9時間目 VS 人体模型
ボォォォォォォ!!
凛の指先から放たれた炎が、空中で固定された人体模型(ジェームズ君)を直撃した。
100円ライターの火などではない。バーナーのように指向性を持った、紅蓮の炎だ。
『ギャァァァァァァァァ……!!』
断末魔のような音が響く。それは声帯から出る悲鳴ではなく、プラスチックが急激に熱せられ、内部の空気が膨張して漏れ出る「笛」のような音だった。
鼻をつく異臭。古いプラスチックと塗料が焦げる、胸が悪くなるような臭いが理科室に充満する。
「燃えろ! 燃え尽きろぉぉっ!」
凛が叫ぶ。
さっきまでの恐怖が、怒りに変わっていた。
仲間を守る。その一念が、彼女の炎を強くしている。
炎に包まれたジェームズ君は、全身を溶かしながら暴れ狂う。
ガガガガッ!
空間に縫い付けられた見えない杭を、無理やり引き抜こうとする強烈な振動が、俺の腕に伝わってくる。
「ぐっ、うぅ……っ!」
重い。
ただの模型のはずなのに、暴れる力は大型犬並みだ。
脳みそを雑巾絞りされるような負荷がかかる。
次の瞬間、パキンッ、と頭の奥で何かが弾けた。
「しまっ……固定が外れる!」
限界だった。
俺の集中力が切れると同時に、空間の拘束が解ける。
ドサッ!
火だるまになったジェームズ君が床に落ちる。
だが、まだ動いていた。
全身をドロドロに溶かしながら、四つん這いの姿勢で再びこちらへ向き直る。その執念は、まさにホラー映画のゾンビそのものだ。
「嘘……まだ動いてる!?」
「ひぃッ!?」
凛が後ずさる。炎の勢いが弱まる。
体力の限界か、恐怖で集中が乱れたか。
ジェームズ君が、溶けた顔面でニチャリと笑ったように見えた。
ターゲット変更。俺ではなく、火を放った凛へと飛びかかろうとする。
その時だった。
「伏せろッ! 二人とも!」
背後から、東雲センパイの鋭い声が飛んだ。
俺は反射的に凛の頭を押さえつけて、床に伏せた。
頭上を、何かが通過する。
それは、琥珀色の液体が入ったガラス瓶だった。
ガシャァァァン!!
瓶がジェームズ君の頭部で砕け散り、液体が飛散した。
その液体が、ジェームズ君の体に残っていた残り火に触れた瞬間――。
ドォォォォン!!
爆発的な炎上が起きた。
凛の火とは比べ物にならない、青白い化学の炎が理科室の天井を舐める。
「無水エタノールだ! 水分ゼロ、純度99%!」
白衣をはためかせたセンパイが叫ぶ。
「有機物は燃やせば終わる! 科学の基本だ!」
燃料を浴びたジェームズ君は、もはや原形を留めていなかった。
関節のパーツが弾け飛び、プラスチックの肉体は飴細工のようにドロドロに溶け落ちていく。
『ギ……ギギ……』
模型は数回痙攣した後、黒い炭の塊となって崩れ落ちた。
*
消火器で残火を処理した後。
俺たちは煤だらけの顔で、床にへたり込んだ。
「……死ぬかと思った」
俺は荒い息を吐きながら、まだ震えている自分の手を見つめた。
怖かった。本当に怖かった。
でも、勝った。
俺の『固定』で止め、凛の『発火』で削り、センパイの『知識』でトドメを刺す。
たった三人の、デタラメな連携。
でも、それが機能した。
「ふぅ。貴重なエタノールを使ってしまったが、必要経費だね」
センパイは眼鏡の煤を拭きながら、涼しい顔をしている。
この人のメンタル、本当にどうなってるんだ。
「……ねぇ」
隣で体育座りをしていた凛が、小さな声を出した。
彼女の手も、まだ震えている。
「……何だよ」
「さっき、ごめん。最初、動けなくて」
凛は膝を抱えたまま、俯いていた。
「カケルが『助けろ』って言ってくれなかったら、あたし、また固まってた。……情けない」
その声は、いつもの強がりとは程遠い、年相応の少女のものだった。
「……何言ってんだ」
俺は凛の隣に座り直した。
「お前が燃やしてくれなきゃ、俺が潰されてた。助けてもらったのは俺の方だろ」
「でも……」
「約束、守ったじゃねぇか」
凛がハッと顔を上げた。
「『死なない』『見捨てない』。お前、ちゃんと守っただろ。俺を助けてくれた」
凛の目が、少し潤んだ。
だが、彼女はすぐに顔を背けた。
「……当たり前でしょ。約束したんだから」
その声は、少しだけ強がりを取り戻していた。
俺は小さく笑った。
「ああ。だから、次も頼むぞ」
「……ふん。アンタこそ、もうちょっと長く止めてなさいよ。すぐ解けるんだから」
「善処する」
センパイが、コホンと咳払いをした。
「さて、青春しているところ悪いが、目的のブツを回収して撤収しよう」
「青春じゃないです」「青春じゃないし」
俺と凛の声が重なった。
センパイは愉快そうに笑いながら、理科準備室の奥へと向かった。
*
センパイが持ってきたのは、大きな段ボール箱だった。
中に入っていたのは、強力な薬品類のストックと、理科実験用の防護ゴーグル、耐熱手袋などの装備品。
「これで火炎瓶も作れるし、防御力も上がる。収穫は上々だ」
「センパイ、こんなの隠し持ってたんですか」
「科学部の備品だよ。いざという時のためにね」
いざという時って何だ。普段から何を想定していたんだ、この人は。
俺たちは黒焦げになったジェームズ君の残骸を跨いで、理科室を後にした。
廊下に出ると、窓の外の霧がいっそう濃くなっている気がした。
一つ勝った。
だが、この学校には、図書室の本や理科室の模型以外にも、まだまだ「化け物」の種があるはずだ。
音楽室の肖像画、体育倉庫のボール、美術室の石膏像……。
「……先は長そうだな」
俺の呟きに、凛が隣で頷いた。
「でも、負ける気はしないわ」
その声には、さっきまでの怯えはなかった。
「三人いれば、なんとかなる。……そうでしょ?」
俺はその言葉に、少し驚いた。
昨日まで「一人で生きてきた」と言わんばかりだった不良少女が、今は「三人」と言っている。
「……ああ。なんとかなる」
俺たちの足取りは、来る時よりも確実に力強かった。




