第二十三話 蒙昧なリックは彼自身の生まれを知らない
目の前で起こっていることを、打ち消してしまいたいと思うことがある。階段の下まで転がって蓋の閉まらなくなったオルゴール、落ちる刃の色と銃声、私に向かって手を振り上げる椿の怒りに燃えた目。そして、今私の目の前に広がる光景も、なかったことにしたいものだった。
かちゃり、と音がした後、北崎が拳銃を女の子のこめかみにあてがうのが見える。
「大事な、はなしがあるんだよ」
伏した北崎の視線は女の子の震える足の先を通って、それから石畳の上を滑り、途切れないまま上がって私の顔で止まった。
「座って」
見覚えのある向き合った一対の椅子が、広場の真ん中に据えられている。
***
少年の驚いた表情が枇杷の肩越しに見え、枇杷の手が少年の腹にめり込んでいるのを俺の視界が捉えきったと思った次の瞬間には、枇杷は突然何かに弾かれたように音もなくこちらへ吹き飛ばされ、すかさず受け身をとっていた。俺の視界の中央で揺れる、インディゴのコート、炎を透かした髪色。
「まったく、お前は使えないね」
という枇杷の声が俺に向けられた言葉だと知った時、苦痛にうめく少年の声が俺の目を前方へと引き戻した。
「や、めろ」
と苦悶する少年を、驚いた表情の眼鏡の男が支えるが、少年は男の支えを振り切らんとでもするかのように身をよじりはっきりと嫌悪の表情を持ち上げて枇杷を睨んだ。
「気色悪い気色悪い気色悪い!」
口から血の混じった唾を吐き出しながら、逆上した獣のように少年はこちらに向かって吠えた。
「化け物が!」
立ち上がった枇杷の顔をまっすぐに見つめる少年には、もう枇杷以外の姿が見えていないらしい。
「俺にっ……触るな!」
少年の息も絶え絶えな吠え声の後、そういうことか、と独り言つ枇杷の声が空気を揺らす。
「化け物とは随分とご挨拶じゃないか」
少年の必死をせせら笑う枇杷は、芝居掛かった手振りで少年のことを挑発する。
「お前だって、僕とおんなじ『化け物』と知っての物言いかね?」
「化け物」の語に怒りのまま目を見開く少年を見て、枇杷は征服者の満足を得たようだった。そして
「僕もお前も、等しく化け物だ」
と続けた枇杷の声音に迷いが一切ないのに、俺は背筋が寒くなる。それはあちらさんも同じだったようで、少年は表情を刹那に凍らせ、すぐさま隣の男の支えを振り払い、一度歯をむき出して獰猛な獣のように荒々しく息を吸った後、
「違う、俺は、」
と、酸素を求めるように大口を開け、
「俺は、」
とまた声を詰まらせた後、ぐっと頭を持ち上げる。
「人間だ」
少年の後ろではまだ炎の壁が赤い光を放ち続けている。
「俺は、人間だからここにいる。人間だから」
そこで少年は痛みの津波が押し寄せたように耐えきれず身体を折り、しかしぐっと首を持ち上げて枇杷を睨んだ。
「お前らを、殺してやるんだ」
戸惑う眼鏡の男がくらりと倒れかける少年を甲斐甲斐しく支えるのを見て、枇杷ははっきりと嘲笑の息を漏らした。暴力的に燃え続ける炎の壁がもたらす熱風を受けて、枇杷のコートがばらばらと揺れている。
「おい『人間』」
枇杷のかすれた語尾が少年の自尊心をいたぶるように持ち上がる。
「もうちっとばかしは弁論てものをお勉強しなきゃ、論戦にもなりゃしないよ」
きんと冷えた夜の空に枇杷の温度のない尖った声が通る。
「今日この日は一度しか訪れない」
それから枇杷は、腰に差したままだった日本刀を抜き出し、手首をくるりと返してその切っ先を少年に向ける。
「だから楽しもう、ここにいるのは皆、生まれぞこないさ」
***
しんと静まり返った広場の中に、私たちを取り囲む真人間たちの微かな息の音が聞こえてくる。真人間たちは誰もが自分の足で立ちながら、俯いて浅く細かく息をしているだけで、声も発さない。皆んな、この街に眠らされた、ゾンビだ。それが、きちんと石段の上に並んで、まるでじいっとこちらの様子を伺っているみたいに、わら、わらと揺れている。ほんとうは、朝になればこの街から出て行くはずのゾンビたち──。私は広場の真ん中でふらりと立ち尽くし、しかしなんとか助かる手立てはないかと首を動かさないまま目だけで出口を探すけれど、煌々と灯るスポットライトを受けたこの広場のどこにも、私の逃げ場はない。そして、目の前で私に悲痛な眼差しを向ける女の子を置いて自分だけ命からがら逃げることなんて、私にはできそうもなかった。
「明石」
と、北崎に呼びつけられて、制服の女、明石が彼の隣に歩み寄る。
「この子を」
明石は北崎の言葉を受けて腰に提げていた日本刀を「右手で」抜き、女の子の首元に当てがいながら、彼女を北崎から引き取った。この女に会うのはとりもののときぶりだった。けれど、彼女には「両腕」がある。そうしてひとりはっと息を飲みながら、私は不安なまま無意識に両手を胸の前で組みあわせていた。
「座って」
北崎がにこりと商品のような微笑みを私に向け、それでも私がぐっと口を引き結んだまま立ち尽くしていると、がちゃり、とまたあの金属の音がして、私がその音の先に目を向ければ、あの優男の制服が私にまっすぐ銃口を向けていた。
「座れ」
はにかんだ目元には似合わないかすれた低い声に促されて、私は一歩、二歩と椅子に近づき、眩しく照らされた舞台の中に組み込まれていった。
***
尚も口に溜まった血を度々と吐きながら咳き込む少年の肩をなんとか無理に掴んだ眼鏡の男が
「撤退しましょう。無理はいけない」
と言うのが聞こえたが、少年は男の言葉を打ち払わんとするかのように首を激しく横に振り、絶対的な拒否を示した。
「大丈夫、大丈夫大丈夫、大丈夫っ大丈夫だ!」
少年は胸元を自分の手で抉りかねないくらいに抑え込み、吐き戻したばかりのその言葉を自分自身に向かって打ち付け飲み込ませようとしていた。
「絶対に、大丈夫だ。俺は、俺が」
そのとき少年が咳き込む。
「俺はこんなとこで、死なねえ。死なねえことになってんだよ! 死んでたまるか! まだ、俺は、まだッ」
少年の肩を抱きしめる眼鏡の男がこちらに手を差し向けると、俺たちを囲む炎の壁が俺たちと奴らの間に両側から迫り、俺たちの行く手を阻もうとする。燃え続ける炎の隙間、赤い光の中で、歯をむき出した少年が、がらがらと喉を鳴らしながら叫ぶのが聞こえる。
「お前らのことなんか認めてたまるか!」
俺のこめかみから汗が落ちていくのがわかるが、前方の枇杷は熱くもなんともないと言わんばかりにふらりと立っている。あの少年のような声が溢れるように笑みを含んでその口から漏れていくる。
「北崎も、これはまた、けったいなのを囲い込んだものだ。長引きそうだねえ」
枇杷はあのピンヒールをはめた細い足をつ、と引いた。
「楽しませてくれるじゃないか」
枇杷がふ、と振り返るように顔を俺の方に向けたので、俺にもついに、ぎらぎらと血肉に飢えた、そのちぐはぐな相貌が見えて、俺は自然と身を引く。
「そこの恥さらしの役立たずは、まだ生きているかい?」
ふっと枇杷の虹彩が足元へ回るのを見て、俺は自分の血だまりの中で溺れる真木の横にしゃがみこみ、上着の端が奴の血に浸されるのを感じながら、真木の頸動脈に手を当ててその消えそうな拍動を確かめた。恐ろしいことに、まだ、生きている。俺が驚きながら枇杷の顔を見上げると、枇杷は目元だけで笑ってから少年たちのほうへと目を戻した。また不可解なほどに頼もしく揺るぎないその華奢な体躯が俺と敵の間に盾のように立ちはだかる
「……それはよかった。死なれていたら適わない。このお遊びが終わったら、吊るして切って開いて、骨から叩き直してやらなくちゃならない」
そのあと間髪入れず、枇杷が
「椿」
と呼びかけると、俺の見えないどこかから、
「はあい?」
とあの鼻にかかった声が降ってくる。どうやらしばらく前からいたらしい。
「この邪魔な火を消してくれ。二分もあれば充分だ。なあ、そうだろう?」
俺が自分に向けられたと思しきその問いを解さず、狼狽えたのを聞いて、枇杷ははっきりと俺を嘲笑すると、また空から椿の声が
「わかった」
と聞こえてくる。びり、と枇杷が冬の空気を凍らせるのがわかる。
「お前は今ここに居ても邪魔だ。曲がりなりにもお前に『犬』の通り名がついているんなら、飼い主のために精々『とってこい』くらいこなしてみせな」
はっと息を吸う俺は、俺への命令を飲み込みかけ、それがうまくできないでいた。そのとき、どこからかまた椿の笑い声が聞こえてくる。
「あのひとの炎が届かないとこまで走り抜けんのよ」
その声を追って、やっと俺にも椿が屋根の上に座り、俺に向かって意地悪く笑うのが見えた。
「ねえ、待ってらんない。もう走りだしなよ」
椿が屋根の上にいつものくらりとした風情で立ち上がり、スーツを纏ったその両腕を持ち上げた。
「あたしと居ると、『息も詰まる』ってね」
何かが起こる、と俺の肌は自然と粟立った。そして、
「早く行け!」
という枇杷の野太く濁った語尾に背中を突き刺されるようにして、俺はかすみを探すため、半ば、やけになりながら未だ燃え続ける炎の壁へ向かって走り、前方へと身を投げる。
***
椅子にかけた私のことを、同じように椅子にかけて目元をにじりと歪める北崎が真正面から見つめている。北崎はどこかうっとりとした様子で自分の頰に手を当て、私の目の中を覗き込もうとするから、私は居心地が悪くてうつむく。しんと静まり返った広場に、ときどき体制をくずして足元をふらつかせる、物言わぬ真人間たちの靴音が響き、私は音がするたびにびくりびくりと肩を震わせていた。どうやって、ここから逃げ出せば。もしくは、どうやって、助けを呼べば。
「君はもう、あの時、この広場で怯えていたあの少女じゃない。そうだろう?」
北崎が突然口を開き、私は驚いて北崎の目をまっすぐ見てしまう。私と正確に目を合わせた北崎は、
「君が二月あまりの間、この汚れた人間の巣で一体何を学んで来たか」
と、ふっと首を反らし、椅子の背もたれにその体を預けるように座った。
「その学びの所産というものを、私たちにご披露願いたい。ああ、そうだ君は」
北崎はそこで一度言葉を止め、勿体振るように閉じた口を物思わしげに歪め、また開く。
「『最後の役者』かもしれないんだから」
***
自分の足の裏、膝、上半身に伝わってくる地面からの反動と、脳が俺に止まれと信号を発し続ける中を突っ切り、近づいてくる炎の壁を前にして、俺は本能的に目を瞑った。全身が炎に包まれ身を焼かれるという、想像し得ない範囲の痛みを予想することによって、俺は精神的ななんらかの武装を試みた、が。その予想に反して俺は冷たい空気の中を走り抜けていた。驚いて開けた目の中に、師走に似つかわしい冷気が染み込み、俺は思わず振り返り、遠のいた枇杷の背中を中央に据えた夜の路上から、炎の赤い色が全く消失しているのに気づいた。薄暗く月に照らされた、いつもの通りが広がるその異常さに、そのままふ、と足を止めた俺が何の感慨もなく無意識に息を吸おうとした時、肺が悲鳴をあげる。吸ったはずの空気が入ってこないような感覚。当然、俺の脳は混乱を生じる。なんだ? と尚も考えなしに息を吸い込むが、その呼気が俺の肺を満たすことはなかった。直感した。そうだ、酸素が、入ってこないのだ。
そうして鈍化しているはずの俺の脳が、生命の危機を覚えて恐ろしく早くまわった。椿の底意地の悪そうな笑み。
「あたしと居ると、『息も詰まる』ってね」
脳内であの声を再生した俺は自分でも不思議なほど早く判断を下し、進むべき方向に向き直ると、奴らを背にして夢中で足を前へと蹴り出す。肺が痛む、壊れそうだ。頭が、締め付けられるように熱くなる。ここにはないのだ、いや、なくなってしまったのだ、酸素が。「あの女」のせいで! 走り出したあのとき、椿が持ち上げた両腕が空に浮かぶ誰かの首を締めるような動作だったのを頭の端に思い返しながら、俺は限界を越えんとでもするように遠く、遠く、奴らの気配もない遠くを目指して夜を、駆ける。
***
北崎の言葉の意味がうまく飲み込めないまま、私はその不気味なくらいに整った顔が私のほうを向くたび背骨が軋むような、心臓がきりきり痛むような気持ちに襲われていた。下手なことを喋っちゃいけない。でも、時間を稼がないといけない。わかってるのに、何も、出てこない。
「話す気は無い、かね? それでは、せっかくこうして話す機会を得られたのに勿体無い」
北崎はふう、と残念そうにため息をつくと、それからすぐさま子供みたいな茶目っ気のある笑顔を浮かべて私のほうを小さく指差した。
「ああ、わかったかもしれない。君が口を閉ざす理由が。君は私のことを嫌っているんだな?」
私は思わず目を丸くした。好かれているとでも思ったのかしら、と、こんな状況なのに私は北崎に呆れてしまう。私の反応を見て、北崎は自分が喋ったことが正しかったのを確信したみたいだった。それから一度顔を伏せ、今度は重々しい空気を背負ってその頭をあげる。この人は、たった一人で演劇をしてるみたいだ。前の時と同じだ。そうやって睨みつける私の顔を、ご機嫌を伺うみたいに北崎は悲しそうな顔をして見た。
「……君は私を恨んでいるかね? いや、違う、間違いなく恨んでいるね。でも」
北崎は大げさなくらいにため息をついた。さらりと流れる北崎の髪のひと房が、彼の頭の動きに合わせて揺れる。
「信じてもらえないかもしれないけれど、私は君の両親が憎くて、あんなことをしたわけじゃないんだよ」
そのとき細められた北崎の目元は、私への哀れみ、のようなものを含んでいるように思えた。
「君の両親は、無駄死にしたわけではない」
私は北崎の言葉に目を細める。ぎし、と、私の座る椅子の足が軋む微かな音が、静かな広場に鳴る。
「彼らはこの国のために尽くした。尽くして、尽くして、そして無残に切り捨てられた。合理的に、実直に、二かける二が四であることの論理に当てはめて、処理されたわけだ」
北崎の後ろには制服を着たあの二人と、その背景に真人間たちが整列して立っている。何も言わない彼らはほんとうにただの壁のようで、けれど私は彼らが私と北崎のことをじいっと見つめているように思えた。
「けれどね、あれは必要な死だったんだよ」
冷たく、何かを諦めたような北崎のよく通る声が私の目線を彼の方に引き戻した。
「彼らは幸福を生み出し、そのために彼ら自身を、彼ら自身の生活を、犠牲にし、不断に一途に頑迷なまでにそうし続け、愚かしくも最後まで他者の幸福のためにその身を捧げ、その果てに死んでいった……」
北崎は俯いたままそこまで話して、それから顔をもう一度持ち上げて、それから笑ったような泣いたような顔をした。その顔は私にも泣いてくれって言ってるみたいで、私は彼のことを怖がっていたのを忘れて戸惑ってしまう。
「聖なる犠牲だ。それは、誰もがそうあるよう目指すべきであるという意味で、真に理想の死に方だ! そう、君の両親は、まさしく『偉人』なのだ。ああ、そうだよ、この世界は馬鹿げているんだ」
どこか喚くようなその子供っぽい声音に、私は驚いて、そして私は北崎が私の父さんと母さんを「偉人」と呼んだその言葉が自分の胸にしっかりと刺さってしまうのを覚える。
「君はよくわかっておかねばならない。君は、彼らのことを、彼らのそういった性質を覚えておかなければいけないよ。誰よりも、君が、覚えておかねば。なぜなら、君は彼らの忘れ形見。君は、彼らが、誰よりも生きて欲しいと願った相手」
私の視界の中で、北崎は本心からそう話している。そうだと私にはわかってしまう。
「そして……君にもまた、彼らと同じような性質……いや、まだ君は不完全だろう。そうだな……正しく言い換えれば、そうなる素地、素質があるのだろう。とうとい偉人の素質というものがね。……けれどそれを発揮するのは、今ではない。今では……」
それからひとり悩ましげに頭に手を添えて顔を背ける北崎がまた喋り始めるのを、私は待っていた。
「私はね、君をそれだけ見込んでいるんだよ、お嬢さん。それをわかってほしい。わかっておいてほしいんだ。君は賢いお嬢さんだ。私が言っていることの意味など、たちどころにわかってしまうだろう?」
私は、自分の唇が動き出そうとしているのに気づいた。私の口から声が溢れる前に、北崎は私を見つめて、そのまなざしに切実な意味を込めた。
「彼らを殺したのは私の意志ではない」
では、誰が殺したの、と問おうとした私の視界に、背景の真人間たちの群れが自然に写り込んで、私は別の言葉を選んだ。
「ここにこのひとたちがいるのは、」
私はひとつ息を吸い、一度瞬きをして、北崎の眉間を見つめた。
「あなたの力のせいなのね」
「そうだ」
間を置かずきっぱりとそう断定した北崎は、それから椅子に座ったまま背を伸ばし胸を張り、じりじりするくらい大仰に両手を広げてみせる。その広げた両手にかかったマントがはためき、彼の後ろに広がるものの全てが、彼の肖像を残すために描かれた絵画の背景のように、私の視界の中に収まった。まるで最初から用意されていた全てが、今この瞬間に披露されているような、不思議な感覚に、私はぶわりと鳥肌が立つのを感じた。でも、完成しかけたその光景に足りないものがあるような気がした。そして、その足りないものを、北崎はふっと思い出したかのように口を開いて、簡単すぎるくらい簡単に付け足して、その光景を完成させてしまう。それは、彼の言葉。
「世界は、我が婢女」
北崎のその台詞を、私は待っていたのだった。北崎がふいとその両手を下ろし、
「そして、それと同時に私は、世界の下僕。手綱を握ることしかできない能無しに過ぎない」
と、自分を嘲笑うようにこちらを見たままだらりと微笑む。
「無力な私が力を得るには、相手を説き伏せねばならない。しかし説き伏せるに至って私の勝利はついに、不動のものとなる。賛同を得た私の勝利は、決して覆されない」
私はあのとき、父さんの前に飛び出そうとして、身体が重くてしかたのないままこの広場の石畳の上に転がるしかなかったことを思い出した。あれは、このひとの。
「私の言葉は世界を統べる」
さらりと溢れた北崎の言葉に私は目を見張るけれど、北崎はそこで小さく肩をすくめる。
「だが、それだけだよ。私は一人では何もできない。だから、私には強力な同胞が必要なんだ」
それから北崎は両手を組み合わせてこちらに向かってかがみこみ、私のことをまたじっくりと眺め始めた。北崎の背後に離れて立つ制服のふたりもまた、確かに私のことを見ているのがわかった。
「もう少し、話そうか。そうだね、今度は君のことを。そうだ、今度こそ、話して欲しい。私だって本心を話したんだ」
北崎はそこで片方の手を私の方へと差し向けて、
「君はあの夜、生き続けることを選んだね。親を失い、路頭に迷い、それでも、君は生きることを選らんだ。確かに私は、君に期待していた。君の可能性というものに。君はきっと、なんにでもなれると、私は思ったんだよ」
と、私にゆっくりと語りかける。
「けれど、あの夜の君は、なんとも等身大の少女らしく、頼りなく、力なく、無知で、いとけなかったことは確かだ。だから、賭けだった。一週間後には死んでいるかもしれない少女だと思いながら、私はこの舞台から出て行く君のことを、手を出さずに見ていたのだよ。けれど」
そこで北崎は、その美しい顔に優しさをいっぱいにたたえて微笑んだ。
「君は生き延び、こうして、私の前に帰って来た」
北崎は、悠々と息を吸い、それからまた私に問いかける。
「それは、どうしてかね?」
***
夢中で走り、走り、酸素のない息も詰まるような空気の中を走り抜け、とうとう俺が限界を覚えて足をもつれさせながら半ば転げるように立ち止まった時、どっと吸った俺の呼気が、ついに酸素を肺へと届けた。俺は馬鹿みたいに必死に息を吸い、ぜいぜいと冬の空気をのみ込んだ。もう、ふり向こうが奴らは遥か彼方……とまでは行かないだろうが、あの眼鏡の男の炎からも、椿の「気詰まりな」空間からも俺は無事に逃げ延びたようだった。全く音のない冬の通りにひとり取り残された俺は、しかし自分の仕事を思い出してまた歩き始める。犬には、犬の役目というものがある。そして、これをとちったら俺も真木と一緒に吊るされるかもしれない。今の枇杷ならやりかねない。だが、かすみなどどこにいる? 何を頼りに探す?
とにかく酸素を求めて走り続けていればよかった時間は終わったのだ。俺はこれから、どうすればいい。どこを探す? どうやって? 走り回りゃいいのか? そんなもんで見つかるわけがない。俺は、どうすれば。
戻るわけにもいかない。俺には真木のような力はない。あるのはこの足だけだ。何を頼りにかすみを探せばいい? 俺の、「力」でか? そう思いながら街灯もほとんどない、月の光だけがその石畳の面を照らし出す路上、歩みを止めないでいた俺は、突如として例の空気の震えを受け取った。
***
「どうして君は、この二月あまりの間を、生きてこられたのかね? そうだ、一体何を支えにして、生きてきた?」
椅子に腰掛けた北崎は、くつろいだ様子で私にそう問いかける。私の口は遠慮がちに、解けるように開く。
「私は」
そうして私は、自分がどれだけ強い気持ちで生きているのか、どうしてたくさんつらい思いをしてきたのにそれでもなんとか今も息を吸っているのか、そうして、生きようと思えるのか、胸の中にたまったものを目の前の人に、そしてこの広場の「全員」に伝えようというような気持ちになっていた。けれど。
「生きることは、それが正しいことで」
私の言葉は、私が思っていたよりもずっとずっとたどたどしい声で紡がれる。
「そう、私は、父さんと母さんに生きることを望まれていて」
そこまで話してから、私は、私の中にここで言うべきことがないことに気がついた。いや、違う、そんなわけない。ないわけ、ないよ。父さんと母さんが死んでしまったあの夜、私は変わったんだ。あの日から、私は。
私の目を覗き込む金色の目が、私の記憶の中に浮かび上がる。あの時私の前にしゃがみこんだあの人の、私の腕を掴んだ指の感触が蘇って、それから私は、心臓が冷えていくのを感じた。あのひとの言葉が、記憶の中で声になって流れ始める。違う、よ。そうじゃないよ。私。私は頭の中に流れるその記憶を振り払おうとして、けれど、私の口からはその記憶に引きずられるようにして言葉が出ようとしている。
あれ、私、なんで。
「生きなくちゃ、いけないのよ」
なんで。
「私は、生きなくちゃ、いけないの」
生きなくちゃいけないと、思っているんだっけ?
「……誰かに何か、言われたんだな?」
はっとして、その涼やかな声に顔を上げると、北崎とはっきりと目があった。美しく弧を描く目元と、そこから伸びる睫毛。彼の瞳が、冷たく私を見下ろしている。その口がゆっくりと開いた。
「そうか、そうか……わかった。わかったぞ! 君の、『正体』が!」
だんだんと笑うように震えだした北崎の声は、その言葉の終わりにはすっかり笑みを隠せないでいた。
「君は、自分で生きることを選んだわけではないんだな?」
笑い、しかし私のことを責め立てる、とげとげしさを含み始めたその声に、私は二月あまり前に見たのと同じ北崎の演説が、今目の前で繰り返され始めているのに気がついた。
「やっぱりそうか、はは、図星って顔だ! なるほど、そうか、そうなのか」
北崎はそこで自分の椅子から立ち上がり、にや、と意地悪く笑う。
「君は、ひとに命じられて『生きろと命じられて』……! ただ『言われるまま』、愚直にそのありがたい『箴言』を信じ生きているわけだ!」
そう言い放つ北崎に、私の唇は震えている。
「……違う、私は」
北崎は私のやっとしぼりだした声を押しつぶすように、そのよく通る声で演説を続ける。
「君は自分が生きたいかどうかもわからないまま、生きろと言われ、その呪いを身に受けて五里霧中、自分がどこにいるかもわからず、そして今自分がどこにいるのか把握しようという志向すら頭にのぼらないまま、亡霊のごとくこの世を彷徨い生きているのだ!」
北崎がはっきり私を指し示して目を見開き、語気を強めるので、私は椅子の上で固まって動けない。
「なんと、なんと滑稽な! 君は道化の最たるものだ! 最上級の! 一級品の狂言者じゃないか!」
そうして北崎は、下品なくらいにその姿勢を崩して笑うと、それからやっと大きく息を吸って、私のことを指差す。
「君は、期待以上の、大役者だ!」
あはは、と子供じみて笑う北崎の声が、他に音のない広場の中に反響する。
「やめて、やめて、違う。私は……そんなんじゃ……」
私は、耐えられなくて、彼の言葉を否定しようとして立ち上がり、けれど上手くいかなくてよろけ、地べたに膝をついてしまう。北崎の嘲るような声に、私は私が今まで立っていた場所が全部壊れて崩れていくような、上手く言葉にできない不安に襲われる。心臓がふらふらとその居場所を失ったようで、自分が空っぽだったことがわかってしまったみたいで、私は自分の一息が短くなっていくのに気づいた。自分に何が起きているのかわからない。うわごとのように溢れていた私のその言葉は、もうどうしようもなくて、それから私の口からは嗚咽が漏れて来る。顔を上げられない。前を向けない。
「そうか、そんなことになっていたとは……可哀想な子だ」
そうして北崎の足が私の目の前を右へ、左へ、と行ったり来たりし始めた。
「でもそうか、そうだね……」
私はまだ嗚咽を抑えられずに、自分の身体を抱え込み、地べたにお辞儀するみたいに体をかがめるしかない。
「君には、助言者というものが必要だろう」
ふ、と北崎が息を吐くのが聞こえる。
「あまりに素直な君は、このままではろくでもない連中に食い物にされるだけだ。君に生きろと無責任に言った、その『男』のような、そういった類の人間にね。君はいくらでも騙される」
それから北崎は私の反応を伺うように言葉を止めて私の方へ歩み寄り、それから私の肩に触れて、うつむいていた私の身を起こした。私の涙の顔が、広場中に晒される。
「私が、もっと賢い生き方を教えてあげよう」
そう言って、北崎は私へ手を差し伸べる。涙でぼやけた視界の中に浮かび上がる白い手袋のその手。私がただそれを見つめるのみで動こうとしないのを見て、北崎は首を傾げ、それから一度身を引いた。
「君はまさか、自分がここで死ぬような人間だと思っているのか?」
そう言って急に冷たくなった声音が次の言葉を連れて来る。
「それは違う。間違っているよ。まさに、過小評価というものだ」
北崎は眉をひそめた。
「若く無垢な君はまだ、自分自身と言うものをよく理解していないのだろう。つまりどういうことかと言えば」
私ののどが、勝手に息を吸う。
「君は」
私のほおを涙がほろりと伝わり落ちる。
「『選ばれた方の人間』なのだよ」
眩しい光を背負った北崎は、私の顔の上に影を落としている。
「君はより深く、はっきりと、慎重に、正確に判断し、理解せねばならない。そして、次に君は、もっとも懸命な手を打つ必要がある」
彼は、丁寧すぎるくらいにゆっくりと言葉を発して、私にそれを飲み込ませる。
「我々の持つ刃は、いつでも君の首に届く位置にあり、一方、君には我々に歯向かう手立てがまるでない。そうだね?」
そうだ。そうだと私はよくわかっている。
「難しいことを言っているわけじゃない。私が君に『提案』しているのは、たったひとつなんだ。難しいことを考えなくていい。何が正しいか、間違っているかなんて判断する必要はないよ。君は、君の安全をとればいいだけだ」
北崎はひとつひとつ、確かなことだけを積み重ねていく。
「つまり君は」
北崎の影と眩しい明かりのたったふたつしかない私の世界の中に、その声だけが聞こえている。
「今ここで、私の手をとらねばならない」
論理と論理で組み上がった北崎の言葉が私に選択することを、その選択が正しいと認めてしまうことを要求する。ふらふらした心は、流れ着く先を求めていた。私は。
「さあ」
北崎が促すようにこちらに手を差し伸べ、優男が拳銃を握り直したのを見た時、私はもう自分のことがわからなくなっていた。その白手袋をはめた手を、私は取らなければいけないのだと思っていた。だから、どこか遠くから地響きのような音がしているのを雷の音だと思っていたし、その音が何度も繰り返されてから私の背後の鉄の扉がひどい音を立てて開いたのも、現実のこととは思えなかったのだ。
***
はじめにこの感覚を覚えたのは、この街に来て、あの兄妹を追って暗い街の中を走り回っていたときだ。俺に首をはねられそうになったあの兄貴が、刀で貫かれたまま、俺に向かって怒りのままに拳鍔をはめた拳を振り抜いた、あの時。ぎりりと見開かれたあの目が俺に向けられた時、俺はそれとわかって、かわしたのだ。そうか、やはりこれは。
とうとう俺にも分かったのかもしれない。いや、わかったのだ。俺自身の力というものが何なのか。俺が今こうして肌で、心臓で、脳髄で感じるこの「痺れ」た信号というものが何であるのか。
その信号が指し示す通りに右方から撃ち込まれた何かを刀で撃ち落とし、石畳の上に甲高い金属音を立てて落ちるナイフの銀色を捉えて、俺は暗闇の中の相手が誰なのか見当をつけた。ああ、こいつに決まっているな。
「やっぱり、『当たらない』か」
その、機械じみて淡々と発される音声の向こうから、路地の暗闇を徐々に頭から肩へ、背後に振り落として現れたのは、黒ずくめの男の姿。紅の瞳。今日は、ヤギの皮を被っていない
「悪いが、わかっちまうんだよ。お前がどれだけかくれんぼが得意だろうが、馬鹿みたいに垂れ流してんだろ、お前は」
相変わらず仏頂面の北崎の部下は、俺の言葉を微動だにせず聞いている。
「殺気をさ」
そうだ、俺が受け取るこの痺れは、他人の発す殺気だ。いや、むしろ俺は、俺に向けられた「殺意」というものを感受し、それが俺の身体を半ば反射的に動かしているのだ。俺に与えられた奇異の力は、この殺気を受け取る「生きるための」感覚器官。
「第六感か」
と奴が発すのを聞いて、俺はにや、と自分の口が歪むのを覚える。
「くだらない」
男はそう吐き捨てるのを聞きながら、今、焦って仕事をこなさねばならないはずの俺には、しかしこいつをからかうだけの心的余裕があった。
「『くだらない』それで自分がどんな目に遭ったのか覚えてないのか? お前」
男は言葉を発しない。表情の変わらないままの目で俺のことをじろりと見つめている。
「腕はくっついたんだな? そいつぁ、よかった」
奴は相変わらずその能面のように固まりきった表情を変えないながらも、
「黙れ」
と、俺が期待していた通りの反応を返すので、俺の口角は自然と持ち上がる。
「俺はおつかいを頼まれててな。お前に構ってる暇はねえんだよ」
そう言いながら、俺はいつでも走り出せるようにと足を引く。そうすると、奴もまた
「奇遇だ。俺も『おつかい』の真最中でな。だが、俺の方は、お前にも用がある」
ぐっと持ち上がった奴の手の指が、俺のことを不躾に指している。
「俺は今晩、ふたつの首を持ち帰ることになっている」
影の落ちた奴の顔の中で、しかしその紅の目だけがぼうっと浮き上がって見える。
「ひとつはきちがい女の。そして、……今決めた」
息を吐く。踏み出す準備はできている。
「もうひとつは、お前のだ」
温度を持たない奴の目がこちらをまっすぐと居抜き、奴が袖から繰り出したナイフのエッジがきり、り、と暗闇の中に白い線を引いた時、殺意の震えが俺の脳を、痺れるように貫いた。
***
「お前、は」
喉の奥が詰まったような北崎の声。振り向いた私の視界の中に確かに現れた、頼もしく勇敢な紫色の目。ふつふつと怒りに燃えるその柔和だった顔が、びりびりと裂け崩れていくのを、私は見ていた。




