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微睡みの世界で、まやかしの幸せを  作者: 色葉充音
Part 1 方波見陽翠の『 』
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07 奇跡の代償

 3年前の春——。




 ……まだ足りない。全然足りない。こんなんじゃお父さんとお母さんが満足してくれる奇跡は起こせない。カッターナイフを持っていない左腕は、肌色が見えないくらいにずたずたで赤く染まっていた。


 震える体も、冷や汗が止まらない指先も、速い鼓動と共鳴するように流れる血も、そこに新しく傷をつける鉄臭さに濡れたカッターナイフも。……全部痛い。痛いはずだよ。


 そのはずなのに、どうして何も感じないの?


 腕は、私の思ったように動いて思ったように傷をつける。

 目は、苛立ちを浮かべたお父さんとお母さんを映している。

 耳は、忙しない心音を静寂と共に拾っている。

 鼻は、腕から流れ出る鉄臭さを突きつけてくる。


 痛みだけは、感じない。


 じんじんするのも、切った感覚も、熱を持っているのも分かる。でもそれが痛みに繋がらない。


 全ての感覚から痛みだけが切り離されている。最近あった変わったこと——紙で指を切ったことに血が付いたノートを見るまで気づかなかったり、熱いお茶で舌をやけどしたことに味がしにくくなるまで気づかなかったり——は、全部この前触れだった……?


 ……私、とうとう本当に壊れちゃったかなぁ。


 ぐちゃぐちゃになった切り傷まみれの左腕へ、追い打ちをかけるようにカッターナイフで鋭い線を引く。切り口の気持ち悪さがある。体中から温度が引いていく。喉の奥に酸っぱいものだって感じる。


 痛みだけは、やっぱり感じない。


 音にならない乾いた笑いは目の前の二人へと届く前に消えていった。


「陽翠、早くやりなさい」


 お父さんの言葉に返せるものは何もない。万能なはずの私の異能は痛みがなければ使えない。二人の望む奇跡は起こせない。……そんな私に、存在価値はあるの?


「ひす——」


 ぴんぽーん、とお母さんの言葉を遮ったのは長らく飾りになっていた玄関のチャイムだった。


「……あなた、何か荷物でも頼んだ?」

「いや、特に覚えはないが」


 どういうこと? ご近所付き合いなんてものはほとんどなく、稀にやってくる郵便物は大抵宅配ボックスに入れられるはず。さっきまで浮かべていた苛立ちを綺麗さっぱり隠して、不思議そうな表情の仮面を被ったお母さんが玄関に向かった。


「……余計なことはせず、大人しくしていなさい」

「……は、い」


 絞り出した声でそう答えると、ドア1枚を挟んだ先からはーい、と玄関の扉を開ける音がする。


「……な、何をしてるんですか!?」


 ドタドタと複数の足音。誰かが家に入ってきた……? 体中に今までのものとは違う緊張が走る。お父さんは見たことがないほど強張った表情をしてドアの向こうの玄関を睨んでいた。


「異能省所属特殊異能事件対策局です。方波見碧依(あおい)さんですね。異能保護法第19条、異能収奪(しゅうだつ)罪の容疑で逮捕します」

「……は? え、ちょっ……離しなさいよ!」


 特殊異能事件対策局? 異能収奪罪? お母さんが逮捕された……? ……私はどうすればいい? これからどうすれば……?


「お、おとうさ……」


 頬に、衝撃を感じた。次の瞬間にはフローリングに倒れていた。ゆっくりと上体を起こして、ぐらぐらと揺れる頭で考える。……私、たたかれた? 冷たい怒りと諦めを宿した瞳でお父さんはこちらを見ていた。


「……の……いだ。……お前の、せいだ。全部、ぜんぶお前が生まれてきたせいだ。お前がいるせいで親戚も友人も誰一人残らず離れていった。お前がいるせいで生きがいだった医者の仕事をやめざるを得なかった。お前がいるせいで私たちの人生は狂った。……お前がいるせいで、不幸だった。どうして生まれてきたんだ、……陽翠」


 ドアを開けて入ってきた大人たちにお父さんは逮捕される。


 ——私のせいで孤独になった。


 罪状はお母さんと同じだった。


 ——私のせいで失った。


 「異能者(わたし)の権利を踏みにじる許されない行為」をしたらしい。


 ——私のせいで変わった。


 その行為がどれのことを言っているのかは分からなかった。


 ——……私のせいで、幸せになれなかった。


 最後に見たお父さんは、「不幸せだ」と空っぽに笑っていた。



「陽翠さん、立てますか?」


 あの人が連れていかれた後、取りまとめ役をしているらしい男性に声をかけられた。その人は、黒に白いメッシュが入った長髪を黒い紐で緩く束ねている。立てます、その言葉は声として出てくれない。


 男性は私と視線の高さを合わせるように屈み、微笑む。そしてゆっくりとした動作で私の右手に触れた。……温かい。誰かが手を握ってくれるのなんていつぶりかな。

 言葉は何もなかったのに、「大丈夫ですよ」って声が聞こえた。


 目の辺りがじんわりと熱くなってぽろりと涙が溢れる。涙腺の堰を切ったのが久々だったせいか、次から次へと止まらない。これはたぶん、安堵。たったの数十分前まではあり得なかったものだ。


 頬を伝って涙がぽたりと傷だらけの左腕に落ちる。——と同時に、さっきまで感じていなかったはずの痛みが襲ってきた。


「……っぅ……ぐ」


 痛い。……痛い、痛い、痛い痛い痛い! 何、なんで、……なんで痛い? さっきまでは全然痛くなかったのに。

 心臓がドクンドクンと暴れ始める。何十回とカッターナイフでつけた傷一つ一つが叫んでいる。空気に触れるたび、血が巡るたびに我慢できない痛みが積み重なっていく。


 私の右手を握ったまま男性が何か言っている気がする。でも、今聞こえるのは自分の心臓の鼓動と荒い呼吸音だけ。


「はっ……ぁ、いっ……」


 痛い……もう、無理。


 そう思った瞬間、瞳に熱が集まっていく感覚がした。涙が出る時とは似ていて違う、もっと強大な別の何か。いつもと違うのはそれを抑える方法が分からないこと。

 痛みがだんだんと軽くなっていく。傷がだんだんと薄くなっていく。


 若葉色に光る私の瞳が近くに佇んでいるテレビに反射して見えた。


 四方八方に飛び出してしまいそうな強い力をぐっと堪える。だめ、今ここでなんてだめ。この人を怪我させちゃう。初めて私に、大丈夫だって伝えてくれたこの人を傷つけたくない。落ち着いて、大丈夫だから。落ち着いて、……落ち着かないと。


 ドン、と何かがぶつかる音がした。誰かの小さなうめき声が聞こえた。




「——それで、異能省の人を突き飛ばしてしまってからは、今回みたいに罪悪感に溺れて、自分の異能でその……自分自身を消そうとしてしまって……。結局、その人に精神干渉系の異能を使って助けてもらった、ということがありました」


 あの、これで話は終わりなんですけど……。布目先生も綾世先輩もさっきから何を考え込んでいるんですか。視線が一点から動いてないから、気になることでもあったのかもしれない。声はかけない方がいい、よね。


 数十秒経って、先に思考の海から上がってきたのは布目先生だった。訝しげな顔をして、つかぬことを聞くんだが、と続ける。


「その異能省の人の名前って分かるか?」

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