マスターの回想
喫茶店のマスターの小話。
少年の両親に基づくお話。
カランコロン。ドアに付いたベルが軽やかな音を立てる。カップを拭く手を止め、ドアの方に目をやると、少し年配の男女が立っていた――私は彼らが若い時から知っている。二人がこうして肩を並べて私の店に入ってきたということは
「やっと、終わったんですね」
そう声をかけると二人は長く離れていたとは思えないほど、よく似た顔で笑った。
この二人の出会いはよく覚えている。なぜなら私がこの店で働き始めたのと同じ時期だったうえに、彼らの出会いは少々『衝撃的』だったからだ。
当時のこの店の主人は厳格で頑固で無口。しかし主人が淹れる珈琲は絶品だった。当時の私はまだ店員として食器ぐらいしか触らせてもらえず、珈琲はおろか、サンドイッチなどの軽食さえ作らせてもらえなかった。
そんなある日、一人の美しい少女が店に入ってきた。高校生ぐらいだろうか?あまり見かけない制服と類まれぬ美貌、理知的な雰囲気、今まで見てきたどの女性よりも美しかった。私は思わず見惚れてしまった。少女は真っ直ぐカウンターに腰を下ろし、珈琲を注文した。私が主人の淹れた珈琲を彼女のもとまで持っていくと、小さくありがとうと言って砂糖もミルクも入れず、顔色一つ変えずに出された珈琲を飲み始めた。客も他には数人しかおらず、静かな時間が店の中に流れている時、急に外からドタバタとうるさい物音が聞こえてきた。
ジャランッ。いつも心地よい音を奏でるはずの鈴の音に耳障りな音を立てさせて入ってきたのはこれまた高校生くらいの少年だった。ずぶ濡れになっているところを見ると、雨に降られたのだろう。外は午後からそれなりに激しく雨が降ってきている。きっと傘を持っておらず、目に入ったこの店に雨宿りにでも来たのだろう。私が少年にタオルでも渡そうかと店の奥に入ろうとした時に、横目で少年をにらむ少女と主人が見えたのには少し肝を冷やした。
私が少年に持ってきたタオルを渡すと、少年は小さくありがとうございます、と言ってメニューを見始めた。しばらくして少年は私を呼び、主人自慢の珈琲を注文した。注文を告げると主人は渋々といった感じで珈琲を入れ始めた。きっと少年がドアをうるさく開けて入ってきたことが気に食わないのだろう。しかしたとえ気に食わない客だとしても、主人は珈琲の質を下げないところにプロを感じる。いつも通り丁寧にいれられた美しく透き通った珈琲を私が少年のもとまで運ぶと、少年は私にミルクと角砂糖を持ってくるように頼んできた。言われるままにミルクと角砂糖を持ってくると少年は躊躇なしに持ってきたミルクと角砂糖を全部入れる。主人自慢の珈琲がミルクにより濁り、不透明なベージュになる。珈琲そのものの味に自慢のある主人はもう少しで少年の胸ぐらを掴みにかかりそうだった。そんな中少年を黙って睨んでいた少女がポツリと、お子様ね、非常識だわとつぶやく。それを耳にした少年は珈琲そっちのけで少女のもとに歩み寄り
「あんた今俺に向かっていったのか」
「あなた以外いないでしょう?うるさく入ってきたり、ブラックも飲めないし、あろうことか砂糖もミルクも全部入れるなんて。せっかくの放課後が台無しだわ」
きれいな顔して結構言うなぁと思ったが、少年は少年で黙っていられないらしく
「初対面の相手に向かって偉そうに。あんたこそマナーがなってないんじゃないか?」
「誰のマナーがなっていないというの?」
そうして二人の間にバチバチと火花が散りはじめ、言い争いの喧嘩になってしまった。さすがに止めに入ろうかと二人の間に立とうとしたときに主人が私より先に二人のもとへ歩み寄り、肩にゆっくりと手を置いて
「お代はいらないからもう帰ってくれ」
私にはわかる。主人は相当切れている。私が誤って皿を大量に割ってしまった時も、こうやって静かに、しかし確実に殺気を放っていた。さすがに二人も感じ取ったのか大人しく荷物をまとめ出て行った。これが大体三十年前の話だったと思う。
それから二人はそれぞれ別の日に謝りに来た。少年はあの日うるさく入ってきたことまでちゃんと主人に謝っていた。二人はお互いについても気にしていたようだった。大人げないことをしてしまった、とお互い反省していた。それから二人が再会できたのは約四年後のことだった。
よく晴れた休日の昼下がりのこと。落ち着いた清楚なワンピースを着た一人の美しい少女が来店した。そう、あの時の少女だった。銀縁の眼鏡から覗く聡明で美しい瞳はあの時と変わらなかった。お久しぶりです、と言ってあの時と同じ珈琲を注文する。私ももうそれなりに働いている身なので最近になってようやく道具を触らせてもらえるようになり、珈琲の淹れ方を修業していた。主人が留守の時は代わりに珈琲を入れるよう言われるまでには成長してきた。まぁ、主人や常連さんに言わせるとまだまだだと言われてしまうけれど。少女はというとパソコンを開き始め、何やら真剣に打ち込んでいた。大学のレポートだろうか。私には縁のないかつ見たこともない公式、数字、言葉が羅列している。私が珈琲を入れ、彼女のもとまで運んでいくと同時にドアベルが音を立てた。私と彼女がそろってそちらに目をやると、爽やかな雰囲気のこれまた大学生ぐらいの少年が立っていた。間違いなくあの時の少年であった。多分お互いにすぐ気付いたのだろう。少女と少年はお互いを見たまま固まっていた。しばらくして少年が我に返り彼女の隣に座ると、あの時と同じ珈琲を頼む。それを受け、私が珈琲を淹れていると
「……あの時は、悪かった」
「いえ、私こそ子供みたいに食い掛かっちゃって悪かったわね」
と二人が互いに謝る声がする。少し微笑ましく思いながら淹れたての珈琲と、一応ミルクと角砂糖も一緒に彼のもとまで届けた。
「すいません。もうミルクと砂糖はいらないんです」
と少年が申し訳なさそうに言うと少女が
「あら、大人になったのね」
「あんたは憎まれ口しか叩けないのかって、それ……」
「え?」
少年は少女のパソコンの画面を凝視している。
「興味深い内容だな……」
「あなたもそう思う!?」
いきなり少女が瞳を輝かせて身を乗り出す。少年はいきなり距離が近くなった少女にどぎまぎしているように見えた。それにしても、あれだけ大人びて落ち着いた雰囲気だった彼女が無邪気に年相応の少女のようになるなんて、人は見かけによらない。それから二人はその内容について熱く議論を始めた。はたから見てもすごく楽しそうだった。……私には何を言っているのか全く分からなかったけど。そうこうしていると、窓から夕日が溢れるほどの時間になっていた。
「あら、もうこんな時間なのね。そろそろ帰らなきゃ」
「悪い、こんな時間まで引き留めて。思ったより話せるやつだったんだな」
「それはこちらのセリフね。ねぇまたここで話さない?」
「あぁ、……じゃあ来週辺りでも」
「今日と同じ時間帯ね」
そう和やかに話しながら二人は珈琲の代金を支払い笑顔で共に店を後にした。二人とも店を照らしている夕日と同じように眩しい笑顔だった。
それから一週間。彼らが約束していた時が来た。この日は少し大粒の雨が降っていた。今回先に入ってきたのは少年の方だった。だが、これから美少女を迎えるような状況にはとても見えなかった。普通の男ならこれから美少女に会うならそわそわしたり、だらしない顔になっていても良さそうなものだが、少年は浮かれ顔一つせずひたすらにしかめっ面をしていた。不思議に思っていると少女が店に入ってきた。……般若のような形相で。
「あなた、この前はどうゆうつもりなの?」
「それは俺のセリフだ!!」
先週は和やかで楽しそうに話していたのに、一変して最初に出会った時のような険悪なムードだった。今日は店の主人もいたので、二人の雰囲気を見てまたか、と呆れていた。
「急に消えるなんてどういうつもりなの!?」
「消えたのはアンタの方だろ!?突然消えるなんてあんまりだろ?」
「はぁ?私はお店を出たあと出口の前に立ったままだったのよ?急に何処かに行ったのはあなたじゃない」
「は?俺だって出口の前に立ったままだったよ」
「え?」
「へ?」
二人の会話に聞いているこっちが混乱しそうだった。二人はさっきから何を言い争っているのだろう?
「……試したいことがあるのだけど」
「……奇遇だな。俺もだよ」
そういうと二人はまっすぐドアの方に歩き出した。どうしたのだろう?もう帰るのだろうか?しかし二人は一旦外に出たと思うと直ぐに店に戻って来た。本当に何をしているのだろう。
「消えなかったわね」
「あぁそうみたいだな」
「私、一つの仮定が浮かんでいるんだけど」
「俺も浮かんでいるよ。合わせてみるか」
「面白そうね。まぁ多分同じでしょうけど」
それから二人は難しい顔をして話し込んでいた。僕だけでなく、さすがの主人も二人に戸惑いを隠せないようだった。
「やっぱりもっとデータが欲しいわね」
「そうだな。たった二回のデータじゃ結論は出せない」
「一週間に一回のペースなら?」
「ああ、それなら一年で五十回分はデータは取れるな」
「一ヶ月で曜日を変えればそれぞれの曜日のデータも七ヶ月のうちには集められるわね」
「じゃあ次会う時は今浮かばなかった条件を持ち寄ろう」
「より正確なデータを目指しましょう」
困惑している間二人の中で何か結論が出たようだ。険悪な雰囲気は何処えやら、がっしりと握手をして二人とも生き生きとした顔をしていた。本当に何をいっているのかわからなかったけど。
二人は気が済むまで話し合うと、また二人揃って店を出た。それから彼らは一週間に一回のペースでこの店で会っていた。気になって付き合い出したのかと聞くと、二人は真顔で研究のためだ、と同時に返答した。だが何の研究をしているのかは、結果が確実に出るまでは言わない、そう言って毎回教えてはくれなかった。しかし一年が経つと
「今日で一年ね」
「ああ、それなりにデータが取れたな」
何やら一年を経て二人の間で納得のいく答えが出たようなので改めて聞いた。
「それで、いつになったら教えていただけるのでしょう」
「ああ、ずっとはぐらかしていてすみませんでした」
「ある程度納得した結果が得られたので話しても良さそうね。それにしても店員さんはそんなに私たちの研究が気になっていたのかしら?」
「えぇ、まぁ。お二人があまりにも楽しそうに議論なされていたのでつい気になってしまいました」
「じゃあ、お話していきましょうか」
そう言って二人が話し出してくれたのはまるで夢みたいな話だった。――この世界は二つの世界から成り立っている、と。
二人が一年がかりで集めたデータによるとこの世界は二つあり、たまに一つ交わるらしい。曜日は関係なく、天気――特に雨の日に繋がりやすいらしい。ちなみに季節も関係がないらしい。雨の日といってもごく稀に晴れでも繋がったままだったり、曇りだったら晴れよりは高い確率で世界が繋がるというのが二人の考えだという。
「でも、まだ結果を確定できるほどのデータ量ではないんですよね」
「ちょっと待ってください。お二人は毎週ここで会っていたじゃないですか」
「ああ、そこなんですけど、このカフェは何か特別な力が働いているんじゃないかって俺らは考えてるんですよ」
「えぇ、実際ここでは会えていても外に出ると消えてるっていうことが晴れの日とかに多かったんですよ。まぁ、たまに雨の日でもいなくなる時はあったんですけど」
毎週のように会っているとは思っていたが、こんなに壮大なことをしていたなんて思いもよらなかった。
「それで、お二人はこれからどうするんです?」
つい気になってそういってしまった。すると二人は急にドギマギしてお互いを見ながら
「まだ量としても結果としても満足いくものじゃないし、俺はもうちょっと続けてもいいと思うんだけど……」
「えぇ……。私もそう、思っていたわ。ところで、て、提案なんだけど、頻度を増やすのはどうかしら?流石に一週間に一度では効率が悪いし……。私は毎日でもいいと思うのだけど、あ、ダメなら一週間に三回とかでも……」
「俺は構わないけど、君はいいのか?実験とはいえ俺、というか男に時間を割く機会が増えるけど……」
「……会いたいを理由にしちゃダメかしら?」
「……ズルイな、君は」
今まで小難しいことを言っていたとは思えないほど初々しい二人に見ているこちらが恥ずかしくなってしまう。この二人を見れば主人自慢のブラック珈琲も甘く感じてしまうだろう。二人の実験はどうやらまだまだ続くようだった。……二人の関係に変化はあったが。
彼らが実験を続行してから半年が過ぎた。依然として雨の日が一番繋がりやすいらしい。また気温は関係ないらしい。
「どうですか?実験の進み具合は?」
「ああ、毎日データを取るようになってからより正確なものになってきましたよ」
「えぇ、相変わらず雨の日の方が一番繋がりやすいけど、必ずってわけじゃないようです」
そういうとまたぎこちない雰囲気が二人に流れ出した。
「あのさ……。実験場所を変えてみるのはどうだ?ここだけが絶対繋がるとも限らんし、それにだな……」
「……た、例えば?」
「その……映画館とか?」
「意外、あなたでも映画を見るのね。てっきり二時間もただの映像に時間を費やすのは嫌だと思っていたわ」
「……だって『デート』と言えばの定番みたいだろ?」
なんて柄にもない事を顔を真っ赤にしながら膨れて言うもんだから、私も少女も固まってしまった。主人は奥で動揺も一切せず豆を挽いている。
「……なにか言ってくれよ」
「いえ、あなたの口から、で、『デート』だなんて……」
そこまで言うと彼女はクスッと笑って
「……うれしい」
そうぽそりと呟いた。少年にも聞こえていたのか彼はさらに顔を赤くしたまま固まっている。
「あ、もしかして『デート』という名の実験なのかしら?」
「いやっ、そんなこと……ないわけじゃないというか……」
「純度百パーセントの『実験』かしら?」
「……そろそろデートというものを君としたいという俺の『わがまま』なんだが?」
「……バカ」
少し意地悪く彼を揶揄っていた彼女も彼の本音に参った様だった。その日から二人は毎日この店で会うことに加え、たまに『デート』という名の実験を始めたのだった。
二人が初めて出会ってから緩やかに時は過ぎ、十年が経とうとしていた。二人は研究職に就き、彼らが続けてきた『二つの世界』についての研究をしていた。二人は長年の検証より、いつか二つの世界は一つになると考えているらしい。十年でいろんなことが少しずつ変わっていった。まず、私。この店の主人は私に店を継がせ、実家に帰った。何でも実家のご両親の介護をするためだとか。主人も今の私になら任せられると言ってくれたし、不安はあれど、晴れてこの店のマスターとなった。次に二人のことだ。彼らは今から二年前に結婚した。世界が違う二人が結婚できるのかって?彼らに言わせれば世界なんて問題外らしい。むしろ世界が違うのに巡り会えたのは何らかの因果だ、と言っていた。なかなか結婚式を大々的に挙げるのは難しいのでこの店で私と二人、三人だけのささやかな結婚式を挙げた。光栄なことに二人の神父役をさせてもらった。そして今二人には新たな家族が増えようとしている。この店で出会い、結ばれた二人の新たな幸せに立ち会えるのは素直に嬉しい。しかし流石に出産は彼女の世界じゃないと難しいので、私たちはこの店で彼女を待つことにした。この日は朝から気持ちいいほどの青空が広がっていた。だがしばらくして私と彼の二人で、私が淹れた珈琲を飲んでいた時に急に雨が降り出した。
「なんだかこういうのに運命を感じますよね。俺らの子供が生まれるって時に、俺と彼女を繋げる雨が降るなんて」
「理系の研究者さんでも運命なんておっしゃるんですね」
「……彼女に会うまではそんな非科学的なこと信じてませんでしたよ。実際、この世界の形自体非科学的なんですから。今となっては運命ってやつもあるかもしれないって思いますね。あいつも多分そう思っているんじゃないかな。それより、いいんですか?しばらくここに住まわせてもらうだなんて」
「いいんですよ。この店は先代から自営業で、住居と一緒になっているので。私もここに住み込んでいますが、部屋は一つ余っていますし、なんなら私の実家が近いので部屋が足りなかったらお二人だけで使ってください。この店しか二つの世界を繋ぐ術がないのならこの店にいないと。生まれたばかりのお子さんのために」
「……本当マスターにはお世話になりっぱなしですね」
そう話しているとドアのベルが音を立てた。振り返るとスヤスヤと気持ち良さそうな笑顔で眠る赤ん坊を抱えた女性が入ってきた。
「お疲れ様。立ち会うことが叶わないのはやるせないな」
「仕方ないわよ。それより聞いて、この子が生まれた瞬間に雨が降り出したのよ。奇跡みたいでしょ?」
ふふっと笑って女性は私を見る。
「マスター。この子を抱きしめてあげて」
そう言って彼女は私に赤ん坊を抱かせた。そうして二人で今後のことを話し始めてしまった。その間私はこの赤ん坊を抱きしめていなければならなかったのだが、なかなか難しかった。思ったよりもずっと柔らかく小さくて、気を抜けば腕からすり抜けてしまいそうなほどだった。出来ることなら両親のもとに早く返してあげたかったが、この赤子の幸せそうな寝顔を見るともう少しだけ手放したくない気持ちにもなった。
「この子に対しても研究すべきよね」
「ああ、今の時点ではどちらの世界の人間かわからないからな。普通は同じ世界同士の両親を持つから、その子供も同じ世界になるんだろうが」
「前例がない時点で未知数よね。二つの世界が一つになった時の人間なんているのかしら?そうなってたらまずいわね。世界が離れた時にどこに行ってしまうかわからないわ」
「あ、聞き忘れていた気がするんだが子供は男の子か?女の子か?」
こっそり聞き耳を立てていたのだが、思わず腕の中のこの子を落としそうになってしまった。結構話していた気がするのにそんな基本的な情報を聞いてなかったのだろうか。彼女の方を見ると流石に呆れた顔をして
「聞いてなかったの?最初に言ったでしょ。男の子よ」
「言ってたか?」
彼女は口をあんぐりさせてため息を吐いた。彼女は私の元まで来ると私から大事そうに赤子を受け取り、スタスタと彼の元まで戻って赤子を抱かせた。彼はしばらくあたふたしていたが、腕の中に収まる我が子を見てふっと笑い
「……かわいいな」
と呟いた。そんな彼を彼女は満足そうに見ていた。
翌日二人は赤ん坊を連れ、店の外に出た。この日も雨が降り続いていた。不思議なのはその翌日も、その翌々日も雨が降っていたのだ。赤ん坊が生まれてから二週間雨が降り続いた。二週間後、やっと晴れたその日に二人は赤子を連れて外に出た。そして事態は動いた。――赤ん坊は父親と同じ世界の人間だった。
「とりあえず、片方の世界の人間でよかったな」
「ええ、私の世界でないのが少し残念だけど。二つの世界が繋がったときでしか生きられないというわけではなかったのはよかったわ」
「それにしてもこの子が生まれてから二週間も雨が降り続いたのには驚いたな」
「しかも、全部二つの世界が繋がっていたわ。今までだったらムラがあったのに」
「ああ、引っ掛かるのは今が冬でここが太平洋側なのに雨が二週間も降り続いたことだ。梅雨でもなかなかこんなに降り続けないだろう。気候がおかしくなったのか?」
「それともこの子の?……さすがにそれはないかしらね」
と二人が話していたのに反し、翌日からまた雨が降り続いた。今度は三週間。
「いくらなんでもおかしいわ。三週間も雨が降り続くなんて。しかも情報によれば他の地域はそんなことなかったらしいのよ?」
「ひどい雨のときもあれば、小雨のときもあった。なのに冬のわりに雪にならなかったのが逆に不思議だ。やっぱりこの子が降らせているのか?」
「雨男……で済むような話ではないわね。しかもやっぱりこの三週間ずっと世界は繋がっていたことも引っ掛かるわ。今までにない記録よ」
「やはりこの子に何かあるのかもな」
それから二人の我が子への研究が始まった。もちろん実験道具として扱うことなく、親としての愛情をたっぷり与えながら。
二人の間に子供が生まれてから一年になった。今のところ分かっているのは、その子は俗に言う雨男というやつで、おまけにそれで降る雨は必ず二つの世界を繋げるという。今までは雨の日でもたまに繋がらないときがあったというのに。
そんな話が本当なのかどうかは分からないが、あの子が産まれてからこの地域周辺の降水確率が異様に高かったかつ、一年を通して雨が多かったのは紛れもない事実だった。
「こんな非科学的な現象、本当に信じていいのか?」
「仕方ないじゃない。結論は非科学的でも、降水量のデータ、観測結果は紛れもない真実。確証があってのものよ。こう、結論づけるしかないじゃない」
「……それもそうだな。それと……マスター、今後のことについて相談したいんだが」
「もちろん構いませんよ」
そうして三人で話し合った結果はこうだった。一に、この子が三才になるまではこの店で暮らし、それからは、彼女は彼女、彼と子は彼らの世界でそれぞれ暮らすこと。私は子供がせめて小学校に入学するまではこの店で暮らした方がいいんじゃないかとは提案したのだが、二人はいつまでもお世話になるのは申し訳ない、というのと、子供がしっかりと自我を持つようになってから別々の世界で暮らすのはこの子が寂しがり、酷だろうという理由で断られてしまった。二に、別々に暮らしてからも研究を続けること。そして家を買うこと。また家は彼の世界の方で購入するらしい。私は純粋に気になってなぜ家を買うのかを二人に尋ねた。彼らの答えは『いつかこの世界が繋がったときに家族で暮らせるように』らしい。アパートやマンションなどではダメなのか聞くと、いつこの世界が繋がるか分からないのに、賃貸だと同じところに住み続けられる確証がないからダメだそうだ。それに特定の家を持つことで彼は一定の場所で計測、彼女は特定の家がない分、様々な地域の計測結果を得ることができるのではないかということだった。
「いつ世界が繋がるのか分からないのに別居……?みたいな感じになりますけどいいんですか?もしかしたら十年、二十年……最悪一生かかるかもしれないんですよね」
「マスター、俺たちは離婚する訳じゃないんだよ」
「そうよ、私がこの人に愛想をつかした訳じゃないんだから」
「……君は本当に一言余計だね。まぁ君の余計な一言は久しぶりに聞いた気がするから少し嬉しいけどね」
「あら一言余計なところはお互い様だと思うけど?まぁ、そんなことはどうでもいいとして。マスター、私たちはね夫婦である前に、一人の研究者なの。……ひとつの家族である前にもね。例え愛しい子供を持っても、目の前の研究を追求する研究者の心に嘘はつけないの。もちろん、この子と、ついでにこの人と離ればなれになるのは身が裂ける程辛いし、悲しいわ。それでも私たちは追い求めなければいけない、この御伽噺のような現実の行く末を」
そう、言い切った彼女はとても凛々しく美しかった。そして同時に無邪気な子供のようでもあった。私はつい常々思っていたことを二人に聞いてしまう。
「お二人はこんなに壮大な研究をしていらっしゃるのに世間には公表しないのですか?公表すれば興味を持つ方々が全国から研究に協力したいと仰って、より多くのデータが得られると思うのですが……」
「マスター、貴方だから俺たちの研究を理解してくれているだけで実際そう簡単にはいかないんですよ。実際にこの奇跡を俺たちと目撃している貴方でなければ。普通なら『頭がいかれてる』とか『漫画やドラマのみすぎ』で片付けられてしまうんですよ」
「それに、証拠がまだまだ小さい時点ではただの可能性にすぎない。この現実を無理やり明るみにしたらふざける輩が出るでしょう?根拠もなく『世界は二つだけじゃない』とか『世界が一つになる瞬間に世界は滅びる』なんて面白半分に騒ぐ人たちが出てきてしまったら……。そのせいで世界が大混乱に陥り、崩壊することだって十分にあり得るの」
二人はそんなところまで考えていたのか。私ならこんなすごい研究をしてるしているんだ、私が見つけたんだ、と公表してしまう気がする。なんだか自分の幼い発想が恥ずかしくなってきた。
「お二人はそんなところまで考えていたんですね。感服いたしました」
胸に手を当て、二人に敬意を表す形で頭を下げる。
「マスターったら、頭あげて。私たちが研究を発表しないのはそんな感服されるような理由だけじゃないんですよ」
「あぁ、俺たち二人で徹底的に研究して事実を固め、簡単にはひっくり返せないような論文を叩き出せば……」
「あるいは世界が繋がるまでに結果を出し、繋がったあとの混乱した世界で、その揺るぎない真実という指針を叩き出せば……」
「俺たちは正真正銘――」
「この研究の――」
「「第一人者になれる」」
そこまで揃ったところで二人は笑いだした。突然のことで私はただただ混乱した。
「研究者なら誰だって第一人者に憧れますよ」
「そう、皆貪欲に新しい発見を探してる。立派なことを建前としていっているようで悪いんだけど、本当は私たちで独り占めしたいんですよ」
「この奇跡で出会った俺たちだからこそ、奇跡や運命で終わらせないために。俺たちだけで真実を目指す」
「ただの二人のわがままなんです」
そう言ってまた二人は笑いだした。その姿は十数年前、再開して理系トークに花を咲かせていた二人に重なって見えた。
そうして、二人の壮大な研究は新たなる局面を迎えた。彼は子供と一緒に自宅とその地域を、彼女は全国、または世界を拠点として、研究を始めた。
あの時、三人で今後の計画について話し合った日の帰り際、彼女は彼を先に返し、私にだけこっそり打ち明けてくれた。
「別世界で研究をするのはね、本当はこうでもしないとずっと一緒にいたくなっちゃうからなの。こんなんじゃ一生研究を進められないでしょ?」
ふふっと恥ずかしそうに笑って、私が淹れた珈琲を一口飲んだ。
そう話したあと、この話は内緒ね、と口止めされた。でも私は知っている。彼は休日になると子供をつれて珈琲を飲みに来るのだが、子供に聞かれないように私にだけ聞こえる声で、寂しいと呟いている。しかも別世界で研究することに同意した理由として、彼女と全く同じ理由を私にこそっりと打ち明けた。その時はさすがの私でも、コイツらなにやってるんだろう、と思ってしまった。
二人は絶対に会わないように特定の時間と曜日を決め、一週間に一回この店を訪れ、一週間で得られた情報をまとめた論文を私に預けることによってお互いの情報を得ていた。それを続けることさらに十数年、いつの間にか二人の子供は立派な高校生になっていた。少年になった彼の子供は小さい頃と変わらずこの店を訪れてくれ、最近ではやっと私の淹れた珈琲を何も入れずに飲んでくれるようになった。苦いのが苦手なのは、彼譲りなのだなぁと思うと少しほっこりした。
ある日、ひどい雨が降る日に見慣れないお嬢さんが来店した。初めて少年の母を見たときと同じような衝撃を受けた。とても愛らしいお嬢さんだった。お嬢さんはどこに座るか迷っているようで、店に入ってからしばらく立ち止まってようやく席に着いたのを見届けると、不意にドアのベルの音がなる。入ってきたのはあの大きくなった彼らの子供だった。少年はいつものように挨拶をしてくれたが、どこか様子がおかしかった。いつものようにカウンター席には座ったけど、いつもの場所ではなくお嬢さんよりの席に座った。おまけに挙動不審で、明らかに動揺しているようだった。よく見ると顔が少し紅い。そしてチラチラとお嬢さんを見ているのだ。私から見るとちょっとした不審者にも見えたのだが、詮索しない方が良さそうなのでいつも通り彼に珈琲を淹れた。あと、少年は気づいてないようだったが、お嬢さんも先ほどからチラチラと少年を見ているのだ。またこの店で今度は彼らの子供の新たな物語が始まるのかもしれないと思うと、感慨深くなる。どうか、この少年とお嬢さんは同じ世界の人間で、幸せになってくれますように。
少年とお嬢さんの出会いから数ヶ月、午前中は雨が降っていたが、午後になって晴れだして少しした頃にカランコロンとドアベルの音が鳴ったので、目を向けると少年とお嬢さんが手を繋いで来店した。二人は私に挨拶をして、同じ席に着いた。二人で同じ珈琲を頼み、それから楽しそうに話し始めた。すぐに察しがついた。きっと二人は結ばれたのだろう。祝福の気持ちを込めながらいつもより丁寧に珈琲を淹れる。そういえばこの前少年の父――彼が来たときに研究が結構大詰めを迎えてきたと言っていたな。最近では晴れでも世界が繋がる頻度が高くなってきたらしい。まぁ、その晴れたときに世界が繋がる時間は、長い時もあれば、ほんの少しだけの時もありまちまちらしいが、それでも世界が繋がるまでに時間はかからないだろう、と喜んで話してくれた。私は早く彼らが再開できるようになればいいとただ祈るのみだ。またこの店を共に訪れ、会わなかったこの十数年の時を埋めるようにたくさんの話に花を咲かしてほしい――あの日のように。
それからまた数年がたった。また今日もドアベルが鳴る。そろそろ少年とお嬢さんが来る頃かなと思い、カップを拭きながらドアを見ると彼らが立っていた――それなりに歳をとった彼らが。その瞬間私は全てを悟った。
「やっと、終わったんですね」
そう声をかけると、年配になった夫婦は十数年間の空白を感じさせないよく似た顔で笑った。
「こうして会うのは何年ぶりかな」
「十年はきっと経っているわね。何度も言うけど私の方が先に結論にたどり着いたんだからね」
「はいはい、さっきからそればっかりうるさいんだよ」
「だって、貴方に勝てたのが嬉しかったんだもの。家のドアを開けたときの貴方の驚きようといったら……ふふ、傑作だったわ」
「あの子が帰って来たと思ったら、まさかの君だったんだからね。しかし悔しいな、俺は正確な日にちと時間をだせなかったんだから。今回ばかりは俺の敗けだよ」
「まぁ私たち二人が第一人者ということには変わらないんだから。それより事実の公表に向けて準備を進めなきゃね。世界が混乱に満ちる前に」
「ああ、そうだな。……あ、あの子に知らせたよ。君が帰って来たことをね。彼女と一緒らしいから、この店に連れてくるようにいったよ。もうじき来る頃なんじゃないかな」
「彼女……?それって交際相手という意味の『彼女』のこと?嘘、知らない。なんで言ってくれないのよ。私あの子に彼女が出来たなんて知らないわよ!?」
「ふっ、俺も君の不意を突けたわけだな」
「ま、マスターは知ってたの??」
十数年振りの微笑ましい夫婦の会話を暖かく見守っているつもりが、行きなり話を振られ少し戸惑う。
「は、はい。僭越ながら……。彼らがこの店で出会ったことをしかとこの目で。何回か一緒に来店してくださっていますし」
「ま、マスターまで知っていたなんて……。こんな悔しいことないわ、あんまりよ」
といって立派な淑女になった彼女はむくれてふいっと我らにそっぽを向いてしまった。
「まあまあ、許してくれよ。あの子から話を聞く限り二人も別世界の人間のようだったからね。彼らに余計な水を差したくなかったんだよ。あの子もこの事実のことを彼女に言ってないみたいだしね。二人が来たら彼らの出会いの分まで全て話し合えばいいじゃないか」
「貴方もずいぶんロマンチックになったものね。合わない間に。でも、そう。二人も別世界だったの……。血は争えないわね。ふふ、俄然あの子に会うのが楽しみになったわ」
カランコロン。再びドアベルがなり、今度は若いカップルが立っていた。私はこの二人も知っている。
「久しぶり、『母さん』」
「……待たせてごめんなさいね」
「あ、あの……私」
「紹介するよ。母さん、父さん、僕の『彼女』。それとね、君にもう一度話したほうがいいことがあるんだ。ここにはそれについてのスペシャリストが二人もいる。……あと、二人にも興味深い話を聞かせてあげる」
「この世界がふたつ……?だから、思う通り会えなかったの??」
「そう、話せなくてごめんね」
「ううん、聞いてもあんまり信じられなかっただろうし、それに『約束』してくれたから。見つけてくれてありがとう」
「どういたしまして。あぁ、父さん、母さん。実はさっきあった出来事なんだけどね――」
「『雨の国』?そんなものが存在するのか」
「この世界はファンタジーしかないのかしら。でも新しい研究テーマになりそうね。今からワクワクしちゃうわ」
「研究、僕にも手伝わせてくれないかな?父さん、母さん」
「そ、それなら私も手伝いたいです。拐われたときの話しとか出来るし……!」
「……ふふ、お願いしようかしらね」
やっと世界が繋がったことで、ようやくこの二組のカップルたちはより素晴らしい幸せを手に入れることができるだろう。私もこの店で一人の目撃者になれたことを誇りに思う。さて、そろそろ私もこの店を預ける頃だろうか。今働いてくれている店員の彼は、もう立派にこの店自慢の珈琲を淹れられるようになっている。彼もまたこの奇跡の目撃者の一人だ。これからもこの店で生まれる奇跡を見届けて欲しい。
「マスター、珈琲お代わりくださいな」
「俺も」
「僕も」
「わ、私も……」
「はい、ただいま」
奇跡を祝して腕によりをかけて、淹れさせていただきます。




