09 祈り
闇に包まれた温度のない世界で、ただただ自分を傷つけていた。右手に持ったカッターナイフを、ずたずたと左腕に突き刺しては抜いていた。
くらくらするほどの鉄の臭い、気持ちの悪い生ぬるさ、心臓が動くたびに襲ってくる激しい痛み。でも、こんなのじゃ全然足りない。もっと、……もっと痛くしないといけない。
……どうして私は傷つけているの?
傷つけないといけないから。あの人に笑ってほしいから。あの人は幸せにならないといけないから。
……あの人って誰?
柘榴色の髪の、両耳から黒い羽のついたピアスを揺らしている、悲しそうに笑う先輩。
「——……」
きっと先輩は泣いている。ひとりで辛そうに泣いている。
「……み——」
誰か、私の名前を呼んだ?
「——……やせ!」
誰か、先輩の名前を呼んだ?
「————方波見!」
はっと目が覚める。柘榴色に光る瞳と目が合った。
涙は一滴も流していないのに、やっぱり泣いている。
「……陽翠、もっと傷つけないと」
綾世先輩の言葉に、大きく心臓が脈打つ。……そうだ、傷つけないといけない。こんなものじゃ足りない。
血だらけのカッターナイフを大きく振りかぶって、右腿に突き刺した。
「……っ、ぅ」
さっきまでのものとはまた違う痛みが襲ってくる。体の深くまで傷つけるこの感覚は、今まで知らなかったものだ。……どうせなら、知りたくなんてなかった。
でも、まだまだ傷つけなければいけない。もう一度、今度は傷口を広げるようにカッターナイフを動かす。
「……ぐ、……ぅ……」
その時、遠くから階段を駆け上るような足音がした。大きな音を立てて開いたのは、私と綾世先輩から10メートルほど離れたところにある屋上の扉。
「方波見! 綾世!」
私たちの名前を呼んだのは、紫色の目隠しを外して瞳を金色に光らせた布目先生だった。綾世先輩はゆっくりと向き直り、先生に対して笑顔で語りかける。
「布目先生、何の用ですか?」
「……綾世、お前何をしようとしてるんだ?」
質問に質問で返した布目先生へ苛立ちを抱くような素振りもなく、先輩は何でもないことのように答える。
「異能者が好かれる世界にするんですよ」
「……どうしてだ?」
「俺は……幸せに生きないといけないから」
それが綾世先輩のお父さんの言葉からくるものだと気づいたのか、先生ははっと息を呑んだ。そして、こちらへ一歩近づこうとする。
「来ないでください」
すかさず放たれた言葉に、布目先生は止まった。睨み合いがしばらく続く。それを破ったのは、笑顔を崩した綾世先輩だった。
「……どうして、止めようとするんですか? 俺たちは黒の異能者ですよ? 布目先生が止めたところで、結果は変わらないのに」
先生は、はぁ、と大きなため息を吐いて、呆れたように言葉を紡ぐ。その時、血の涙がつつと頬を伝った。
「だいたいなぁ、お前たちは黒の異能者である前にオレの生徒なんだ。……それにな綾世、オレはお前を頼まれてるんだ。センセイ……お前の父さんからな」
瞬間、綾世先輩から感情の揺らぐ気配がした。悲しみ、絶望、怒り、無力感、辛さ、後悔、憎悪……そんなものがないまぜになっている。
「綾世、あの時お前の父さんは言ってただろ?」
……今その言葉をかけたとしても、綾世先輩は考えを変えない。深淵のさらに奥底へと入ってしまっているような先輩に、その言葉は届かない。
「……強く生きろって、誰かに誇れる生き方をしろって、幸せになれって」
乾いた笑い声がした。
「強く生きられたら、こんなことはしていませんよ。誰かに誇れる生き方なんて、……千兄さんが亡くなった時に諦めた。でも、だからこそ……俺は幸せにならないといけない。……幸せに、なりたいんです」
先輩は吐き出すように呟いて、私と目を合わせる。
異能者を嫌うこの世界への失望と絶望、異能者が好かれる世界への希望と願望、そして、幸せになりたいという心が痛いほど伝わってくる。
ずっと苦しかった、ずっと辛かった、ずっと不幸せだった。それは私たちが異能者だから。異能者は幸せになってはいけないから。この世界から、そんな呪いをかけられたから。
「ねぇ陽翠……黒の異能者のきみなら分かるでしょ? この世界がどんなに生きづらくて、どんなに不幸せか。だからさ……」
だから、嫌われ者の異能者が好かれる世界では、きっと幸せになれる。
「……泣かないで、ください、よ」
痛みを堪えて、血まみれになった左腕を伸ばして、そっと綾世先輩の頬に触れた。
その瞳の柘榴色の光は、だんだんと強くなっていく。
「もう、戻れない。……ごめんね」
感覚の薄くなっている左手を優しく握られた。異能をかけられる気配がした。
——……傷つけ、ないと。
傷つけないと、痛くしないと、傷つけないと、傷つけないと、痛くしないと。
右手でカチカチとカッターナイフの刃を出す。
痛くしないと、傷つけないと、傷つけないと、痛くしないと、傷つけないと。
ぐるりと自分に刃を向ける。
痛くしないと、痛くしないと、傷つけないと、痛くしないと、傷つけないと。
——とすっと、自分の胸を刺した。
遠くの方で私たちの名前を呼ぶ布目先生の声が聞こえる。
「……異能者を嫌う記憶を書き換えて。世界の全部を書き換えて」
命が抜けていく。生温かい血が抜けていく。
「そうしたらきっと、——俺たちは幸せになれる」
瞳に熱が集まってくる。目の前の柘榴色の光が強くなっていく。もはや、どちらの意思で異能を使っているのかは分からない。
——ただ、幸せになりたい。
「お前たちの……異能者の幸せを諦めるな!」
胸を刺した痛みがゆっくりと抜けて、視界が白く染まっていく。もう止めない。もう止められない。でも……頼っても、巻き込んでもいいんですよね、布目先生。
……この不幸せな現実を知っていても、私だって笑いたい。私たちも、心から幸せだって笑い合いたい。私を私として見てくれたこの人に、笑っていてほしい。
——もしも叶うのなら、綾世先輩と一緒に幸せだって笑い合えますように。
最後に見えた先輩は、顔をくしゃりと歪めて涙を流していた。
……泣かないで。
意識が、思考が、言葉が、心地よく微睡む世界へと沈んでいく——。




