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第10話 旅立ちは足慣らしの後で

あの強烈な知恵熱にうなされた夜から、約二週間が経過した。


最初の数日間は、完全にノエルの休養と僕の基礎言語の構築に充てた。そして彼が十分に動けるようになってからは、少しずつ周辺の森へ実地での狩りに出たり、この洞窟で「旅支度」に時間を費やしていた。

洞窟の入り口から差し込む朝の光が、パチパチと燃える焚き火の煙を白く浮かび上がらせている。


「ユウ、この香草を肉と一緒に燻すといい。保存が利くし、魔獣の気を引く匂いも消せるんだ」


ノエルが、森で摘んできた先の尖った葉を揉み込みながら教えてくれる。

シャノワールの影の亜空間は時間が停止しているため、生肉のままでも完璧に保存できる。だが、移動中の森の中でいちいち火を起こして肉を焼くのは、煙と匂いで魔獣を呼び寄せる危険な行為だ。

そのため、火を使わずにすぐ食べられる「燻製肉」や「干し肉」といった携帯食料の確保が、長旅には必須となる。


僕は現代日本の知識と魔法でサバイバルを乗り切ってきたが、この異世界の植生や、冒険者としての実用的な野営の知恵は持っていない。

ノエルはこの二週間の作業の合間に、どの薬草が傷に効くか、どの木の実が食べられるかといった現地の知識を、僕の語学の教師役も兼ねて的確に教えてくれた。


「ワカッタ。シャノワール、コノニク、オネガイ」


僕が片言の現地語で頼むと、シャノワールが「みゃお」と鳴き、出来上がった燻製肉を次々と影の中へ収納していく。


僕の言語習得のプロセスは、この二週間で劇的な進歩を遂げていた。

僕が独自に定義したスキルの一つ、『同調(リンク)』は、単なる受信アンテナではない。僕自身の『感覚質(クオリア)』を、ノエルが持つ感覚質の波長へとすり寄せるように重ね合わせ、相手の概念を感じ取る技術だ。

そして、彼が口にする「規則正しい音の連なり」の裏にある法則性を、『構造認知(ディープスキャン)』で把握する。


言語学習のために常にバックグラウンドで起動し続けているが、言語の習得(記憶への定着)が進むにつれて脳の照合処理にかかる負荷や消費魔力も少なくなっていき、今では知恵熱で倒れるようなこともなくなった。

僕の口から出る言葉はまだ単語の羅列カタコトだが、ノエルが発する流暢な現地語は、僕の脳内で自動的に「自然な意味(日本語)」として変換され、スラスラと理解できるようになっていた。


「俺は、街へ戻らなきゃならない。はぐれた仲間を探すために」


ノエルが、平らな岩の上に広げた地図の「デュグラス」という街を指差しながら、静かに口を開く。

その灰色の瞳には、強い使命感と、仲間を案じる憂いの色が浮かんでいた。

彼がなぜ森の境界で倒れていたのか、詳しい事情を語り合うだけの語彙力はまだないが、彼にとってあの街が帰るべき場所であることだけは確かに伝わってきた。


「ワタシ、マチ、イキタイ。ホン、ヨム。オカネ、ホシイ」


僕が自分の目的をストレートな単語の羅列で伝えると、ノエルは目を丸くしてポカンとした後、吹き出すように笑った。


「ははっ。金と本か。なんだ、お前も案外、普通の欲を持ってるんだな」


ノエルの表情が、少しだけ柔らかく解ける。

僕にとって、人間社会の常識を知るネイティブスピーカーの案内人は必須だ。そして彼にとっても、この危険な樹海を一人で抜けるより、僕とシャノワールという戦力がいた方が生存率は上がる。


「よし。準備はいいか、ユウ」


ノエルが立ち上がり、背中の長剣の柄に手を当てて僕を見る。

僕とシャノワールも立ち上がり、大きく頷いた。


半年間お世話になった「思い出の洞窟」の焚き火を完全に消し、僕たちは外の世界へと足を踏み出した。


◆ ◇ ◆


洞窟の周辺、僕たちの「安全な生活圏」の境界線。

苔むした古木が立ち並び、巨大なシダ植物が足元を覆い隠す鬱蒼とした森の中。一歩外へ踏み出そうとした瞬間、空気が急に重く、冷たくなったような錯覚を覚えた。

ここから先は、僕たちの匂いが通じない未知の領域だ。


「みゃおッ」


先行して周囲の影を探っていたシャノワールが、低く鋭い鳴き声を上げた。

同時に、前方を歩いていたノエルがスッと腰を落とし、背中の鞘から長剣を引き抜く。


ガサガサッ、と巨大な茂みが揺れ、太い木々をなぎ倒しながら「それ」が姿を現した。


『ブグルゥゥゥゥッ!!』


体長二メートルを超える、岩のように硬い外殻を持った巨大な猪。

図鑑で見た記憶をたどれば、たしか中級クラスの魔獣だ。鼻息と共に白い蒸気を吹き出し、血走った目でこちらを威嚇している。


「ユウ、俺が前衛で気を引く。隙を見て援護を頼む!」


ノエルの指示が飛ぶと同時に、巨大な猪が凄まじい脚力で土を蹴り上げ、一直線に突進してきた。

まるで装甲車が突っ込んでくるような、地響きを伴う圧倒的な質量。


(……さて。彼のお手並み拝見といきますか)


僕は、言語処理のために低出力で維持していた『知覚拡張(オーバークロック)』の出力を引き上げ、視界のフレームレートを戦闘用へと切り替える。

ノエルの筋肉の収縮、重心の移動、そして――彼の体内から剣へと流れ込む、魔力の波長を視る。


「フッ!」


ノエルが短く息を吐いた瞬間、彼の長剣の刀身に、薄緑色の魔力光が渦を巻くように纏いついた。

(……地球のファンタジーやゲームの知識で言うところの、いわゆる付与魔法エンチャントか? いや、魔力をただ剣に纏わせているだけじゃない。剣の軌道に合わせて、風の魔力が循環している)


この数日の会話の中で、彼が自身の戦技を『魔法剣(まほうけん)』と呼んでいたのを思い出す。


突進してくる猪の太い牙が、ノエルの体を串刺しにする直前。

ノエルは信じられないほどの身軽さで斜め前に踏み込み、猪の突進のベクトルをすり抜けるようにして、すれ違いざまに長剣を一閃した。


ガキィィィィンッ!!


金属が激突するような甲高い音。

猪の分厚い外殻に剣が弾かれそうになるが、刃に纏わった風の魔力がチェーンソーのように高速で循環し、硬い鱗を強引に削り裂いた。


『ギョェェェェエエエッ!?』


浅いながらも痛手を受けた猪が、泥を跳ね上げて強引に急ブレーキをかけ、再びノエルへ向かって向き直る。

ノエルは追撃を避け、一度距離を取るために後ろへ跳んだ。


前衛でヘイトを稼ぎつつ、風の魔法剣で機動力と装甲貫通力を両立させる。理にかなった美しい戦闘スタイルだ。

だが、あの硬い装甲を完全に断ち切るには、相手の動きを完全に止める「決定的な隙」が必要になる。


「シャノワール、ミギ! アシ、トメテ!」


僕は、ノエルにも僕の意図が伝わるように、あえて現地の言葉カタコトで叫んだ。


「みゃお!」


指示に呼応し、シャノワールが影の中から黒い触手を無数に射出する。

触手は猪の右側面に回り込み、地面から生え出たように前足と後足に絡みついた。


『ブギィィッ!?』


「――ッ!」


ノエルがその隙を見逃さず、剣を上段に構えて地を蹴る。

狙うは、猪の装甲が最も薄い、首の付け根の関節部分。

だが、猪もただの獣ではない。拘束を強引に引きちぎろうと暴れ、首を激しく振ってノエルの狙いを狂わせようとする。


(……視える)


僕は『構造認知(ディープスキャン)』を広げた。

精密な数値計算を行うのではない。猪の足元の土壌の摩擦や、シャノワールの影の張力、ノエルの踏み込むベクトルといった物理法則の連鎖を、直感的に「把握」する。


「――『氷鏡結界(アイスミラー)』」


ピキィィィンッ!


猪が踏ん張ろうとした左前足の直下、わずかな範囲の地面だけが、極限まで滑らかな氷の膜として覆われた。


『ブゲッ!?』


影の拘束を振りほどこうと全力で踏み込んだ足が、摩擦係数ゼロの氷の上で無様に滑る。

猪の巨体が完全にバランスを崩し、その太い首が、無防備な角度でノエルの目の前へと晒された。


「もらった!」


ノエルの瞳に、確信の光が閃く。

彼は空中で体勢を微調整し、最大の魔力を長剣に注ぎ込んだ。


「断つ!」


暴風を纏った白刃が、抵抗を一切許さず、猪の分厚い首をスパッと綺麗に切断した。

ズスゥン、という地響きと共に、巨大な胴体が土煙を上げて倒れ伏す。

切り口から、温かい鮮血が泥の地面へとドクドクと広がっていった。


完全な連携。

出会って間もない即席のパーティが成し遂げたとは思えない、滑らかな討伐劇だった。


「オミゴト、ノエル」


僕が片言の称賛を口にしながら近づくと、ノエルは剣についた血を振り払い、背中の鞘に納めながら深く息を吐いた。


「驚いた。お前、言葉が不完全なのに、俺の動きたいタイミングが完全に分かっていたのか」


ノエルが、純粋な感嘆の目を僕に向ける。

前衛の動きを阻害せず、必要な瞬間に必要なだけのサポートをピンポイントで置いてくる後衛の魔法。彼の表情からは「これほど戦いやすい相棒は初めてだ」という信頼が読み取れた。


「ワタシ、ミル、トクイ。ノエル、ツヨイ」


僕が返すと、ノエルは照れくさそうに頭を掻いた。


「シャノワール、少し待ってて。僕が血抜きして解体するから」


僕は腰のベルトから愛用の鉈鎌を引き抜き、猪の巨体へと歩み寄る。

温かい血の匂いと、獣特有の生臭さ。

躊躇いなく刃を入れ、関節を外し、内臓を傷つけないように血抜きをしていく僕の手際を見て、ノエルはまた一つ驚いたような顔をした。

魔導師といえば血の汚れを嫌う者が多い世界で、泥にまみれて平然と解体作業をこなす僕の姿が、彼には意外に映ったのだろう。


「ヨシ。……サア、イキマショウ」


手早く解体を終え、シャノワールの影に肉を収納させる。血塗れの鉈鎌を葉っぱで丁寧に拭ってから腰に戻し、僕はノエルを振り返った。


短い足慣らしを終え、僕たちの呼吸は確かに重なり合った。

木漏れ日の落ちる深い森の奥へ、僕たちは歩みを進める。



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