではなかった。物盗りをやめた彼女は、しかしながらその罪を忘れられたわけではいなかった。かつて彼女を部屋に上げ、金を盗まれてその尊厳を傷つけられてから、ずっと彼女を探していた男がいた。彼は薄暗い人間たちとの繋がりのある男であって、帝都を出ずにいた彼女の居場所をその執念でもってとうとう突き止めた。


 そしてその夜、彼女は、自分が四、五人の男に付け狙われているのに気づいた。男たちは彼女をごみごみした街へと追いやり、彼女は帝都の西端まで来てしまっていた。夜の街、西十番街の街路を、彼女は時折後ろを振り返りながら、必死に上着の首元を押さえて逃げた。歩きにくいハイヒールは脱ぎ捨て、人目もはばからず必死に逃げた。あの男たちは、私のことを殺す気だ。必死に逃げ場所を探して彷徨う彼女を追って来る、五人分の足音。彼女はとうとう逃げ切れなかった。


「身体中が痛かった。血まみれで、このまま夜の空気が私の魂を持って行くんだと思った。もう私のことは、あの方も救ってはくださらない。悪いことをしすぎてしまったって。苦しいことばっかりの人生だったけど、救われるような人間でもなくて。きっとこの世の終わりの時、私は私が苦しめた人たちのために罰を受けるんだ。そういうことなんだ。それが正しいんだ、って」


 でもね、と彼女は言葉を続けた。


「母さんが私を拾った。これは素晴らしい罪人だと微笑んで、けらけら笑っていた。そうしたらもう、私はね、ひとでなしになっていて、渡された心臓を飲み込んだの」


 彼女はそこで大きくため息をついた。彼はまだ黙って出窓の桟に寄り掛かっていた。


「ひとでなしになって、自分の力が何かわかったときは、『私はそういう女なんだ』ってことを突きつけられたみたいだった。実際そうだった。関わった人間を破滅させるの。自分がね、そういう最低の人間だってことを、私はここに来てやっと受け入れられたの」


 彼女はそこで笑った。その乾いた笑い声が、空虚な響きを持って部屋の隅に吸い込まれて消えた。


「そして私のそばにいた人間を十二人は殺した。死なせた。自分が生きる代わりに死なせたの」


 そして、と言葉を継ぎ、彼女は彼の顔を見た。


「あんたが、十三人目になる」


 彼は、眉をひそめ、けれど言葉を返さなかった。



***



「それで終わり?」


 と俺が声を出すと、彼女は口元を歪めて皮肉っぽく微笑んだ。


「私の人生はこれっぽっちよ」


 彼女は伸ばしていた膝をまた折り曲げて、両手で抱き寄せた。


「でも、そうね、確かに、あんたに話して、救われたのかもね。でも私は、あんたのことを救ってやれない。間違いなく、このまま殺すことになる」


 彼女はそこで、弾みをつけ、ベッドの横に立ち上がった。


「私はもうね、『正しいこと』なんかのために無理をして、自分の損になるようにはしないの。だから、あんたが可哀想でもね、母さんや枇杷に逆らったりしない。だから、」


 彼女はそこで、一度うつむき、それからまた顔を上げた。そこには、自分の罪を持て余して今にも崩折れてしまいそうそうな未完成の女の瞳があった。


「ごめんね」


 俺は、その言葉を彼女がどんな思いで吐いているか、ようやく知ったように思えた。俺は彼女の瞳の朱色に揺るがされるようにしてふらふらと歩き、彼女の目の前に立った。彼女の目の中には、俺がいる。


「君は、これから俺を殺すんだな」


 俺は、彼女に問いかけるように、そしてまた俺自身に言い聞かせるように、ゆっくりとそう言った。彼女は俺の目を見たまま、何も言わなかった。


「だったら、きっとこれはおかしいんだけど」


 そこまで言ったとき、彼女がその瞳をはっと見開いた。鼻の奥が湿って詰まるのを感じた。俺の頰の上を、生ぬるい涙が滑っていった。


「俺はさ、君のことを、やっぱり助けてやりたいんだよな」


 涙で鼻にかかった無様な男の声が、俺の喉の奥から発されていた。


「俺のことを殺すって言って笑ってる、きちがいみたいな女と、こうして向き合ってるっていうのに、それでこんなことを思うのはおかしいのに、俺は、それでも、君のことをなんとかしてやりたいんだよ」


 喉の奥が大きく息を吸い、俺は涙を堪えようとして、けれど上手くいかなくて、もうどんなに情けない声だろうが言うべきことを全部言ってやるという気になった。喉の奥に涙の味がした。


「俺が死んだら、君に殺されたら、きっと君は、君だけは、俺のことを思い出してくれるんだろうな。罪の記憶のひとつとして。それでいいんだ。それは俺にお似合いなんだ。でも、そうやって、俺が俺自身のことを諦めるとして」


 俺の喉が息を吸う。彼女が黙ったまま俺の言葉を聞いているのがわかる。


「君のことはどうする」


 言葉の最後が濁る。


「君のことはどうにもならない。俺が死んでやったって……。俺が死んだら、きっと君はこれからもずっとそうして、どうしようもないまま同じように生きていくんだろ」


 俺は、俺自身の言葉でますます苦しくなった。


「君はこれからもずっと、この街で、死ぬのを待って息をするんだ。何にも変わらないままで──生きたいとも、思えないままで」


 そこまで言った時、彼女の顔が、明確に悲しみを纏った。彼女の唇がわなわなと震え出した時、俺は彼女の方に進み出た。彼女の両腕を掴む。


「もう、終わりにしよう。こんな馬鹿なことは。君の『計算』が合うなんてことは、君が一生を生きてもありえないんだ」


 茜は当惑した顔で、怖がった目で俺のことを見ている。


「苦しめられた分、苦しめると言ったって、それで計算を続けて、いつかゼロになるはずだと終わりを求めたって、君が感じた苦しみは一生なくならない。殺した人間に罪を覚えるような君は、相手に与える苦しみの増幅なんかじゃきっと救われやしないんだ。君の心が『ゼロ』の平穏に至ることなんてない。ないんだよ。そんなのは、実現しないんだよ」


 俺はうなだれて、鼻をすすった。もう一度顔を上げたとき、彼女は切実な目で俺のことを見つめていた。


「俺は君に押し付けられる苦しみを世界に還したりしない」


 そこまで言って、俺は口からぜいぜい息を吸って、それから、彼女の背中に手を回した。彼女は怖がるように自分の腕で体を庇って、足をにじらせて俺から離れようとした。けれど、いざとなって回った俺の腕の中からはあえて逃れようとはしなかった。出会ってからそれまでのどんな時より、彼女は俺をどうしていいかわからない様子だった。彼女を抱きしめた時、彼女はひとつ身じろぎをして、それからはずっと体を強張らせていた。俺がなにをしでかすんだろうと恐ろしかったんだ。俺は大きく息をして胸が騒ぐのを落ち着けながら、彼女の体を自分の方に押し付けた。


「この苦しみの連続を俺の中で終わらせてやる。そしたらもう、君が君自身を苛むこともない」


 自分のやかましい息の音で部屋の中が満ちている。ぼろぼろ顎から落ちていく汚れた涙が、彼女の肩にも落ちているのかもしれない。俺は、胸の奥から言葉を振り絞った。


「俺が、君の最後の生贄になってやるから」


 彼女はそれまで抱きしめた彼女の中でもっともやせぎすだった。華奢で、完成していない女の、少女の風情が残った身体。ああ、俺はこの子とずっと一緒にいたんだなあと思った。こんなに細かったんだなあ。それから俺はまた泣いて、ますます彼女の身体は強張ったようだった。でも俺を押しのけることはしなかった。ただ、ほんとうに、どうしたらいいのかわからないみたいだった。けれど、俺が回した手に力を込め続けるから、とうとう怖がることを諦めたのか、次第にこちらに身を委ねるようになった。俺は、こういった俺の悲しみが感傷だってことをわかっていた。外野の人間が悲しんだってしょうがないのだ。感傷ってのは、彼女がこの世で最も憎んだことだろう。でも、俺はそうしていることを止められなかった。彼女のために苦しみたいと思っていた。そうしているうち、彼女の身体が腕の中で微かに動いた。彼女の胸が震えているのがわかった。彼女が息を吸う音がやっと聞こえた。


「私は最低だから」


 彼女の声が俺の首元にぶつかる。


「殺す相手が可哀想だっていうのよりも、ずっと」


 彼女はそこで、俺の服を掴んだ。


「自分が罰されるのが怖い」


 彼女が俺の胸にその手を押し当て、身体を微かに離して俺の顔を見た。青白い顔の中で、朱色の目が透き通って揺れている。


「誰かがいつか私のことを裁きにくるの」


 そうして彼女は、俺に、俺の向こう側にいる何かに訴えかけるように、ひりついた声を出す。


「私はきっと、天国にも入れてもらえない。私は」


 彼女は強張った顔で首を振った。


「あんたにそこまでされるような女じゃない」


 俺の涙はだいぶん収まっていた。俺は、彼女を見下ろすように立っているのがいたたまれなくなって、床に膝をついて、立ったままの彼女を見上げるようにしてから、その手を握った。


「君が畑に撒かれた毒麦だったとしても」


 俺があえてその文言を選んだことに彼女は気づいたようだった。


「俺はやっぱり君のことを哀しいと思う。君が辿ってきた人生を苦しいと思う。このまま君のことを見過ごしてはいけないんだと思う」


 時々胸の奥に息がつかえるような感覚を覚えながらも、俺の息は、だんだんと、深く、穏やかになっていく。俺は、唾を飲み込んでから、


「君の存在そのものを肯定してやりたいと思う」


 と、できるだけ丁寧な声音で彼女にそう伝えた。彼女は、俺に手を掴まれたまま、その唇をぐっと噛み締め、それから諦めたように開いて、眉間にしわを寄せ、なおも首を振った。


「違う、やめて、そんなことを言わないで……。私は、わたしは」


 彼女は苦しそうに息をする。


「自分が苦しいなら、黙って死んでおくべきだった! 誰かに八つ当たりなんかしようと思わないで、私の苦しみを私の中で終わらせていればよかったんだ。私はひとりで死んでおけばよかった! ひとりで……。それが、正しいやり方だったの。でも、そうしなかった。だから、私はもう」

「でも」


 彼女は俺の声にびり、と身を震わす。彼女は、自分の手が俺の手の中に握られているのをもどかしく思いながら、そこから抜け出す方法を持たないようだった。俺は、辛抱強く彼女に話しかける。俺の脳裏には、暗い丘の上に建てられた木の柱が蘇っていた。


「でも君は、犠牲になるために生まれたわけじゃない」


 怯えた彼女の目はそのとき一瞬の間見開かれて、俺はそのとき、俺たちが同じものを頭の中に思い浮かべたように思った。俺は彼女の手を握り直す。


「君が信じる宗教が何であったって……」


 何であったって、と俺が繰り返すのを、彼女は俺から目を逸らさず聞いている。


「君が今まで生きていてくれなかったら、俺は君のこと知ることもできなかったんだ」


 彼女がはっと息を吸う。


「君が生きていてくれたから」


 その目が、苦しそうに歪められ、俺の手の中にある彼女の手の先が、耐えきれずにぎゅっと折りたたまれる。俺は、涙の止まった顔をシャツの肩口でぬぐいそれからまた彼女に向き合った。その頃にはもう、彼女の手は、その身を委ねるようにして俺の手のひらに寄り添っていた。


「約束は守る。俺は、君のことを決して愛したりはしないし、死んだりもしない」


 俺は口を閉じ、彼女の口元がその身の感情に耐えかねて震えているのを見てから、彼女の身体の芯に伝わるように、丁寧に言葉を口に出す。


「俺は君に殺されない」


 そうして言葉にするほどに、俺の身体は震えを失っていき、穏やかで温かい自信が胸の中に満ちていくのだった。けれど彼女は、


「できっこない」


 と、不安定に震え、裏返りそうなか細い声を出す。


「できない。抗えない。私には……あんたには、そんなことできない」


 彼女の胸がいっぱいに息を吸い、けれどその息に対し、出てきた声は小さく、


「……できないよ」


 と鳴った。


「できる」


 俺は彼女の声の震えを押さえつけるみたいに、


「してみせる」


 と、できるだけ力強く、芯のある風に声を出した。


「俺はきっと、君のことをなんとかしてやるためにここに来たんだ」


 胸の震えは止まっていた。俺の前にくらりと立ち上がって俺のことを見つめているこのひとに、俺は俺が成しうる全てのことをしてやらなきゃならない。


「君のことを、なんとかしなきゃいけないんだよ」


 思うままそうして口にしたとき、最初はあんなに恐ろしくて堪らなかった朱色の双眸が、いつもと違う輝きを伴って俺に映った。触れば壊れてしまいそうな、朝日の幻影が見せる、光の結晶。俺は自分が正しいことを確信した。彼女は俺を見ているし、俺も彼女のことを見ている。俺たちの両手は繋がっている。


「俺は必ずそれをやってのける。俺にはきっと、運命の女神様がついてるんだから」



***



「いつか一緒に見た、柊の花の色を覚えてらっしゃいますか」


 沈黙を破るように朗らかに発せられたまもるの声に、私は一瞬驚いて、けれど、明かりの消えた街の中にぽつぽつと輝いていた、あの透き通った白色を、私はすぐに思い浮かべることができた。私が「うん」と、息を吐くような小さな声で返したのを聞いて、まもるは、


「植物は、光がないところでは生きていけません」


 と、言葉にする。彼はそのゆっくりとした足取りのリズムに逆らわず、その優しい声音で話し続けた。


「けれど、この真っ暗な街の中で、彼らは、その枝葉を空に向かって伸ばし続ける。なぜ、彼らが上へ、上へと諦めることなく彼らがその腕を伸ばし続けるのか。それは」


 まもるはそこで立ち止まった。私たちは、通路の突き当たりに来ていた。そこには、古い木の扉があった。まもるがランタンを床に降ろし、扉に手を掛ける。


「そこに光があるからだ」


 そうしてまもるがその扉を奥へと推しやった時、私ははっとした。その扉の隙間から差していた白い色が、扉を押すたびに広がって、私と彼にふりかかる。


「ああ、よかった。ちょうど『日』が出る頃だと思っていたんです」


 私は、夢中でその扉の奥を見た。きらきらと輝く、まばゆい光。見覚えのあるその「眩しさ」に、私の足はすくんだ。けれど、その眩しさは心地よくて、前を進んでいくまもるの足音が優しく響いていて、空気がそこら中で小さく弾ける音がして。


「俺たちの目には見えないだけ。けれど、ちゃんとここにも光は届いている」


 私がその明るさに目を慣らして、先に立っている彼の姿をやっとまともに見た時、私の喉は息を飲みこんでいた。彼は、両側に立ち上がった柱の間、青いステンドグラスの前に立っている。涼やかな空気が私と彼の間にある。私の前にぽっかりと開いたその部屋は、静かにそこにじっとしていながら、私たちふたりのことを受け止めて包み込んでくれるみたいだった。


「俺たちは盲人なんです」


 私の目は、光を背負って青く薄い影の中にあるまもるの目を見ている。


「希望を見ることを諦めた、盲人たち。けれど、見えていないだけで……」


 彼はそう言いながら、後ろにあるステンドグラスを見た。その窓から彼に、私に向かって差し込んでいるのは、間違いなく、太陽の、朝日の光だ。


「ここにも、ちゃんと光は届いている」


 まもるはこちらを振り返って、私に笑いかけた。私は、部屋中の白い壁を照らすように差し込んだ朝日の眩しさと、その光を背負って微笑んでいるまもるの両方がそこで溶け合っていて、そういうもの、私が今みているものの全部が、私の顔や体に降りかかって、私の心の震えを私の手足の先まで全て行き届かせたみたいに思った。自分の身体があるってことが不確かなように思えて、私はもう、心しかなくなったみたいだった。自分の口が開いて、涼しいその部屋の空気を吸っていることに気づいたとき、まもるは私に向き合い、


「最も暗い場所にこそ、光は差すんです」


 と、確かな声の響きで、どこか歌うように話し出していた。


「この世界に、真っ暗な場所なんてありません」


 青白い景色の中で、いつにもまして、彼の声は静かで、密やかで、心地よくて、優しい。


「俺たちが、それを見つけようと懸命に手を伸ばし続ける限り」


 彼は、その柔らかく緩められた頰を持ち上げ、青い影の中で囁いた。


「この世界は、遍く、光に満ちている」



***



「俺が」


 解けた彼の手が、花のような形に開いたまま、彼女の両手を離した。


「君の名前を見つけてきてやる」


 彼女の手が、戸惑うようにゆっくりと彼の手から離れて、その胸の前で組み合わされる。


「そこに、きっと君の心のいき場所があるんだ」


 彼の言葉を聞いている彼女は、信じられない面持ちで彼のことを見つめながら、その両目にはもう、涙の透明な膜が張っていた。きらきらと輝く二つの朱色の宝石が、頼りなくその睫毛の下に潤んでいて、その足は床の上になんとか立ち尽くしているのだった。


「だからもう」


 跪いた彼は、聖者のような澄んだ声音で、その顔に垂れた前髪の間から彼女のことを崇拝するように見上げている。


「『夜の終わり』を待っているだけだなんて、言わないでほしい」


 薄い夜の空気の向こうから、ごみごみした街の月明かりが彼らふたりの身体に差していて、しんと静まり返ったこの街の外に朝焼けが広がっているのを、ふたりは知らないうちに知っているみたいだった。

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