「お姉様の婚約者も支度も式の日取りも、ぜんぶ妹に譲りなさい」——ええ喜んで。ただし先方の家がお慕いしていたのは、品ではなくわたくしですけれど
ああ。八の字に畳めと、あれほど申しましたのに。
ミレーヌが一歩進むたび、淡青の絹が床をなめた。踵で踏まれた裏地には斜めの皺、右脇の縫い目には引きつれ。あれを直すなら裏を半分ほどいて、仕立て賃は銀貨三枚——いえ、妹の耳には絹より綿でも詰まっているのでしょうか。
「お姉様、どう? わたしのほうが似合うでしょう?」
「腰回りが少々きつそうですわね」
「まあ、ひどい。お母様は似合うって仰ったわ」
母は満足そうに頷いた。ミレーヌがわたくしの衣装箪笥から勝手に持ち出した品を着ている点など、襟元の真珠より小さな問題らしい。
「若い娘には明るい色が似合うものよ。クラリッサは落ち着いた色を選び直せばいいでしょう?」
「明後日までに仕立て直せる店がございましたら、ぜひご紹介くださいませ」
「姉なのだから、そのくらい譲れるだろう」
父まで重ねる。出ました、ベルノワ家の万能鍵。姉なのだから。これさえ差し込めば、わたくしの箪笥も予定も懐も、実によく開く。
披露のために整えられた支度部屋には、親類の奥方たちが半円を描いて座っていた。壁際にはレオン様が立ち、わたくし宛ての封書が置かれた卓へ一度だけ目を向けている。
封蝋はアルディエ家のもの。先日相談された毛織物の売り方について、わたくしが返事を差し上げた、その礼状だった。
『お示しいただいた通り、色ではなく織りの密度で棚を分けました。売れ残りはございません。感謝します』
短い。けれど余白までレオン様らしい。誰かさんなら、便箋三枚を使って自分の巻き毛を褒めるところだ。
「クラリッサ。皆の前で、きちんとミレーヌへ譲ると言いなさい」
母はもう衣装係へ顎を向けていた。わたくしの返事より先に、淡青のドレスをミレーヌの部屋へ運ばせるつもりなのだ。
「お納めくださいませ」
わたくしは裾を摘まみ、妹へ礼をした。銀貨三枚に、急ぎの上乗せが一枚。さようなら、淡青の絹。次に会うときは葡萄酒の染みまでついていそうなので、できれば永遠にお別れしたい。
「ほら、クラリッサも祝ってくれたわ」
母とミレーヌは目を合わせ、同じ角度で笑った。父は聞き分けのよい長女を持った顔で頷く。便利な娘は、磨かなくても家の体面をよく映すらしい。
ミレーヌはくるりと回ろうとして裾を踏み、半歩よろめいた。これで裏地の傷みは銀貨四枚。値上がりが早い。妹の才能をひとつ挙げるなら、物の価値を下げる速さだろう。
「それからね、お姉様。今日、皆様をお呼びしたのは、ドレスのためだけではないの」
「まあ。まだわたくしの箪笥に空きがございましたかしら」
「箪笥ではなくてよ」
ミレーヌは胸元の真珠を指で整え、それから窓辺のレオン様へ作り物めいた微笑を向けた。姉へ向けるときには砂糖を節約するくせに、婚約者の前では菓子職人が倒れるほど盛る。
「レオン様との婚約を、わたしに譲ってほしいの」
親類の扇がいくつか揺れた。驚いたというより、待っていました、の揺れ方である。なるほど。本日は嫁入り支度の披露ではなく、わたくしの身ぐるみを剥がす見世物だったらしい。入場料を取ればよかった。
「ミレーヌ。人を譲る、というのは——」
「お姉様なら祝福してくださるわよね?」
わたくしの言葉を切り、ミレーヌは母の袖を引いた。返事を聞く気はない。ならば質問の形を取る必要もなかろうに、体裁だけは上質品がお好きだ。
「クラリッサ、ミレーヌも年頃なのよ。姉妹なのだから、幸福は分け合いなさい」
「先方のお気持ちを伺うほうが先ではございませんか」
「家同士の話だ」
父は親類の視線を背に受け、声を一段大きくした。レオン様の前だというのに、わたくしへなら押し切れると踏んでいる。見積もりが甘い。砂糖菓子より甘い。
「ベルノワ家から娘が嫁ぐことに変わりはない。アルディエ家にも不都合はあるまい」
レオン様は、わたくしの返事を待っていた。ミレーヌは待たない。荷馬車より勢いがある。
「それと、式の日取りも同じ日がいいわ」
指先が、卓上の招待状見本へ伸びた。
「だって、もう皆様にお知らせしているのでしょう? 会場もお料理も花も整っているのに、日を変えたらもったいないもの。お姉様の名前をわたしに替えるだけで済むわ」
その日は、アルディエ家の取引先が最も集まりやすい時期を選び、遠方から来る親類の旅程を聞き、レオン様と三年かけて調整した日だった。婚約の文を頂いた日より、その一枚の暦のほうが、よほど多くの手紙と返事を吸い込んでいる。
母がすぐに頷いた。
「それがいいわ。招待状を刷り直すだけでしょう?」
「クラリッサ、家のためだ。話を大きくするな」
父はわたくしの発言を手で遮り、すでに印刷屋への指示を考えている顔をした。ミレーヌは両親に囲まれ、また一つ勝った子供のように顎を上げる。
胸の内で、何かがぷつりと切れた——などという美しい音はしなかった。
ただ、帳簿の最後の欄まで数字が埋まった。
「承知いたしました」
「本当? さすがお姉様!」
「ドレスも、婚約者も、式の日取りも。それほど一式でお望みでしたら、残りの嫁入り支度もすべて差し上げますわ」
ミレーヌの口が丸くなり、すぐに笑みへ戻った。母は「まあ、そこまでしなくても」と言いながら、もう廊下の使用人へ支度部屋を開けるよう命じている。遠慮という言葉は、受け取る品の数を確認してから口にするものらしい。
「クラリッサ、意地を張るのはよせ」
「まあ、お父様。家のために黙って譲るのでしょう?」
「そうだが、言い方というものが——」
「では、気持ちよく、ひとつずつお渡しいたしましょう。せっかく皆様もお揃いですもの」
父の声が痩せた。親類が妹を褒めている間はあれほどよく響いたのに、長女が従いすぎると困るらしい。扱いやすい品ほど、勝手に荷札を剥がすと恐ろしい。覚えておくとよろしいですわ。
支度部屋の扉が開き、磨かれた箱や箪笥が広間へ運び込まれた。並べたのはわたくしである。樫の箪笥、銀器の箱、寝具、鏡台、食器、季節ごとの布地。三年分の目利きと値切りと、店主たちとの長話が床いっぱいに広がった。
樫の箪笥が一棹減る。あれを置く予定だった壁には、焼き菓子の棚が置ける。悪くない勘定だ。朝から誰にも横取りされず、胡桃の菓子を三つ並べる夢まで見えてきた。
「こちらが婚約の文です」
最初に、深緑の紐で結ばれた書状を取った。レオン様からわたくしへ届いた、正式な申し入れである。紙は上等、筆跡は端正、文章は短い。余計な飾りがないぶん、ミレーヌには地味に見えるかもしれない。
「これは、わたしが持っていていいの?」
「婚約者をご所望なのでしょう。でしたら、文も添えなくては片手落ちですわ」
ミレーヌは両手で受け取り、自分の胸へ抱いた。宛名はクラリッサ・ベルノワのままなのだが、そこへ気づく目があるなら、そもそも婚約者をドレスと同じ棚へ並べたりはしない。
——一番良い品である婚約者さえ得れば、アルディエ家の後ろ盾も信用もついてくる。
妹の目には、文の向こうに金の看板まで見えているらしい。残念ながら、包み紙と中身を分ける訓練は受けていないようだ。
「次に、家具の鍵です」
小さな鍵束を掌へ載せる。樫の箪笥、鏡台、銀器箱。それぞれに札をつけ、油を差し、どの鍵がどの錠か一目で分かるよう揃えてある。
「こんなにたくさん?」
「ご安心くださいませ。札に品名を書いてございます」
「お姉様が来て開けてくれればいいでしょう?」
「鍵まで差し上げるのに、わたくしが開けるのですか?」
ミレーヌは聞こえなかったように鍵束を母へ渡した。母も受け取り、使用人に持たせる。分け合うというのは、どうやら妹が所有し、姉が管理することらしい。実に新しい算術である。
寝具は春夏秋冬で四組。銀器は十二人分。磁器は割れたときの予備まで含めて十六客。ひとつ渡すたび、頭の中から保管場所と手入れの日付が消えていく。
なんということでしょう。軽い。
肩が軽い。予定が軽い。これから妹が割った皿を買い足す必要も、勝手に着たドレスの染み抜き代を払う必要もない。浮いた金で焼き菓子を買うなら、胡桃だけでなく杏のタルトにも手が届く。自由とは、案外よい匂いがするものだ。
「お姉様、婚礼衣装は?」
ミレーヌの声に、最後の大箱へ手をかけた。
蓋を上げる。乳白色の布が、薄紙の中で静かに光っていた。襟元には小粒の真珠、袖には銀糸。仕立て屋と何度も線を引き直し、夜ごと届く見本を選び、最後に襟の裏へ一針だけ、わたくし自身で糸を通した。
指が、その縫い留めに触れた。
仕立て賃も、生地代も、真珠一粒の値も出てこなかった。
「お姉様?」
箱を抱き上げる。重さは変わらないはずなのに、腕の内側へ三年が食い込んだ。
「これだけは、値を申しません」
ミレーヌが瞬きをした。母の指が、箱を受け取ろうとして宙で止まる。
「三年、わたくしが縫い留めたものですから。——それでも、差し上げます」
衣装をミレーヌの腕へ渡した。真珠がひとつ、薄紙の下で小さく鳴った。妹はそれを汚れでも確かめるように眺め、すぐ自分の肩へ当てる。
「きっと、わたしのほうが似合うわ」
「そうだとよろしいですわね」
声はきちんと出た。背筋も曲がらない。淑女教育に初めて心から感謝したい。こういうとき、姿勢のよさは鎧より役に立つ。
最後に、卓上の招待状見本を取った。日付の部分へ指を置き、ミレーヌの前へ差し出す。
「こちらが、式の日取りです」
「ええ。最初からこれがよかったのよ」
「三年かけて整えた日です。会場も料理も花も、どうぞそのまま」
「もちろんよ。名前だけ替えればいいもの」
ミレーヌは衣装を抱えたまま、招待状まで受け取った。婚約の文、家具の鍵、婚礼衣装、式の日取り。望んだものは、ひとつ残らず妹の手元へ移った。
「では、レオン様」
ミレーヌは急に声を細く甘くした。
「お姉様から祝福していただきました。これでわたくしたち、何の心配もなく同じ日に式を挙げられますわね?」
レオン様は、妹の腕の衣装にも、積み上がった箱にも触れなかった。婚約の文を確かめることさえせず、わたくしを見ている。
「品は妹君へ」
短い言葉が、広間の端まで届いた。
「けれど、わたくしどもが縁を結んだのは、クラリッサ様です」
ミレーヌの口元から、笑みだけが先に落ちた。
親類の奥方たちが、いっせいに扇を閉じた。ぱちり、と乾いた音が重なる。先ほどまで妹を飾っていた風が、一度に止んだ。
「で、でも、婚約の文はここに……」
「宛名をご覧ください」
レオン様に促され、ミレーヌは紐の下を見た。そこには確かに、クラリッサ・ベルノワとある。妹は婚礼衣装を抱え直そうとして裾を踏み、今度は大きくよろめいた。
「お姉様が譲ったのよ。ねえ、お母様?」
「そうですとも。娘本人の希望を尊重しただけですわ」
母が両手を広げた。先ほどまでわたくしには黙って譲れと仰っていた同じ口で、今度は娘の意思を尊重したと申す。表と裏で色の違う布なら、見本の段階で返品するところだ。
レオン様の声は変わらなかった。
「縁は物ではありません」
彼は品々の間を歩いた。家具の鍵にも、婚礼衣装にも、式の日取りにも足を止めない。積み上がった箱の向こうにいるわたくしまで来て、働いて荒れた指へ手を差し出した。
「三年前、我が家の毛織物が売れなかったとき、値を下げるなと仰ったのはクラリッサ様です。織りの密度ごとに棚を分け、必要とする客へ届くようにしなさい、と」
あの返事は、夜更けに書いた。
「相談の返事をくださったのも、店を見てくださったのも、間違いを遠慮なく指摘してくださったのも、クラリッサ様でした。わたくしどもがお待ちしていたのは、あなたの返事です」
差し出された手は動かない。急かしも、飾りもせず、わたくしが決めるまで待っている。
「改めて申し上げます。クラリッサ様、わたしと縁を結んでいただけますか」
まあ。
妹が一番良い品と見定めた方は、品物になる気がなかったらしい。胸の奥で、三年分の帳尻が一斉に合った。なんということでしょう、これほど気持ちのよい決算は初めてだ。
「支度は、ひとつもございませんけれど」
「必要ありません」
「箪笥も銀器も、婚礼衣装も」
「あなたの目があれば、必要なものは選び直せます」
「式の日取りまで差し上げてしまいましたわ」
「急ぐ理由がなくなりました。今度は、あなたの予定を先に伺います」
その言葉に、指先がわずかにほどけた。わたくしの予定。家の予定でも、妹が欲しがったあとの残りでもない。その響きは、値札をつけるには少々まぶしすぎた。
「待ってくれ!」
父が品の山を回り込み、レオン様の前へ出た。先ほどの大声はどこへやら、語尾にまで丁寧な飾りが戻っている。
「レオン様、少々行き違いがあっただけです。支度はすべてクラリッサへ戻させます。ですから、アルディエ家との縁はこれまで通りベルノワ家に——」
「そうよ、クラリッサ」
母もわたくしの腕へ手を伸ばした。
「ミレーヌも、あなたのものが素敵に見えただけなの。姉妹でしょう? 支度を戻して、家からきちんと嫁げばいいわ。これまで通り、アルディエ家からのご相談もベルノワ家で受ければ——」
「お姉様」
ミレーヌは婚礼衣装を抱えたまま、先ほどまでの甘い命令を喉の奥へ引っ込めた。
「わたし、そんなつもりじゃなかったの。お姉様なら分けてくださると思っただけ。支度は返すから、レオン様との縁だけは家に残して。ね?」
三人とも、返す品ばかり数えている。わたくしが返してもらった品を磨き、管理し、また家の信用を支えるところまで、すでに勘定へ入れているのだろう。
けれど、ひとつ数え忘れている。
空になったわたくしには、もう持ち手がない。
「いいえ。支度はミレーヌのものです」
「クラリッサ、意地を張るな。すぐ運び直させる」
「家具の鍵も、婚礼衣装も、日取りも、すべて揃っておりますわ」
わたくしは妹の腕の中と、その足元に積まれた品々を示した。
「お納めくださいませ」
最初に口にしたときより、ずっと軽く言えた。
ミレーヌの指が、婚礼衣装の襟へ食い込む。母はわたくしの袖をつかみ損ね、父は親類の閉じた扇を見回した。誰ひとり助け舟を出さない。船どころか、皆様きれいに桟橋まで畳んでいらっしゃる。
「では、せめてアルディエ家への相談役だけは続けなさい。ベルノワ家の信用に関わる」
「相談の封書には、誰の名がございましたか?」
父は卓上の礼状を見た。封の表にはクラリッサ・ベルノワ。家名ではなく、わたくしの名を選ぶように、文字がまっすぐ並んでいる。
「お父様が返事をお書きになりますか?」
「それは……家の者へ命じれば」
「織りの密度を、指で見分けられる方へお願いいたしますね」
いらっしゃるなら、ぜひ紹介していただきたい。わたくしも店を始める際に雇いたいほどだ。もっとも、三年間一度も返事を書かなかった方々の袖から、今さら目利きが生えてくるとは思えないけれど。
「レオン様!」
ミレーヌが呼び止めた。
「式の日は変えなくてよいのでしょう? ここまで支度があるのですもの。わたしなら、すぐ花嫁になれますわ」
レオン様は妹が抱えた衣装を一度だけ見た。
「その日に式をなさるのは、ご自由です」
ミレーヌの顔に、希望が戻りかけた。
「ただし、花婿はわたしではありません」
戻りかけたものが、きれいに消えた。衣装も家具も日取りもある。花婿だけがいない。なるほど、妹は本当に一式がお好きだ。ただし、一番大切なものほど箱には入らないらしい。
父は何か言い募ろうとしたが、レオン様が差し出した手はわたくしへ向いたままだった。母もミレーヌも、その手と品の山を見比べるしかない。
わたくしは自分の指を見た。針の跡、紙で切った細い傷、布を確かめ続けて硬くなった指先。婚礼衣装より、ずっと見栄えが悪い。
レオン様は、その手を求めている。
「わたくし、家へは戻りません」
「クラリッサ!」
「淡青のドレスも、支度も、すべてミレーヌへ差し上げました。けれど、わたくしの目と、わたくし宛てに届いた信用まで分け合うつもりはございません」
父の手が下がった。母は姉妹愛を口にしようとして、親類の視線に気づき、唇を閉じる。ミレーヌだけが、抱えきれない衣装を離せずにいた。
わたくしはレオン様の手を取った。
「改めて、よろしくお願いいたします。レオン様」
「はい。クラリッサ様」
握られた指が温かい。婚礼衣装の一針を離したときに止まっていた何かが、ようやく先へ進んだ。
それにしても、身一つで家を出るとなれば荷造りが早い。空いた時間で焼き菓子を買える。杏か、胡桃か。いえ、今日は両方でも罰は当たるまい。三年分の荷を下ろしたのだから、菓子箱ひとつくらい増やしても差し引きでは羽のようなものだ。
◇
ベルノワ家を出る朝、わたくしの荷物は小さな旅行鞄ひとつだった。嫁入り支度は一品も戻さなかったし、淡青のドレスも婚礼衣装も、ミレーヌの部屋に置いたままにした。
母からは三通、父からは二通、支度を戻すから考え直せという手紙が来た。ミレーヌから届いた一通には、婚礼衣装の袖丈が合わないと書かれていた。仕立て直しの店を尋ねる文まで添えてあったので、そっと封を戻した。銀貨ではなく自分の時間を払って、よい店を探せばよろしい。
アルディエ家へ向かう馬車では、レオン様が向かいに座っていた。膝の上には書類が一束。けれど彼はそれを開かず、わたくしが途中の町で買った焼き菓子の箱を見ている。
「おひとつ、いかがですか?」
「クラリッサ様のお好きなものでは」
「胡桃が四つ、杏が三つございます。公平に分けるなら——」
「お好きなほうを多くどうぞ」
わたくしは胡桃を二つ、杏を二つ取った。残りをレオン様へ渡してから、胡桃をもう一つ自分の側へ戻す。公平とは、交渉の出発点であって、食欲の終着点ではない。
「婚礼についてですが」
菓子を飲み込んでから、レオン様が切り出した。
「急がないと仰ったでしょう?」
「はい。まず、あなたがしたいことを伺おうと思います」
「したいこと」
その言葉は、まだ少し座りが悪い。幼いころから、するべきことなら棚いっぱいにあった。妹へ譲ること、家の客を迎えること、父の代わりに手紙を書くこと。したいことだけは、置き場所すら用意されていなかった。
窓の外には、アルディエ家の土地へ続く街道が伸びている。荷馬車が行き交い、遠くに市の屋根が見えた。布、家具、食器、菓子。値を見て、手間を見て、必要とする人のところへ届ける仕事なら、いくらでも思いつく。
「店を持ちたいですわ」
「どのような店を?」
「まだ決めておりません」
言ってから、胸を張った。決めていないことを恥じなくてよいのは、思った以上に愉快である。誰かに奪われた残りから選ぶのではなく、空の棚へ何を置くか、これから決められるのだから。
「品を見るお仕事がしたいのです。高い品を並べるだけではなく、使う方に合うものを選ぶ店。織りの密度も、木の乾きも、縫い目の癖も、きちんと申し上げます」
「客が耳の痛いことを嫌がったら?」
「嫌われる前に、菓子をお出しします」
「なるほど」
「笑うところですわ、レオン様」
「感心していました」
真顔で仰るので困る。こちらは立派な商売の知恵として菓子を申告したのに、甘党だと思われたかもしれない。間違ってはいない。間違ってはいないからこそ、淑女の見栄に響くのである。
アルディエ家の土地へ着いてからも、婚礼の日は決めなかった。代わりに、レオン様と市場を歩いた。空き店舗を三軒見て、日当たりを確かめ、床板を踏み、隣のパン屋から流れてくる香りまで勘定へ入れた。
一軒目は広いが、雨の日に入口がぬかるむ。二軒目は安いが、壁に湿気がある。三軒目は少し狭いけれど、市場から近く、奥の窓辺に焼き菓子の棚を置ける。
「ここがよろしいです」
「理由は、客の流れですか?」
「もちろんですわ」
窓辺へ視線をやる。焼き菓子の棚にちょうどよい幅であることは、まだ伏せておこう。商いには秘密が必要だ。特に、胡桃の菓子を何個しまっておけるかという重大機密には。
レオン様は店の資金をすべて出すとは言わなかった。わたくしの目利きと、これまで得た取引先からの信用を持分として数え、足りない分だけアルディエ家が貸す形を提案した。
「店主はクラリッサ様です」
「レオン様のお名前を出したほうが、最初は客が来るのでは?」
「最初は。ですが、二度目に来る理由はあなたでしょう」
その一言で、借りる額を決めた。多すぎず、少なすぎず。助けてもらうことと、預けてしまうことは違う。わたくしの店なのだから、失敗したときに腹を痛める権利まで、きちんと自分で持っていたい。
開店準備の初日、真新しい帳面を卓へ置いた。表紙には飾りをつけず、中央へ名前だけを記す。
クラリッサ・ベルノワ。
家を出ても、わたくしが三年かけて返事を書き、品を選び、人と結んだ名だ。奪われた家へ返す必要も、誰かの婚約者という札へ隠す必要もない。
「最初の仕入れは、何になさいますか?」
レオン様が隣から帳面をのぞいた。品の山を越えて差し出されたあの手が、今はわたくしの記す数字の横にある。
「焼き菓子の棚、と申し上げたいところですが」
「客が座れませんね」
「そこなのです。立ったままなら長居をされませんから、回転はよろしいかもしれません」
「相談を受ける店では?」
「では、座り心地の悪い椅子を」
「クラリッサ様」
少しだけ低くなった声に、笑いが混じっていた。無口な方を笑わせるのは、高価な絹を値切るより難しい。けれど一度成功すると、こちらまで得をした気分になる。
わたくしは帳面の最初の欄へ、品名を書き込んだ。
「最初に仕入れるのは椅子にいたしましょう。今度こそ、座る方を選んでから買いますわ」
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




