事件の始まり
「宮島圭介ダナ。イタイ目に遭いたくナカッタラ、オトナシクしろ。ソノママ動くな」
背後から聞こえる男のアクセントは、どこか合成音声のようだ。が、一音一音、圭介の耳から体へと、しっかりと浸み渡っていく。動くな、などと言われなくても、恐怖のあまり、体は硬直している。
背中の一点に、何か硬いものを押し当てられている感触がある。拳銃などというものに、まったく縁のない生活を送ってきた圭介にとって、背中に押し当てられたのは、きっと拳銃だった、と思い至るのは、後になってからだ。黒ずくめの男ふたりが圭介を黙らせるには、脅し文句だけで、十分だったのだ。
宮島圭介・45才は、大阪の電子部品メーカーに勤めるエンジニアだ。金曜から土曜に替わろうかという深夜、東京での出張仕事を終え、夜行バスで大阪への帰途につこうとしていた。
バスに乗る前に用を足しておこうと、圭介は、ターミナル横のビルの洗面所に入った。
個室から出て、洗面台で手を洗おうとしたときだ。突如、背後に気配を感じて、圭介は、顔を上げた。
目の前の鏡には、圭介の背後にピタリと張り付くように、ふたりの男が映っていた。ひとりは、中肉中背の圭介よりわずかに背が高く、もうひとりは、頭半分低い小柄な男だ。
圭介は、驚いてビクンと体を震わせた。
いつ、ふたりの男が入ってきたのか、ふたりが圭介の背後に来るまで、まったく気づかなかった。
この男たち、見るからに怪しい。黒いスーツに、黒いネクタイ、黒いハット、黒いサングラス。ギャングと言えばの、そのままの格好をしている。
怪しいふたり組にビビりながらも、『ブルースブラザーズか』と、心の中でツッコミを入れたとたん、背中に硬いものが押し当てられ、動くな、と脅されたのだ。
圭介は、ヒュッと息を吸う。『うそやろ~』と心の中で叫ぶが、声にはならない。
まばたきもせず鏡の中の男たちを見つめていると、背の高いほうの男が、スーツの内ポケットから手錠とアイマスクを取り出した。そして、無造作に圭介の腕をつかむ。圭介は、はっとして、わずかに身じろぎをした。
「あ、あのー」
圭介は、勇気と声を振り絞る。これだけは、どうしてもやっておかねばならない。
「手、手ぇだけ洗わせて。だ、大をしたもんで」
圭介は、決して潔癖症などではない。幼い頃、トイレの後は手を洗えと、それだけは、母親から小うるさく躾けられた圭介にとって、大のあと、手を洗わないままでいることの心地悪さが、この場の恐怖に勝ったのであった。
無事、圭介は、手を洗う猶予を与えられた。そして、今度こそ、後ろ手に手錠をはめられ、アイマスクをつけられた。
大声を出せば、だれか助けてくれるだろうか。そんな考えが過ぎるも、周りの様子が見えない中で、下手に声を出せば、どうなるかわかったものではない。圭介には、成すすべがなかった。
引きずるように洗面所から連れ出されたあと、程なく圭介は車に乗せられたようだった。
俺は、なんでこんな目に遭うてるんや。これからどうなるんや。疑問と不安と恐怖が、圭介の頭の中を駆け巡る。
そして、車に揺られながら、圭介は、家族のことを思う。お母ちゃ~ん、龍之介~、百合香~。お前たちに、また無事で会えるんかなあ……
圭介は、妻とふたりの子どもたちの顔を思い浮かべながら、気を失ったのだった。




