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微睡みの世界で、まやかしの幸せを  作者: 色葉充音
Part 2 法月綾世の『 』
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04 何も映さない

 気づいたら頬に温かい水が伝っていた。


「陽翠は、優しいね」


 綾世先輩は暗闇の世界を眺めて悲しそうに笑っている。……もしかすると先輩は泣けないのかもしれない。ふと、そう思った。

 世界は目まぐるしく移っていく。



『——綾世くん、大丈夫ですから。……きっと、大丈夫ですから』


 言い聞かせるような千さんの声。


『——何かあったら連絡しろよ? もちろん何もなくてもいいからな』


 から元気に笑う布目先生の声。


『——今日からここがきみの部屋だ』


 感情が乗っていない見知らぬ男性の声。


『——あー、異能者だー。どうしてこんなところにいるの? ここは人間の場所だよ?』


 ボールと共に投げられる無邪気な子どもの嗤い声。世界のピントが合った。


 ブランコが2つと滑り台が1つ、少し大きめのジャングルジムが1つ置かれているだけの公園。あの時よりも大きくなった綾世先輩は、長く伸びる影を見ながらブランコに腰掛けていた。その表情には何も映していない。


 そこにやってきたのは小さな先輩と同じくらいの男の子3人、先輩を指差してさっきの言葉を放つ。先輩は、言葉とか感情とか、そういうものを全部飲み込んで、ブランコの傍らに置いていた黒のランドセルを掴んだ。ぼろぼろになっているそれは、まるで綾世先輩の心みたいだ。


 男の子3人の横を駆け足で通り過ぎて、その勢いのまま住宅街の中にある2階建の一軒家にたどり着く。ごそごそとランドセルから取り出した鍵で扉を開けて、静かな家に「ただいま帰りました」と呟く。その表札は「法月」ではなかった。


 半透明な綾世先輩に促され、お邪魔しますと家に入った。薄くほこりを被ったテーブル、台所の綺麗なシンク、閉ざされた空気の匂い……。小さな先輩は生活感のないリビングを素通りすると、洗面所で手を洗って2階に行った。


 端の方にある扉を開けて、中にあるベッドへぽすんと倒れ込む。枕元に置いている薄汚れた手のひらサイズのエイのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。


『大丈夫、俺は大丈夫。父さんにもらったお守りがある。……だから、大丈夫』


 呪文のような呟きは、時計の音が響く部屋にかき消されていく。勉強机とベッド、教科書くらいしか入っていない棚、小学生の部屋にしてはやけにものが少ない。


 ……大丈夫、大丈夫だと伝えられたら、そう伸ばした手は虚しくも空気を掴んだ。半透明な綾世先輩の悲しく微笑む気配がした。


「……この家はね、俺を引き取った父方の遠い親戚夫婦のもの。2人とも、俺を悪いようには扱わなかった。ちゃんと食費だってくれたし、必要なものは与えてくれた。身体的にも精神的にも、暴力を振るわれることなんてなかった。……ただ、最低限しか関心を向けてくれなかった」


 どうして、喉元まで上がってきた言葉をごくりと飲み込む。そんなもの、黒の異能者だから以外に理由がない。


「仕事が忙しいのか家に帰ってくることはほとんどなくて、帰ってきたとしても、『ただいま帰りました』『ああ』くらいのやり取りだけ。……どう接すれば良いのか、分からなかったんだろうね」


 「でも、優しい人たちだったよ」そう付け加えた綾世先輩は、相変わらず笑っていた。

 秒針の音が離れていく。世界が暗転する。


 瞬きをすると、体を守るようにして膝を抱える体勢で倒れている先輩の姿が見えた。その服は土埃に汚れていて、体はぴくりとも動かない。近くに聞こえていた3人の嗤い声がだんだんと離れていく。


 ……いじめを受けている。当たってほしくない想像が正解だと、半透明な綾世先輩の眉を下げた表情が物語っていた。


「……陽翠?」


 無意識に、綾世先輩の制服の袖を掴んでいた。このまま記憶の中に消えてしまいそうだと思った。悲しみと苦しみの海に沈んでしまいそうだと思った。まるで、私が先輩の命綱にでもなっている気分だ。……絶対に、この手は離さない。


 先輩は何も言わずに、私の好きなようにさせてくれた。


 小学6年生になったらしい小さな先輩の毎日は、見ているこちらですら苦しいと思うようなものだった。


 朝6時半に起きて、昨日受けた傷の確認をする。朝食の分のお金は使われずに溜まっていく一方。学校に行って一番後ろの席に座り、ただ呼吸をして始業を待つ。それなりに先生の話を聞いて、それなりにノートを取って、それなりに呼吸をして。気がついたら昼休みの時間。


 いじめっ子とは別クラスなのか、給食を食べるまではこれといって事件はない。急いで食べ終わったのと同時に、あの3人がやってくる。


『ちょっと付き合え』


 綾世先輩に拒否権なんてものはなく、引きずられるようにして校舎裏へと連れられていく。そこで蹴られて、蹴られて、蹴られて……予鈴が鳴ったら、満足したように3人は去っていく。吐き気を抑えるよう口元に手を当てて、ゆらりと立ち上がった小さな先輩の目には、何の感情も映ってはいなかった。


 土汚れを纏ったまま教室に戻っても、ただただ視線を逸らされるだけ。担任の先生ですら何も言わない。


 掃除時間が過ぎ、午後の授業が始まる。それなりに先生の話を聞いて、それなりにノートを取って、それなりに呼吸をして。終わりの会という名のホームルームの後は、ぼんやりと帰路につく。その途中であの3人に捕まることもあれば、何もない日だってある。


 今日は何もない日だったようで、先輩は静かな家に向かって「ただいま帰りました」と呟いた。

 10分もかけずに宿題を終わらせて、明日の学校の準備をする。終わりの会で返された宿題のプリントには100点と共に花丸がついていた。


 あらかじめ買っていた夕ご飯を食べて、お風呂に入ったり歯を磨いたりと眠る準備をして、倒れるようにベッドへ沈む。

 白かった部分がすっかりくすんでしまったエイのぬいぐるみを抱きしめて、呪文のように言葉を吐いた。


『大丈夫、大丈夫、……俺は大丈夫。明日も生きられる』


 この時だけ、その瞳には苦しさと辛さが浮かんでいた。じわりと溢れるその涙を拭ってくれる人は誰もいない。……気づいている、知っている、分かっている。でも、()()の綾世先輩に()の私はどうすることもできない。


 小さな先輩は、泣き疲れてそのまま眠りに落ちていく。その手からこぼれたエイのぬいぐるみが、蓋の空いているランドセルに転がり入った。

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