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【完結】ズヴェーリ 英雄叙事詩 改訂版  作者: 乘越唯響(のりごえ いおん)
番外編 大都会の片隅で編

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最終話(番外編) 小都会の中心で

 私は生まれ育った故郷のカラハット島に別れを告げた。私は、生まれて初めてこの島から出た。行き先は弥纏(やまと)国の「博多津(はかたのつ)県」だ。


 私以外にもこの島から出ていこうとする人は沢山居た。それもそうだ。一年半も戦乱に巻き込まれたのだから、逃げたくなるのも分かる。無理もない。



 私が向かう「弥纏国」は、カラハット島の南側に位置する複数の島「弥纏(やまと)列島」で構成される海洋国家だ。青山(せいざん)戦争勃発の発端となったカラハット武士団という武装テロ組織は、この弥纏国の出身であり、ルーシ出身の私からすれば敵国という事になる。


 そこだけ聞けば絶対に行くべきではないのだが、カラハット武士団について弥纏国は国際テロリストと認識しており、永久国外追放処分を下していた。その為、絶対とは言えないが、私が弥纏国で「敵国人」として差別される事はないだろうと思う。



 やがて到着した博多津は、とても暑かった。緯度が低い地域の春は、こんなにも暑いのかと驚いた。しかし、街がピンク色に染まっているのは美しかった。


 博多津は、とても油臭い匂いがした。独特な異臭にたじろぎながらも、私は引っ越しの為のアレコレを済ませ、新居となるアパートへやって来た。


 ワンルームしかない狭いアパートだが、ここで新生活が始まるのかと思うと、不安と歓喜が複雑に入り交じりながらも、とにかく有頂天になった。



 ――私はそれから一か月間、特にこれといった出来事もないまま過ごした。弥纏の言葉はとても難しかったが、何故だかすぐに理解する事が出来た。理由はすぐに分かった。


 幼い頃に兄弟三人で楽しんだゲームやアニメ、それらの娯楽が弥纏製だったのだ。思わぬ所で、娯楽を楽しんだ経験が役に立った。


 私は生活をする為にアルバイトを探し、居酒屋を訪れた。そこは海月丸(くらげまる)という海鮮系の居酒屋で、大名(だいみょう)という繁華街にあるとても賑やかな店だった。


 Googole(グーゴル)map(マップ)での評価は☆☆☆☆☆中の☆☆☆☆で、良心的な場所なのだろうと思って来てみたら、予想は的中した。



 私は言葉がカタコトという事もあり、裏方であるお酒を作る場所を担当した。お酒なんか呑んだ事もないのだが、毎日手をベタベタにしながら覚えていった。


 繁盛してくる時間帯になると、注文の量やややこしい作り方をする商品を、素早くさばいていかなくてはならない。私は何度も間違えたが、新人という事もあって怒られる事は少なかった。普通はそうはいかないらしい。


 失敗をする度に、先輩の吉岡悠里(よしおかゆうり)という人物が、優しく指南してくれた。


 彼の説明は簡潔で分かりやすかった。その上彼はコミュニケーションを頻繁に取ろうとしていたので、とても親しみやすく、この海月丸にも馴染めるまでそう長くはかからなかった。



 ――ある日の事、勤務終わりに御手洗(みたらい)料理長と、バイトリーダーの様な立場の大見謝(おおみじゃ)氏が話していた。


「シフト用に改めて名前を教えて貰って良い?」

 御手洗

 身長177cm

 少し滑舌が悪い

 アゴ髭が特徴的

 29歳



「ソ、ソフィヤと言います……」


「ハイ! 私は大見謝です! みじゃって呼ばれてます! よろしくね!」

 大見謝

 黒髪に一重というアジア人顔で、小柄な女性。



「ソフィヤちゃんは何処の国の人?」


 私はこの問いに困惑した。差別される事はないと信じてはいるが、もしかすれば、この女性はたまたまルーシ連邦を敵視しているかもしれない。そういう排他的な性格だとすれば、私はこれから虐められるかもしれない。


 不安で、口が重たくなってしまった。しかし、それは杞憂だった。



「ルーシでしょ? あの、北海道の上の」



 御手洗氏が平然とした顔のままルーシの名前を出してくれた事で、ここに敵国差別の気風はないと暗に示してくれたのだ。そういう気遣いなのだろうか。いや、何にも考えずにそう言った様に見える。


 とにかく、私は自信をもって、大見謝氏にルーシ国出身と答える事が出来た。気さくな上司に囲まれた事で、私はこの店に居場所を作る事が出来た。



 ――数日後、平日の居酒屋は暇だった。みんなスマホを片手に、ダラダラ話し込んでいる。酒好きな色白の男はオススメのお店を、御手洗氏に説明していた。


 私は誰に話し掛ける事もせず、ただボケーっと入り口を眺めていた。すると悠里氏が話しかけてきた。彼は、暇になると誰とでもコミュニケーションを図り、店の雰囲気を明るくさせる事に勤しむのが常だ。


 それは何気に大事な事だが、何故だか「弥纏人」はコミュニケーションを疎かにする。


 ルーシ人は普通早口で話すのだが、私はこうして頭の中では饒舌(じょうぜつ)になれるのに、実際は吃ってしまって上手く言葉が繋がらない。それでも悠里は話を聞いて、しっかりと答えてくれるのだ。


 聞けば、彼は関西と呼ばれる地域の出身で、それ故に口が達者なのだと知った。彼はインテリで、博多津県がある九州地方で最も偏差値の高い大学に通っているらしい。私が尋ねれば、大学で研究している事をすぐに教えてくれた。


 彼は宗教の研究をしていて、仏教について色々な事を教えてもらった。


「君はカラハット島出身のルーシ人やのに、アジアに興味があるん? 青山戦争に関わったの弥纏人、蒙古人、漢人、女真……いや、満洲(まんしゅう)人も、皆アジア人やろ? 憎くないん?」

 彼は吉岡悠里(よしおかゆうり)。

 口数が多い

 つり目

 身長170cm



「あ、えっと……まずそんなに、興味はないです。ご、ごめんなさい……。私は、この国に住むからには、この国の『価値観』に詳しくなりたいだけなんです」


「あぁなるほどな! そういう事か。まぁ弥纏に住んでたら、じきに分かる事やろけどなぁ」


「でも、悠里さんは仏教に詳しいから……。色々と教えてほしいんです。ルーシは正教会の国で、ア、ア、アジアは仏教……。仏教を知れば、弥纏人の根底にある価値観から、理解できると思います……」


「へぇ、そこまで考えてたん。君賢いなぁ。ソフィヤちゃんであってる?」


「あ……ソーニャって呼んでください……。ルーシでは、愛称系っていうのがあって……私はソーニャです」


「んー? よろしくなぁソーニャ」


「あ、はい……!」


「ふっ、おおきに」



 その日のバイトを終えて帰宅した私は、母に電話をした。心配させまいという配慮だ。私は、ペーチャについて尋ねた。


 すると母は哀しそうな声で、ペーチャが軍に入った事を伝えた。その言葉を聞いて、私の気持ちも重く沈んでいった。弟が兄の二の舞になってしまうという不安で、おかしくなりそうだ。


 でもペーチャの人生に私は口出しなんか出来ないし、それに、もう終戦を迎えているから大丈夫だ。戦争で死ぬ事はない。不安だけど、きっと大丈夫だろう。



 母と話終えた後、私はゾユーシュカに連絡をかけた。無料で異国と連絡できるなど、凄い時代だとつくづく思う。ゾユーシュカと近況を話した。


 彼女は戦争で負った心の傷を癒す為に、サーシャに別れを告げる決意をしたという。それを聞いた私は彼女に、兄の遺物を捨てて、立ち直るキッカケを作った事を話した。


 彼女もすぐにはそんな決断は出来なさそうだったが、それが唯一にして正しい選択である事は明確だし、何とかなるだろう。


 彼女は優しく、強い人物だ。いつまでも過去に囚われる彼女ではないだろう。私も彼女も過去を乗り越えようとしているんだ。


 それから、彼女は異国で暮らす私に興味津々だった。何か起きたら、全て教えて欲しいと言われた。


 私の新しい生活は、私だけのものではないのだと思った。ゾユーシュカからすれば、同じ様な傷を負ったという仲間が立ち直る事は、自分自信の希望になるのだ。



 ――翌日、私は博多津の町を散歩した。

 理由は二つで、一つはこの油臭さの原因を知りたかった事。そしてもう一つはただ単純に、この「博多津」という町がどんな町なのかを知りたかったからだ。


 まずこの油臭さの正体は、「豚骨ラーメン」というものだった。ラーメンは聞いた事があるが、この町がラーメンの本場であるとは知らなかった。


 実際食べてみたが、私は美味しいとは思わなかった。脂っこさがしつこいから、食べずらかった。あと値段も高かったのもあって、私はラーメンにハマらなかった。


「あまり美味しくなかった」


 その気持ちが、顔に出てしまったのだろうか。


 私は店を出ようとしたら、隣に居た不良風の男に絡まれた。訛りが強すぎて上手く聞き取れなかったが、恐らく豚骨ラーメンを美味しそうに食べなかった事が気に食わなかったらしい。


 何と身勝手な理由で私に怒鳴りつけてるのだろうか。博多津人はかなり愛郷心が強いと聞くが、こんな歪んだ愛着なのか? 。


 周りの人々が不良と私を引き離してくれて、私は逃げる様に店から出た。


「白人、弥纏から出ていけ!」


 去り際に吐き捨てられたその言葉は、確かに私の心に刺さった。気分を害すなんて程度のものじゃない。私の心に深く突き刺さったその誹謗中傷は、ただでさえ弥纏に居るだけで不安な私の心を、挫(くじ)くには十分だった。



 店を出た辺りで、悠里と出会した。この街は発展している地域が恐ろしい程に狭い。「コンパクトシティ」というらしいのだが、それは「巨大都市」のカイ市とは真逆の都会だ。


 だから時々、こういう事態が発生するのだろう。私は悠里と二人で町を散策しながら、色々な事を教えて貰った。



 この博多津という街は古都で、一八◯◯年前から弥纏の重要な港の一つとして機能していたらしい。私が「歴史」に興味を持っている事を伝えると、彼はとても興味深い事を教えてくれた。


「君に伝えるべきか分からへんねんけど、この町には君の出身地のカラハット島と共通点があんねん」


「え、カラハット島と? どんな共通点なんですか?」


「この博多津もな、大元蒙古国に侵略された過去があんねん。まぁ八◯◯年前の『鎌倉時代』にやねんけどな」


 そう言って彼は流暢な言葉で分かり安く説明してくれた。


「つっても文明化以前の原始人みたいに人工の兵器を使ってた訳ちゃうし、魑魅(すだま)……あぁこの国のズヴェーリの事な。魑魅が兵器なんやから、今も昔も戦場の景色とか凄惨さとかは、あんま変わらんしな」


「私が感じた恐怖を、この町の人々も感じたんですね」


「せやな。まぁ八◯◯年前やから、覚えてへんけどなぁ」


「その出来事は、学校で教わったりするんですか? ……知られもしてないなら、そんなの理不尽です……」


「知ってる人も居るけど、大抵の人は興味もないで。『元寇(げんこう)』と聞いて、伝わるのは歴史好きだけちゃうかな」



 今は昔、この町にも私が体感した恐怖を覚えた人々がいたのだ。私は蒙古人が攻め込んで来たという港を見た。今は「博多湾」と呼ばれるその湾を、元々は「博多津」と読んでいたらしい。


 私がカイ市西区で見たあの光景が、この場所に広がっていたのだ。だがその事を知る人はおろか、知ろうとする人すら少ないと言うではないか。「理不尽」だ。


 私は西区に生まれただけで「兄」を失い、故郷を「蹂躙」された。私の周りに居る博多津民と、私の何が違うと言うのだろう。私は戦地に生まれただけなのに、大切なものを失わなくちゃならなかった。


 当事者以外、興味は持たないのだと思い知った。私やかつてのこの町がどれ程苦しんだかなんて、彼らの生活には何の足しにもならない。


 過去に命懸けで大切な人や町を守った人が居たからといって、そしてそれがつい最近まで近くの島で再現されていたって、そんなの関係ない。


 そんな事よりもスマホの中のゲームや、美味いラーメン店について調べる方が、生活の質を向上させてくれる。そう考えるのだろう。



 ――それから私達はバイトの時間まで時間を潰した。警固(けご)公園という場所までやって来て、二人で話した。ここは職場から程近いから、この公園に来た。


 ここまで歩くのに疲れた私は、少し気持ちが落ち込んでいた。それを感じたのか、悠里は何て声を掛けたら良いのか分からず口ごもっていた。なので、今度は私から話し掛けてみた。


「ゆ、悠里さんは大学で仏教の勉強をしてると聞きましたけど……何故なの?」


「俺は、解き明かすのが好きやねん。で、突然やけど俺は生き辛さ持っててな。その正体を解き明かしたかってん」


「生き辛さですか……。それは私にもあります……。今日も人種差別をされましたし、まだまだここでの生活が不慣れです」


「不慣れなんは時間が解決してくれるんちゃうか? 白人で人種差別されるなんて珍しい気もするけど、まぁそんなんしてくるんアホだけやし、無視でええで」


「そ、そうですけど……。それじゃあ、悠里さんの抱える生き辛さって……なんですか?」


「もっと普遍的な……かな。現代人が抱える苦しみって感じ」



 悠里氏が言う現代の苦しみ。その言葉を聞いてハッとした。ここらに居る博多津民にも、私とは違う苦しみがある。兄の死だって、世界でただ一人私にのみ訪れた苦しみではないだろう。


 私よりも苦しんでるとは思わない。家族の死や孤独に苛まれる弥纏人がどれ程いるだろうか。でも、私はこうも思った。


 弥纏人の感じる苦しみを知れば、私はもっと弥纏人に馴染めるはずだ。そうすればもっとこの場所に馴染めて、「居場所」を作る事が出来る。


 小難しい話になるだろうが、私は悠里さんの話を聞いてみたいと思った。



「悠里さんが思う苦しみの原因って何だと思いますか?」


「堅苦しい話を長めにする事になんねんけど、ええか?」


「はい、お願いします……!」



 悠里氏は、少し躊躇(ためら)った様子を見せながら、重い口を開いた。



「お釈迦さんが言う苦しみの代表例、通称『四苦八苦』。その内の三つ『死』『老』『病』は全て、例外はあるけど等しく日常から切り離されてる」


 悠里氏は優しく私の方を見ながら、丁寧に言葉を話した。とても優しい人だと感じたが、私はもしかして口説かれるのだろうか。そんな不安が頭をよぎった。


「今の時代は皆、健康やからな。俺らの日常は、文明の利器とか制度で快適さに満ち溢れてるし、昔の貴族や王よりも豊かさに溢れてる。せやろ?」


「そ、そうですね」



 思っていたよりも堅そうな話に身構えて、彼の話を聞いていた。近くには子供達が遊んでいる声が響いている。悠里の会話はその空間にはおよそ似合わない内容だ。


「俺らは、社会の中で人権を有している。それだけで中世の価値観で言わば、貴族とか王な訳やん? 権利があるから自由だし、お金があれば豊かになれる」


 悠里は眉間にシワを寄せる私を気遣ったのか視線をそらし、ポケット手を入れながら話していた。


「俺は生き辛さの原因は、社会全体が豊かだからやと思うねん。皆豊かやから、誰かを出し抜こうとして自分が負けて落ちこぼれたり、欲しい物が得られなかったりする。『学業』『恋愛』『お金関係』あらゆる所で、不意に他者との優劣を目の当たりにする」


「他者との優劣……ですか」


 気が遠退く思いがした。しかし難しいがどこか楽しかった。これが知的好奇心というものかと、そう思った。



「そう。それはまるで、昔の貴族が十分に豊かなのに更なる栄華を求めて、権謀術数を働き政争を起こしたり。王が更なる領土を求めて戦争を勃発させたり。足るを知らずに多くを求めて、自分の首を締めたのと同様にな」


 それから悠里は涼しい顔をして言った。



「そうして健康を害する程に呑んで食べて、病気になって日常から切り離されて死に近づいた時、初めて気付く。幸せとはなんたるかをな」



 病気になって日常から切り離されてから、初めて気付づく。正(まさ)しく自分の事だ。もっとも、私の病気とは釈迦が言う様な体の病気ではなく、心の病気だが。


 私も自分の人生に本気で向き合い、ゾユーシュカや家族と過ごす時間を大切だと気付けたのも全て、兄を失って心が「常闇」に沈んだのがキッカケだ。


 人は一度傷つかないと、幸せを享受出来ないのかもしれない。そう思った。



 ――深く考える私を見て、悠里氏は「だから話していいかと聞いたのに……」と言いたげな顔をしていた。


 でも私は、話を聞いた事を後悔なんかしてない。理由は違えど自分も「弥纏人」と、抱えている苦しみで共感できるのだと知れたのだから。


 でも私は気になった。苦しみから解放されるには、どの様にしたら良いのか。是非、悠里氏の見解を聞きたい。


 それを尋ねたら悠里氏は、「チープだけど、自分の生き甲斐を作るべき」と言った。


 それが、他者との競争を止める唯一の方法だと。


「趣味とかあるん? 考えるのが好きそうやし、堅っ苦しい趣味とかありそうけど」


「…私はあんまり堅苦しいのは好きじゃないです……」


「ほえ~意外。それじゃあ何をするのが好きなの?」


「小説読んだりですかね……。自分でも趣味で書いたりしてます」


「それは凄い! 自分でも書けるとか才能やん!」


「そ、そんな事ないですよ。でも、嬉しいです」


「今度、読ませてね。読んでみたい」


「よ、読んでくれるんですか……! ありがとうございます……!」


 そんな会話をして、私達はまた職場の「海月丸」へ向かった。私達は、こんな日々を繰り返した。



 ――ある日、私はいつもの様にアルバイト先へ向かった。すると今日も暇で、私は特に何もせずボケーっとしていた。厨房では悠里氏とひさし氏がイチャイチャしていた。


「悠里ってさ、大学で何の勉強してんだっけ?」

 ひさし

 22歳

 眉毛にピアスがあるB-boy風の大学生の男性

 身長175cm



「仏教やで」


「釈迦(しゃか)とか?」


 そういうとひさし氏はコンソメを手に取り、それを上下に振った。勢い良く降られたコンソメは、シャカシャカシャカシャカッと、音を立てた。しーんとする中、全員がひさし氏を見詰めていた。


「俺がスベったみたいになってるやんけ」


「おぉ、ひたしお前やったなぁ。やらかしたなぁ」


「ひたし? お浸し?」


「いや言ってねぇからwそんな事、全然(でんでん)言ってねぇからw」


「でんでん?」


「……」


 御手洗氏は滑舌が悪い様だ。それをネタにして取り返しのつかない空気にしてしまったひさし氏だが、彼らはこの沈黙さえも楽しんでいる様に思えた。



「所で、ひさしは大学で何を勉強してんだっけ?」


「遺伝子~」


「じゃあ遺伝子について説明して貰いましょう」


「てつめいね」


「……」


「ま、まぁ簡単ですよ。親から子に遺伝情報が伝わるのを遺伝って言うんですよっ。遺伝子は、その遺伝情報が含まれてるんですっ」


 彼はどこか取り繕う様に言った。焦る様話しているが、これもどこか計算ずくの「ノリ」の様な気がした。



「遺伝情報に依って生存を有利にさせる形質が受け継がれ、姿形や性格が似るんですっ。子供が出来たら、親が世界を生き抜いた叡知(えいち)が受け継がれるんですよっ」


「ふ~ん」


 こういう謎の会話にも慣れたものだ。でも、物凄く気まずい。弥纏には、こういう独特な「間合い」がある。


 これを理解するのは簡単じゃないだろう。たまにこういう事が起こるが、私は、この場所が嫌いじゃない。もっともっと馴染める様に努力しよう。これが理解できて初めて、私はもっとこの場所に馴染めるんだ。


「じゃあ、ひたしはおじいちゃんがアル中で診断だし、それも遺伝するの?」


「もちろんですよ! 俺もアル中で死んでやる! !」


 相変わらず理解が難しい身内のノリを目の当たりにしながら、私が厨房を見ていると、ふと悠里氏と目があった。私は、自然と微笑んだ。すると彼も、少し照れた様に笑った。



 ――私は翌日の昼、「ゾユーシュカ」と電話をした。私は近況報告も兼ねて悠里氏や海月丸の話をした。すると、ゾユーシュカは興奮気味に私をからかってきた。意味が分からなかったけど、それは多分私だけだろう。


 今度はゾユーシュカの話を聞いた。すると彼女は、恋をしていると言った。私はゾユーシュカと入れ替わる様に興奮気味に叫んで、事細かに説明させるのに必死になった。


 すると彼女は、編入されたカイ市東区の大学に通って、そこでクラスメートに恋をしているらしかった。大学が再開した事にも、戦争からの復興を感じた。


 私は少しづつ、彼女が「サーシャの死」から立ち直ろうとしている事を感じていた。嬉しかった。


 彼女は「あなたが立ち直ろうとしている姿が、私の頑張る希望になってる」と言っていた。その嬉しさと照れ臭さが相まって、私は彼女をからかう事に必死になっていた。


 そしてさっきの彼女の気持ちを理解した。彼女は私が悠里氏と親しくなっている事を、そういう事だと察したのだろう。いや、察したのではなく、勘違いしたんだ。


 私は全然そんなんじゃない。少なくとも今は、そう思う。



 電話を終えて、私は今日もアルバイトへ向かった。土日祝日というのは、世間の休日であっても私の様なフリーターには関係ない。客が増えるだけの平日だ。


 今日も職場へ向かう。そして時間が来たら出勤して堅実に働き、そして時間が来れば退勤して帰ってくる。私は賄いの晩御飯を食べて、帰宅する。そんな日々を繰り返した。



 数ヶ月が経った頃ふと思ったのだが、私は兄を思い出す事が少なくなっている気がする。忙しくしているか、あるいは兄の面影を思い起こす理由もない様な、遠方の土地に居るからか。徐々に、少しづつ兄が霞んでいる気がする。


 鮮明に思い出せない。それを望んでいたのに、徐々に兄が薄れて行くと、急に悲しくなった。


 先日の差別や、未だに感じる人々との壁。無視していたそういうストレスが急に押し寄せてきた。忘れ掛けていた心の痛みが襲いかかって来て、ふと涙が流れた。


 私は未だに、完璧に立ち直ってなどいない。私の心はまだ“常闇”にある事を思い知って、いつもの様に、落ち着くまで泣いた。


 泣き止んで気持ちが落ち着いた頃に、顔を洗ってバイトへ出掛ける。その最中気付いたが、明らかに涙を流すスパンは長くなっている。まだ立ち直ってはいないが、立ち直っていっているのだというのを体感した。



 私はここで悟った。母が言っていた事が理解できた。


「いずれ時間が解決してくれるからね。少し回復したと思っても、辛い気持ちが逆戻りしてくる事もある。でもそれも全て、いつかはなくなる。時間はかかるけど、いつかはちゃんと治るからね」


 時間をかけて、私は少しずつ立ち直って行っている。そう思った。私に取って母の言葉は、ただの楽観的な「気休め」程度の言葉だと感じていた。だがそれは勘違いだった。全力で治す為の「努力」をしていけば、「長い時間」がかかってもいつかは「治る」という意味だったらしい。


 私は確かに外に出て震えていたり、不意にタチヤーナと出会い傷ついたりもした。そういう副産物的なストレスを感じつつも私は諦めずに、兄を断捨離したり、将来を見据えて勉学に励むなど努力を続けた。


 どれも凄く苦しかったけど、終わりのない常闇の様に思えていたそれらは、長い時間が解決してくれるのかもしれない。そういう兆しを感じられた。



 ――数日後、私は悠里氏と会った。私は悠里氏に付き合って欲しいと、交際の申し込みをされた。私は答えに窮して数日の猶予を貰った。


 それから私は帰宅して考えた。私は多分、悠里氏に恋はしていない。でも私は弥纏での生活を振り替えってみたら、悠里氏と一番長く過ごしているし、悠里氏が居る時私は他の人と過ごしているよりも笑っていた。


 私は恋はしてないけど、悠里氏が心の支えになっている事は確かだと思った。もし彼を、兄の様に失ったらどうなるだろう。


 答えはすぐに分かる。絶対に、傷つく。


 私は彼を失いたくないと思った。そしてその瞬間、自分がしっかりと口説かれていた事に気づいた。きっと彼はヤリチンだろうが、それでも良いとさえ思えた。



 ――それからすぐに私は彼と付き合った。ゾユーシュカも母も祝福してくれた。


 付き合ってからかなりの時間が経つ。彼と過ごす日々は、取り戻したかった兄と過ごした日々の様な爽やかさと、暖かさがあった。多分、これが幸せなのかなって、そう思う。


 気が付けば私は夢で死神に会う事はなくなっていた。死神はきっと、夢の中で見た不安や恐怖の象徴だったのだろう。



 この日は悠里と出勤した。ひさし氏が私達をからかってきた。でもバカにした訳じゃなくて、これが悠里や私を取り巻く、海月丸の普通なのだ。それを現す様に、ひさし氏や御手洗氏もちゃんと祝福してくれた。


 この日は私も祝福した。それは、みじゃ氏の妊娠に対してだった。妊娠したみじゃ氏を見た後、ひさし氏は私を見てこう尋ねてきた。


「いずれは、ソーニャちゃんも妊娠して、出産する。聞かせて? ソーニャちゃんが世界を生き抜いて、子供に伝えたい叡知って何? あ、セクハラじゃないからね?」


 私はひさしさんらしい、面白くて謎な質問に答えた。私が真に人生と向き合って、そして立ち直って見つけた幸せな日々。私が伝えたい「叡知」は、これだ。


「生きていたら、また素敵な人に出会えるから。ですかね」


 ズヴェーリ 英雄叙事詩~大都会の片隅で編~ 終 

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