宿屋の娘 三
西隣の町との戦争は一日で終わった。私たちのほうは、大人も子供も、誰も死ななかった。
魔法使いが腕を怪我してしまったけれど、彼のお陰で、ユルペンニアは無事だった。
「今日は何を狩りに行くの?」
畳んだ洗濯物を持っていったら、魔法使いは火鉢の火を消しているところだった。テーブルには小さなカバンが置かれていて、いつもより厚い上着を着てる。いつもと違う黒い服で、腰にとめたベルトだけ同じ。
振り向いて、洗濯物を置いてほしいところを指差して、彼は首を振った。
「いや、今日は、北の町の魔法使いに会いに行く。しばらく帰らぬが部屋はそのままにしておいてくれ」
「わかったわ。お母さんに言っておく」
じゃあ、お夕飯もいらないんだわ。今日はせっかく私が手伝うのに。今度はおいしいって言わせてやろうと思っていたのに、残念。
「ねえ、ヨソの魔法使いに会ってどうするの? 友達?」
尋ねると、彼は口の所に手を当てて考えるフリをする。
じっと見上げて見つめると、窓から入ってくるお日さまの光が銀の髪に当たってきらきらして、見惚れるほどきれいだった。生まれてからずっと見慣れているんだけれど。
物語に出てくる妖精も、こんな感じかしら。
それにしても今日の黒い服、普通っぽいわ。魔法のものじゃないのかしら。今日は鳥にならないのかな。
「本当は手土産を渡して狩場を貸してもらおうと思っていたのだが、弓が引けなくなったからな。あちらの欲しいものと私の欲しいものを取り換えてくるか」
言いながら、だらりと下がった左手を見下ろして、右手でカバンを手にする。そうか。もしかして、腕を壊したから、鳥になっても飛べないのかも。
ユルペンニアは無事だったけど、彼の腕はもう二度と元には戻らないらしい。魔法でやられた怪我だから、魔法でも治せないのだって。彼にできないことがあるなんて、思いもよらなかったのに。
「……やっぱり戦争なんか、しなきゃよかったのよ」
それでも彼は平然としてる。泣きも怒りもしない。前と変わらないまま、魔法を作ったりしている。
私が下を向いて呟くと、手が下りてきた。
「私もそう思うが」
頭を押さえる手は、お母さんより力が強いけど、お父さんより重くない。なんだか不思議な感じだった。
彼に頭を撫でられたことは、何度もある。でもいまいち慣れないでいる。もう十年も慣れないで、きっとこの先も慣れないでいるうちに、すぐに私は大人になって、頭を撫でるのは終わりになるに違いない。そういうことってけっこう多いんだわ、きっと。
手が離れてドアを開ける音がした。顔を上げると、腕が不自由で編めなくなったからなのか、男の人らしく一つにまとめて結んだだけのきれいな髪が黒い上着の背中で広がっていた。編むのもそうだけど、結ぶのも片手だと難しいに違いない。どうやったのかしら、魔法なのかしら。でも結び目は普通の――
あら?
「ねえ!」
それ、何の魔法?
訊く前に魔法使いは振り向いて、見覚えのある赤い髪結い紐は向こうに消えた。
にっこりと優しく笑って、動く右手をちょっと振る。見慣れたうちのドアが、何か特別な出入り口のように見えた。
「土産を持ってくるから楽しみにしておれよ」
今日はお母さんも居なかったのに、答えを聞く前どころか、問いかけをする前に、彼は言いたいことだけ言ってうちを出ていってしまった。ゆらと閉まろうとするドアの向こうで足音がすぐに聞こえなくなってしまったのは、何の魔法なんだろう。そもそもあの人はいくつ魔法を持っているのかしら。――それであれは結局、何の魔法なの?
バタン。と、普通の音がした。火が消えて人が居なくなってうっすらと寒くなった、いろんな魔法が置いてあるはずの部屋を見渡して、でもそれらには一切触れないで、私はそっと部屋のドアを開けた。
向こう側はやっぱり普通に、誰も居なくてしんとしたうちの廊下だったけれど、なんだかとてもどきどきした。魔法使いが帰ってきたら訊くことがいっぱいある。スープも食べてもらわないと。
私は、お母さんに呼ばれる前に階段を駆け下りた。はじめて持ってきてくれるっていうお土産については教えないけど、しばらく帰らないってことは、ちゃんと教えないと。
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