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微睡みの世界で、まやかしの幸せを  作者: 色葉充音
Part 2 法月綾世の『 』
31/32

09 祈り

 闇に包まれた温度のない世界で、ただただ自分を傷つけていた。右手に持ったカッターナイフを、ずたずたと左腕に突き刺しては抜いていた。


 くらくらするほどの鉄の臭い、気持ちの悪い生ぬるさ、心臓が動くたびに襲ってくる激しい痛み。でも、こんなのじゃ全然足りない。もっと、……もっと痛くしないといけない。


 ……どうして私は傷つけているの?


 傷つけないといけないから。あの人に笑ってほしいから。あの人は幸せにならないといけないから。


 ……あの人って誰?


 柘榴色の髪の、両耳から黒い羽のついたピアスを揺らしている、悲しそうに笑う先輩。


「——……」


 きっと先輩は泣いている。ひとりで辛そうに泣いている。


「……み——」


 誰か、私の名前を呼んだ?


「——……やせ!」


 誰か、先輩の名前を呼んだ?


「————方波見!」


 はっと目が覚める。柘榴色に光る瞳と目が合った。

 涙は一滴も流していないのに、やっぱり泣いている。


「……陽翠、もっと傷つけないと」


 綾世先輩の言葉に、大きく心臓が脈打つ。……そうだ、傷つけないといけない。こんなものじゃ足りない。

 血だらけのカッターナイフを大きく振りかぶって、右腿に突き刺した。


「……っ、ぅ」


 さっきまでのものとはまた違う痛みが襲ってくる。体の深くまで傷つけるこの感覚は、今まで知らなかったものだ。……どうせなら、知りたくなんてなかった。


 でも、まだまだ傷つけなければいけない。もう一度、今度は傷口を広げるようにカッターナイフを動かす。


「……ぐ、……ぅ……」


 その時、遠くから階段を駆け上るような足音がした。大きな音を立てて開いたのは、私と綾世先輩から10メートルほど離れたところにある屋上の扉。


「方波見! 綾世!」


 私たちの名前を呼んだのは、紫色の目隠しを外して瞳を金色に光らせた布目先生だった。綾世先輩はゆっくりと向き直り、先生に対して笑顔で語りかける。


「布目先生、何の用ですか?」

「……綾世、お前何をしようとしてるんだ?」


 質問に質問で返した布目先生へ苛立ちを抱くような素振りもなく、先輩は何でもないことのように答える。


「異能者が好かれる世界にするんですよ」

「……どうしてだ?」

「俺は……幸せに生きないといけないから」


 それが綾世先輩のお父さんの言葉からくるものだと気づいたのか、先生ははっと息を呑んだ。そして、こちらへ一歩近づこうとする。


「来ないでください」


 すかさず放たれた言葉に、布目先生は止まった。睨み合いがしばらく続く。それを破ったのは、笑顔を崩した綾世先輩だった。


「……どうして、止めようとするんですか? 俺たちは黒の異能者ですよ? 布目先生が止めたところで、結果は変わらないのに」


 先生は、はぁ、と大きなため息を吐いて、呆れたように言葉を紡ぐ。その時、血の涙がつつと頬を伝った。


「だいたいなぁ、お前たちは黒の異能者である前にオレの生徒なんだ。……それにな綾世、オレはお前を頼まれてるんだ。センセイ……お前の父さんからな」


 瞬間、綾世先輩から感情の揺らぐ気配がした。悲しみ、絶望、怒り、無力感、辛さ、後悔、憎悪……そんなものがないまぜになっている。


「綾世、あの時お前の父さんは言ってただろ?」


 ……今その言葉をかけたとしても、綾世先輩は考えを変えない。深淵のさらに奥底へと入ってしまっているような先輩に、その言葉は届かない。


「……強く生きろって、誰かに誇れる生き方をしろって、幸せになれって」


 乾いた笑い声がした。


「強く生きられたら、こんなことはしていませんよ。誰かに誇れる生き方なんて、……千兄さんが亡くなった時に諦めた。でも、だからこそ……俺は幸せにならないといけない。……幸せに、なりたいんです」


 先輩は吐き出すように呟いて、私と目を合わせる。


 異能者を嫌うこの世界への失望と絶望、異能者が好かれる世界への希望と願望、そして、幸せになりたいという心が痛いほど伝わってくる。


 ずっと苦しかった、ずっと辛かった、ずっと不幸せだった。それは私たちが()()()だから。()()()は幸せになってはいけないから。この世界から、そんな呪いをかけられたから。


「ねぇ陽翠……黒の異能者のきみなら分かるでしょ? この世界がどんなに生きづらくて、どんなに不幸せか。だからさ……」


 だから、嫌われ者の異能者が好かれる世界では、きっと幸せになれる。


「……泣かないで、ください、よ」


 痛みを堪えて、血まみれになった左腕を伸ばして、そっと綾世先輩の頬に触れた。

 その瞳の柘榴色の光は、だんだんと強くなっていく。


「もう、戻れない。……ごめんね」


 感覚の薄くなっている左手を優しく握られた。異能をかけられる気配がした。


 ——……傷つけ、ないと。


 傷つけないと、痛くしないと、傷つけないと、傷つけないと、痛くしないと。


 右手でカチカチとカッターナイフの刃を出す。


 痛くしないと、傷つけないと、傷つけないと、痛くしないと、傷つけないと。


 ぐるりと自分に刃を向ける。


 痛くしないと、痛くしないと、傷つけないと、痛くしないと、傷つけないと。


 ——とすっと、自分の胸を刺した。


 遠くの方で私たちの名前を呼ぶ布目先生の声が聞こえる。


「……異能者を嫌う記憶を書き換えて。世界の全部を書き換えて」


 命が抜けていく。生温かい血が抜けていく。


「そうしたらきっと、——俺たちは幸せになれる」


 瞳に熱が集まってくる。目の前の柘榴色の光が強くなっていく。もはや、どちらの意思で異能を使っているのかは分からない。


 ——ただ、幸せになりたい。


「お前たちの……異能者(オレたち)の幸せを諦めるな!」


 胸を刺した痛みがゆっくりと抜けて、視界が白く染まっていく。もう止めない。もう止められない。でも……頼っても、巻き込んでもいいんですよね、布目先生。


 ……この不幸せな現実を知っていても、私だって笑いたい。私たちも、心から幸せだって笑い合いたい。私を私として見てくれたこの人に、笑っていてほしい。




 ——もしも叶うのなら、綾世先輩と一緒に幸せだって笑い合えますように。




 最後に見えた先輩は、顔をくしゃりと歪めて涙を流していた。

 ……泣かないで。


 意識が、思考が、言葉が、心地よく微睡(まどろ)む世界へと沈んでいく——。

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