第71話:小さな決意を灯す、いつかの言葉
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一人きりの部屋が、やけに広く感じる。
オラトリアの宿は、ギルドが用意してくれただけあって驚くほど豪華だった。でも、清潔なシーツの感触も、気品のある設えも、今の私には余計に虚しさを強調させるだけの装置でしかなかった。
ジリウスさんも、連れていかれてしまったし…。
コンコン。
そんな暗い考えに沈みそうになっていた時、不意にドアがノックされた。
「はい、どちらさまでしょう?」
「…香坂康太です。新見さん、ちょっと話がしたくて」
香坂さん…。
一人でいたら、きっと夜明けまでずっと、考えなくてもいいことばかり、ぐるぐると考えていただろう。
だから、彼の声を聞いた瞬間、自分でも驚くほど心が跳ねるのがわかった。
とっても、嬉しい。
「いま、開けますね」
急いでドアを開けると、ギルドの制服のままの香坂さんが立っていた。
「お邪魔します…ごめんね、夜遅くに」
「いえ、私も眠れなかったので。…あ、何か、飲みますか?」
流石は高級ホテル。
備え付けの棚には、茶葉や豆、そしてある程度の調理器具が完備されていた。
「じゃあ、コーヒーを。…っていうか、僕もやるよ」
「あ、これ。…サイフォンだ」
棚の隅にあった、ガラス製の美しい器具を見て、思わず声が弾んだ。
「新見さん、これ使えるの?」
「はい。趣味で、向こうの世界でも色んな器具を持ってたんです。マキネッタとか、本格的なドリップセットとか。コータさんはコーヒー…」
自然にこぼれた呼び方に、自分でも驚いて少し手が止まる。
「あ、ごめんなさい、つい。…こっちに来てから、ずっと名前でしか呼ばれなかったから」
私は器具をテーブルに運びながら、少し勇気を出して言ってみた。
「…もし、コータさんが嫌じゃなければ…。私のことも、ニーナって呼んでくれませんか?」
香坂さんは一瞬驚いたように目を見開いたけれど、すぐにいつもの柔らかな表情で頷いた。
「わかったよ、ニーナさん」
「はい、お願いします、コータさん。…あ、ふふ。やっぱり、ちょっと照れくさいですね」
「じゃあ、僕は粉を挽くから、ニーナさんはそっちの機械をお願い」
「はーい」
ロートとフラスコ。
フィルターをセットして、これがランプ。
カチャカチャと小気味よい音を立てて器具を組み立てていると、コータさんが回すハンドミルのゴリゴリという音が部屋に響いた。
「いい香り…」
フラスコに水を入れて、温める。
やがてお湯が沸騰し始め、フラスコ内の蒸気圧が上がっていく。
「コータさん、豆は挽けた?」
「うん、バッチリだよ」
挽きたての粉をロートに入れ、フラスコの上部に差し込む。
こうして無心で手を動かしていると、さっきまでの孤独感が嘘のように遠のいていくのがわかる。
「おお…!コーヒーが上に上がってきてるよ、不思議だね」
部屋全体が、芳醇で深いコーヒーの香りに包まれる。
スプーンでくるくると丁寧にお湯と粉を馴染ませ、ヒーターの火を切る。
「次は下に戻っていく…」
「本当、実験みたいですよね」
「ね。理科の授業を思い出すよ」
フラスコに溜まった琥珀色の液体を、温めておいたカップに注いでいく。
「できました」
「じゃあ、テーブルで飲もうか」
窓際のテーブルに移動し、二人でカップを手に取る。
「あちち…………あ、おいしい!ニーナさん、これすごいね!」
「慣れれば、難しくないよ」
それから、しばらく沈黙が流れた。
でも、気まずい静寂なんかじゃなかった。
温かい湯気。心地よいコーヒーの匂い。
ただただ、ゆったりとした時間が私と彼の間を流れていく。
「「あの」」
声が重なり、二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
「あ、ニーナさんからどうぞ」
「…すみません。あの、ありがとう。…私のこと、気にして来てくれたんだよね」
「ああ、いや。僕も一人だとなんか寂しくてさ。話し相手になってくれないかなって」
やっぱり、この人は優しい。
根っこの部分は少しも変わっていない。
「そっか。…私も、誰かと話したい気分だったから。やっぱり『ありがとう』、だよ」
コータさんは、照れくさそうに微笑んだ。
「…で、コータさんのお話って」
「うん…。ジリウスも、やっぱりやっぱり感情って、無いのかな?」
「ない、ですね…。最初はデリカシーの欠片もなくて、大変だったなぁ…」
「あはは!お互い、パートナーには苦労してるんだね」
それから、お互いのパートナーの「無茶苦茶」なエピソードを語り合った。この世界に来てから何をしていたか、どんな怖い思いをして、どんなに驚いたか。気づくと、窓の外の空がうっすらと白み始めていた。
「…うわ、もうこんな時間か。ごめんね、長居しちゃった。もうお暇するよ。コーヒー、本当においしかった」
「私も。すごく、楽しかった」
「ギルドからの呼び出しがあるまでは、暫くゆっくりしてよう」
「はい。…では、また」
部屋を出ていくコータさんの後ろ姿を見送って、私はそっとドアを閉めた。
広く感じていたはずの部屋は、いつの間にかコーヒーの香りと、温かい余韻で満たされていた。
…楽しかったな。
コータさんも、アルテアさんの為に前向きに動き出そうとしている。私も、いつまでも、うじうじ悩んでばかりではいられない。ジリウスさんのために、自分に、できることをしよう。
「大丈夫、きっと、うまくいく」
無意識に、ぽつりと口を突いて出た。その言葉で、ぱっと、視界が開けた気がした。私が落ち込んでいたりすると、おじいちゃんがいつも言ってくれた言葉。なんで、忘れていたんだろう。
ずっと、ただの気休め、そんな風に思っていた。
「けど、違ったんだ」
なんで、わざわざ言葉にするのか。それが、自身を、そして行為を肯定するんだ。今になってやっとわかった。
私は、静かな決意と小さな気づきを胸に、安らかな眠りへと誘われていった。
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