9.緋色の瞳
慣れというのは恐ろしいもので、ひと月前は心臓が五月蠅く脈打っていたというのに、今の俺は落ち着いて眼下に広がる自然と、爽やかな空の青に心を穏やかにしていた。
アジュガが操るファイアー・ドレイク、ビエルの背に乗る俺とリーオは梅雨の国カオシアを出て、スプラエンの上空を飛行している。
つい最近ウィントハーレンの飛空艇に乗ったが、部屋のガラス越しに見る雪雲の多い玄武の空より、こうして肌で風を感じて柔らかな陽の光を浴びながら見る春の空は、俺の心を暖かく包み込み、余計な肩の力を抜かせてくれた。
「あー! スプラエンは暖かくて気持ちいいな!」
「そうですね。やはり長年この国に暮らしていますから、この気温が一番心地良いです」
「ビエルも何だか気持ち良さそうですね」
「グワァァン!」
約一カ月振りの春の国。見下ろす木々は青々として、色取り取りの花々が咲き乱れ、様々な命の活力に溢れた大自然。
これほど美しい自然に満ちた場所など元の世界にどれだけ残っているだろうか。
何度見ても飽きる事のない、名画のような世界だった。
(絶対に、守らなきゃ……!)
東へ進んでいくと、薄いピンク色の塊が遥か遠くに見えてきた。
それが近付くにつれて、俺が物心つく前から毎年見てきた景色だと気が付いたのだった。
「なあアジュガ! あれってもしかして桜じゃないか?」
「はい、そうですよ」
「イーサルにも何本か桜の樹がありましたけれど、あんなに沢山の桜を見たのは初めてです!」
俺の生まれた季節に咲く、日本人ならきっと誰もが好む花。
元の世界では毎年家族で花見をしに行ったものだ。
ただ、ここ数年兄ちゃんは友達と花見をしているから全員でとはいかないのだが。
空から見る桜は、まるでピンク色の絨毯の上に居るかのように錯覚してしまう程満開で、俺達だけで独占しているこの絶景に満ち足りた気分になる。
「アキレアにも見せてあげたかったなぁ……」
いつもツンツンしていて斧を振り回したりしているくせに、ケーキや花を見るその横顔は普通の女の子と同じように嬉しそうで、楽しそうで。
ここに彼女が居ないというその事実が、俺の心にぽっかりと穴を空けているようだった。
「ここの桜は、何百年くらいか前にフォレイヤから友好の証として贈られたと言われています」
「そういえば桜は元々フォレイヤにしか無かったんだっけ」
「ええ、それから桜をスプラエンに移してからあの美しい花を咲かせたそうですよ」
(昔は仲が良かったのかな?)
それから俺達は近くの町で宿に泊まり、翌朝からは馬車に乗ってイーサルへ向かった。
イーサルに着いた頃には日が沈み始めていたが、俺達は早くヒギリさんに会わなければならない。
足早にリューエルシアン城へと向かい、アジュガさんがすぐにヒギリさんを呼び出してくれた。
アジュガに案内されたのは城の中のそれほど広くはない、しかし狭すぎるわけでもない、一般庶民の俺としては丁度良い大きさの空間。
そこがヒギリさんの部屋だった。
「……お久し振りでございます、フリッグマスターショウ様。そしてアジュガ……ヘリオトロープ様も、お怪我は無いようで」
初めて出会った時と全く変わらない、凍り付いたように変化しない表情。
ヒギリさんは慣れた手付きで紅茶を人数分用意して、俺達に座るよう促した。
「アジュガが淹れた紅茶程美味とは言えませんが、どうぞお飲み下さいませ。長旅でお疲れでしょう」
「ヒギリさん……」
「皆様が私の下を訪ねた理由は存じております。私の父……嶺禅黒檀の事で間違いございませんか?」
俺達は無言で頷く。既にスプラエンにもフォレイヤの宣戦布告は耳に入っているらしい。
ヒギリさんは自分で淹れた紅茶のカップに口を付け、僅かに顔を歪めた。
「やはり……貴方の味にはなりませんね」
「……ヒギリさん、私達に秘密にしていた事……全て話していただけませんか」
普段の穏やかな口調と異なり、真剣味を帯びた口振りでアジュガが言う。
するとヒギリさんはその緋色の瞳で射抜くようにアジュガを見返した。
「……それを聞いて、どうなさるおつもりなのですか?」
「俺達は、この戦争を止めるつもりです」
俺が口を開くと、突き刺さるような彼の視線が俺に向けられた。
静かな迫力のあるその瞳に呑み込まれそうな感覚に陥りかけたが、俺は拳をぎゅっと握り締めもう一度言葉を発する。
「俺はウィントハーレンがスプラエンに戦争を仕掛けている理由も、今回のフォレイヤの宣戦布告の理由も知りました。それを全て解決させた上で、俺達はスプラエン、ウィントハーレン、フォレイヤの三カ国の関係を修復させようと思っています」
「それで私が何故この国に居るのかを調べにいらしたのですか」
「はい。俺は出来るだけ武力に頼らずに、話し合いで解決させたいんです。人間は、戦うだけじゃなくて、話し合う事で分かり合える生き物だと思うんです」
「その為にわたし達はあなたのお話を聞きに来たのです」
フォレイヤの王子であるヒギリさんがスプラエンに来た理由、嶺禅国王がスプラエンに戦争を仕掛けてまで彼を取り戻そうとしている理由。
それを知らない限り、嶺禅国王を説得する事など出来ないだろう。
「……本気であの男を止める、その覚悟はおありなのですか? 彼が率いる軍を、そして彼を相手にする、その覚悟が」
「それは勿論……」
「あの男は……只者ではありません。説得などに応じるような人間ではないのです。下手をすれば、命を落としかねませんよ」
彼の真剣な表情は、嘘など一切吐いていないのだと考えるまでもなく分かった。
命を落とす。つまり、死ぬという事。
今まで一度も考えなかったわけではない。【死んだら】元の世界に帰れるのではないか、と。
しかし、それで帰れる保証などどこにもない。それに俺には守らなければならない約束が幾つもあるのだ。死ぬわけにはいかない。
「……それでもやります。俺に……俺達に出来る最大限の事をやってみせます」
すると、一瞬だけヒギリさんの唇が弧を描いた。
それはすぐに横一線に戻ってしまったし、あまりにも微かな変化だった為見間違いだったのかもしれない。
しかし、数秒前の尖った彼の視線より柔らかくなっているように感じた。
「……良いでしょう。貴方のその言葉を信じます。私と父の真実……お話ししましょう」




