第二話、バンコクライフ
タイ王国について
赤シャツ騒動についての話を進める前に、タイという国について、そして私のバンコクでの生活について、ちょっと寄り道して話しておこう。
タイは昔、カンボジアだった。カンボジアを侵食することによって、タイは領土を広げた。
みなさんも、カンボジアのアンコール・ワット遺跡はご存知でしょう。すぐれた灌漑と農耕の技術によって、一大王国を築いたクメール王朝の時代、領土は現在のタイ南部まで広がっていた。その頃のタイは、スコータイなどの小国がいくつか存在していただけで、国家としては、まだ形を成していなかった。
しかしタイ族の勃興によって、カンボジアはめちゃめちゃになった。なぜならタイはカンボジアを侵略するにあたって、農業技術者を抹殺するという戦法をとったからだ。
カンボジアやタイは平地が多く、灌漑用の池を作っても、水を目的地まで流すことが非常に難しい。そのためには、高度な土木技術が必要だった。灌漑の水門の開け閉めも難しく、そういった重要な技術は世襲制度がとられて、何代にもわたって優秀な人材が育成されていった。
タイが勢力を伸ばしていった時、まずそういう人たちを狙い撃ちにしていったのだ。灌漑をだめにして、農業をだめにして、国を弱体化し、侵略した。技術者たちの死と共に、最高で三毛作まであった農耕技術も失われてしまった。
この侵略によって、タイ自身も、優れた農業技術を学ぶ機会を逸してしまったのだが、それでも豊かな熱帯の風土では、種さえ蒔けば作物は採れた。
近年、日本のJICAが、タイの農業を改善して二毛作を教えたら、タイの農民たちはすごいすごいと手放しで喜んだ。何をそんなに喜んでいるのかと思ったら、農民たちが、「一年で二回米が採れた。これで、来年は働かなくてもすむ」と言ったので、JICAの人たちはあきれ返ったという逸話が残っている。
JICAネタをもう一つ書くと、貧しい山間部や農村で、娘が売られて売春婦になっている現実に胸を痛めたJICAの職員が、娘たちに織物を教えて地場産業として育てれば、少しは抑止できるに違いないと考えて、職業訓練所を開設した。
そして、さあここで学んで、社会に出て働きましょうと生徒を募集したのだが、誰も来ない。そこで、来てくれたらただでお昼ご飯を食べさせますと条件をつけた。ところがそれでもこない。それならば、ここで勉強をしたらその分時給を払いますよと、そこまで言ったのに来なかった。
娘たちに理由を聞いたら、「なんでそんなわずかな時給のために、重労働をしなければならないの? それよりも売春した方が手っ取り早くお金を稼げるわ」と、逆に文句を言われたそうだ。
最も近頃二毛作に関しては、高価な肥料が必要な上に、酷使された土地の疲弊が問題となり、非効率ではあるが、自然と調和した伝統農法が見直されるという逆転現象も起きている。
タイ人は民族的には、カンボジア系のクメール人を始め、多民族の血が混じっている。地続きの国の人たちは混じりやすいのだ。実は日本人の血が混じっているという人もいる。アユタヤ時代に海を越えて日本人が大量に入り、日本人村が形成された。しかし、後に破壊されてしまい、生き残った人たちは現地に同化していったと考えられる。
タイ語もクメール語の影響が強いが、五つの言語が複雑に交じり合っているので、日本語よりも難しいと言われている。実際、タイ語の文法で解明されているのは八割ほどで、ともかく例外が多い。
多民族である故に排他的ではなく、極めて寛容。タイ人は親切であるということと、寛容であるということを美徳としている。その反面、正確に何かをやるとか、勤勉に何かをやるというのは苦手。この点は日本人と正反対だ。長く住んでいると、このタイ人気質に悩まされ続けることになる。
タイ人が親日的だということも、よく知られている。
戦前戦中を通して日本に対する印象がよかったことが大きな理由だが、皇室同士が親しいというのも特筆すべき要素だ。また日本が、戦後に爆発的経済成長をとげたことも、尊敬の対象となっている。
ともかく日本人にとってタイは、アジアで最も居心地のいい国だと言えるかもしれない。
ところでみなさんは、バンコクの正式名称をご存知だろうか?
まるで落語のじゅげむみたいな、世界一長い都市名として有名だということはご存知の方も多いだろうが、最後まで言える人はまずいないだろう。
『クルンテープ・マハナコーン・ボーウォーン……』
もちろんタイ人だって、誰もが言えるわけではない。一般には、『クルンテープ』と呼ばれている。
では、バンコクという名称は、いったいどこからきたのか?
実はクルンテープの古名なのだ。日本で言えば、東京のことを江戸と呼んでいるようなもの。したがって、タイ人同士の会話でバンコクが使われることはまずない。けれど、もちろんバンコク=クルンテープだということは、タイ人なら誰でも知っている。
蛇足だが、クルンテープは天使の住む都という意味で、ロスアンゼルス(天使の消えた都)とは正反対の意味を持っている。
バンコクに住んだわけ
私がタイにはまったきっかけは、寺院を見たことだった。
私は大学で建築学を専攻して、卒業後は建築関係の仕事をしていた。そして二十年近く前、仕事でベトナムの遺跡調査に行った。
当時は直行便がなく、経由地のバンコクで一泊しなければならなかった。それで降り立ったドンムアン空港のまん前に、初めて見たタイのお寺、ワット・ドンムアンがあったのだ。そこに行って、私は衝撃を受けた!
これが寺院なのか?
こんな派手派手しい建物が?
ベトナムの仕事が終わってから、私は改めてタイへ旅行に行った。
期待した以上に、建築物は見るべきものがあってショックを受けた。料理も素晴らしくうまかった。さらに興味を惹かれたのが、聞こえてくる言葉の美しさだ。特に若い娘が話すタイ語は、鳥のさえずりのように愛らしかった。
ベトナムと比較して、タイのインフラの良さも魅力に感じた。道路はどこも舗装されているし、長距離バスも一応時間通りに来る。旅行して、すごく楽だと感じた。
最初は、タイに住もうなんて考えてなかった。ただあの国で言葉が通じれば面白いなと思った。
あそこに住んだら、どうなるんだろうなぁ……。
もっと建築のことを知りたいなぁ……。
私はタイに関する本を読み漁った。そして気がついたら、帰りの予定もたてずにタイに来ていた。
人生というのはまことに不思議だ。ちょっと舵を切ってみる、ちょっと寄り道してみただけで、思いも寄らない運命と出会いが待っている。
私が、タイの国立大学に開設された外国人のためのタイ語教室で学んでいた時、ひょんなことから、私の建築に関する知識に目をつけた教授が現れた。そして紆余曲折があって、教わる側が教える側になってしまった。
私は大学講師として、教鞭を執ることになった。講義名は、『東南アジアの建築・基礎一』
さらに、教授の助手として日本を案内したり、カンボジアの遺蹟調査などもお手伝いしている。
もちろんタイで大学講師をしているからといって、食べていけるほどの給料をもらえるわけではない。むしろボランティアみたいなもの。したがって、私の場合は副業が本業になっている。
副業については、次話で語ることにしよう。
食生活
最後に、バンコクでの私の食生活について話そう。
食事は外食が中心……そもそも私が借りている部屋には、自炊の設備が付いてない。タイは外食が異様に安い上、美味しいから、独り者は自炊するメリットがないのだ。
タイ料理は、屋台から超高級レストランまで、ピンからキリまである。もちろん地方色も豊かで、中でもタイ東北地方の郷土料理、イサーン料理は人気がある。
イサーン料理で有名なのは、ガイアーン(タイ風焼き鳥)や、ソムタム(青パパイヤのサラダ)などで、家の近所の通りでも、イサーン料理の店が軒を連ねている。
タイ人が日常的に食べる代表的な料理は、通称ぶっかけ飯と言って、ごはんに自分で選んだおかずを二種類ぶっかけてもらって、二十五バーツ(七十五円)払う。安くてうまくて量も多く、これだけで腹いっぱいになる。テイクアウトもできて便利だ。
大学に行った時には、私はいつも学食でこのぶっかけ飯を食べる。あまりにも食べ過ぎて、さすがにもう飽きてしまって、ある晩学食にすし屋ができた夢を見た。
学食に行くと、すし屋のカウンターがあって、板前が「ここのすしは、築地から魚を直送してるから新鮮ですよ」と、笑顔で迎えてくれた。目覚めた時の虚しさは、未だに忘れられない。
前章で牛の血のそば、ナムトックのことを書いたが、タイそばの店もよく行く。
麺はバーミー(小麦の麺)……いわゆるタイラーメンと、クイッティエオ(米の麺)……日本で言うところのビーフンがあり、クイッティエオは太さなどに応じて何種類かある。ちなみにナムトックは、センミーという極細のクイッティエオで作る。
クイッティエオはご飯を食べているのと同じだから、かなりあっさりしていてうまい! 野菜や肉団子などの具がたっぷり入り、辛さや甘さは自分で調節できる。
私は、朝はたいてい麺類ですます。そして、昼はぶっかけ飯が多い。
(私の行きつけのそば屋・露天)
(バーミー・味調整中)
もちろんいくら好きでも、タイ料理ばかり食べ続けていたらいやになる。そこは大都市バンコク、ここには色々な国の様々なタイプの料理がある。安くて味もよく、私はそれをローテーションで繰り返して食べている。
中華街に行けば、本物の中華料理を食べられるし、ラーメン亭とかへ行けば、レバニラ炒めなどの和風中華料理もある。たまにはイタリア料理やフランス料理を食べに行ったり……もちろんローカルなタイ料理よりは高いけれど、日本と比べればずっと安い。
例えば知人が来たら必ず連れて行く、絶品イタリアンで、ピザとパスタ、ビールにワインまでたのんでも、一人四百バーツ(千二百円)ほど。ちょっと高級なフレンチでさえ、五、六百バーツで飲み食いできる。
和食に関しては様々なレベルがあるが、普段行く店だとかかっても二百バーツ。それで天ぷらセットとか、メンチカツセットなどが食べられる。もちろん米は日本米で、味もいける。
定食屋のチェーン店で、大戸屋という店がある。そう、日本ではおなじみのあの大戸屋だ。正直な話、日本では積極的に行きたいとは思わない。ところが、タイの大戸屋はうまい! 日本の店とはメニューが全然違う。高級志向なのだ。
どういうわけか、タイでは大戸屋のチェーン店がすごい勢いで増えている。タイ人も大好きで、客はタイ人の方が多い。アッパーミドル系のタイ人が、入れ代わり立ち代わり来店して、ホッケ定食とかを食べている。
昔はタイ系列のフジレストランという店に行っていたけれど、今では本物の日本料理レストランがどんどんできているから、もう行く必要がない。
日本のラーメンはタイにもすっかり定着して、バンコクには桂花ラーメン、長崎ちゃんぽんなど、日本の有名ラーメン店がずいぶんできた。ただ、味は日本の方がうまい気がする。
私の友達にも、ラーメン屋をやっているのがいる。ラーメンのレベルは、昔と比べて格段に上がった。
ちょっと前には、『スクムビット通りラーメン戦争』などという特集記事がローカル新聞に載るぐらい、日本のラーメンがブームになった。
タイでは仏教のある祝祭日に、有名な九つのお寺をお参りするとご利益があると言われていて、たくさんの人が実践している。仏教では、九は縁起のいい数字なのだ。それにあやかって、あるタイの雑誌で、一日で九軒のラーメン屋を回ろうという、ラーメンツアー・キャンペーンをやったら、大いに盛り上がった。
私も、記事で紹介されていた店を何軒か回った。まぁ、こういったブームのおかげで、私はすごく助かっている。
水に関しては、生水は絶対飲まず、ミネラルーウォーターを常飲している。水道水も飲まない。最も、飲もうとしたってまずくて飲めないが……。
生野菜よりは温野菜。サラダは、危なくないことを信じて口に入れる。
考えてみれば私の食生活は、日本にいた時よりこっちの方が充実している気がする。
タクシン
なぜ、タイで今回の騒動が起こったのか、そもそも赤シャツとはいったい何なのか、すべての鍵をタクシンという男が握っている。したがって、タクシンのことを知れば、騒動の背景も自ずと見えてくるはずである。
ここで、タクシンについて解説しよう。
アジアでは、華僑が政治経済の中枢を牛耳っている国がほとんどで、タイも例外ではない。
みなさんもタイ人と聞けば、民族的に特長のある顔を思い浮かべるだろう。タイの街中を歩けば、見かける顔はほとんどそのタイ族系の人たちだ。
ところが、例えば一歩国立大学の構内に足を踏み入れたら、ここは中華大学なのではないかと首を傾げるかもしれない。
大学だけではない、芸能界、経済界、政界など国の中枢部では、どっちを向いても中華系の顔ばかり目に付く。この国は、人口比わずか数パーセントの華僑の人たちによって動かされているのだ。なにしろ現在の王族さえも、華僑の末裔なのである。
タクシンのことを理解するには、まず客家のことを知らなければ始まらない。
客家とは、中国南部出身の華僑の一大勢力で、全華僑の三分の一を占めると言われている。
中国における客家人は、独特の文化と言語を持っていて、漢民族の中でも少数派であるため、排他的で同族でまとまって暮らしている。教養があり、教職や商売を生業とすることが多く、よくアジアのユダヤ人と例えられる。
タクシンの母親は客家系中国人、父親は客家系中国人三世。タイ生まれでありながら、正確なタイ語の発音ができず、客家なまりで話すタクシンは、タイ人から見れば、筋金入りの客家なのだ。
タクシン・チナワット。1949年、7月26日生まれ。
チナワット一族は、シルクの取引で財を成した客家系華僑の名家で、タクシンは警察官僚から実業家に転進して大成功を収めた。自ら興した携帯電話会社で得た巨万の富を元手に、政界に進出したのである。
タクシンには二つの顔がある。貧困者の味方という顔と、独裁者の顔だ。それは、そのまま功罪となって表れている。
まず功の部分から話そう。タクシンはそれまで権力者が見向きもしなかった農村部に、初めて光を当てた。タクシンほど農村部に金を落とした政治家はかつていなかった。これによって、特にタイ東北部や北部の農民から絶大な支持を得た。
また都市部の、タクシーやトクトクの運転手などの、低所得者層からも慕われている。商売の儲けをピンハネするマフィアを取り締まり、タクシー購入の援助もしたからだ。マフィアは警察や軍とつながりがあり、それまでは誰も手を出せなかった。
そして麻薬の取り締まり。タクシンは、警察、軍隊まで投入して麻薬撲滅作戦を実行し、麻薬組織に大打撃を与えた。この政策は、タイから流入する麻薬に悩まされていたアメリカからも評価された。
次に、罪の部分を話そう。
麻薬取り締まりの強行は、一方で数多くの無実の人々が投獄されたり、殺されたりしたにも関わらず、組織の大物幹部は無罪放免にされたりして、人権侵害だと国際的な非難を浴びた。
選挙では、徹底的に金をばら撒いて当選した。タイでは、票は金で買うものというのがそれまでも常識だったが、タクシンは当時タイ一の富豪と言われた自身の莫大な資産をつぎ込んで、買収組織まで作り、農村部の票を買いあさった。
そして買収したのは有権者だけではない、政党から議員へ支給される、政治資金名義の賄賂も見逃せない。タクシンから支払われる政治資金は、タクシン批判が高まるたびに倍増された。
通常、政党は企業からの献金で成り立っている。ところが、タクシンは自身が潤沢な資金提供者であるため、政党から金が流れ出るという逆転現象が起こった。当然ながら、金をもらう側よりもあげる側の方が立場が上であり、それが結果となって表れた。
2001年の総選挙で歴史的勝利をして、首相に就任したタクシンの人気にさらに火をつけたのが、選挙公約の実施だった。
タイでも、立候補者は有権者に、聞こえのいい大盤振る舞いの公約をぶち上げる。しかし、公約は実行されたためしがない。公約とは、有口無行なものなのだと国民の誰もがあきらめていた。ところがタクシンは実行したので、国民は良い意味で驚いた。
タクシンが就任後に実行した政策の、主なものを挙げると……。
貧困者の徳政令。
農民への低利融資制度。
一回の通院費用が30バーツの医療制度や、健康保険の整備。
百万バーツ村落基金。
百万頭の牛のプロジェクト。
パソコンを公立学校に配備。
風俗店の深夜営業禁止。
麻薬取り締まり強化。
そしてタクシノミックスと呼ばれた公的資金大量投入の経済政策。
そのほとんどが、ばら撒き政策そのものだったが、世界的な好景気の波にも乗り、当時のタイ経済は順風満帆で、タクシンの支持率は急騰した。
もちろんばら撒き政策は、将来へつけを回すことであり、莫大な借金をして遊興にふけっているのと同じことだ。しかしタクシンは、赤字の拡大を巧妙に隠し、国民から見えにくくした。
そしてこの人気に乗じて、タクシンの暴走が始まった。
自身と一族への利益誘導……タクシンには、つねに不正献金や所得隠しの疑惑がつきまとった。
公務員の給料を上げてのご機嫌取り……タクシンが金やポストをばら撒いて手なずけたのは、政界だけではなかった。警察、軍、司法の人脈にまで影響力を拡大していった。
さらに通信、マスコミ関係の会社を支配下におくことにより、強力なマスコミ統制を布いた。また憲法を改正して、首相が非常事態宣言などの強権を発動できるようにしたことも、内外のマスコミやジャーナリストから非難された。
やがて、タクシンの人気にもかげりが見え始める。
最大の原因は、富と権力がタクシンに一極集中したことによってもたらされたひずみである。それまで華僑の間で分配されてきた権力と利潤が、たった一人の権力者の手に握られることによって、既得権益者との間に当然ながら軋轢が生じた。
またインテリ層は、タクシンの強権政治によって、三権分立まで脅かされつつあることに危機感を抱いた。
したがって反対派は、裕福な市民や、知識階級の人々が中心となった。
タクシン凋落の最初の兆候は、欠陥法案を作って国王から叱責されたことだった。これは単純なミスが原因だったのだが、国王が国会で可決された法案に署名しなかったのは、タイの憲法史上初めてのことだったという。この事態にタクシンは激怒して、記者会見も拒否した。
タイの正式名称がタイ王国であることからもわかるように、タイ国王は今でも特別な権限を持っている。しかし、現在の国王はその特権を悪用せず、クーデターを起こした将軍をたしなめるなど、むしろ悪政を正す形で行使してきた。そのため、国王は国民から絶大な信頼と尊敬を得ている。日本で言えば、水戸黄門のような存在だ。
タクシンは、国王を軽視していると批判されるようになった。実際、独裁体制を布こうとしていたタクシンは、民主化の推進を口実に、国王の政治介入を封じようと画策していた節がある。特に国王の懐刀と言われる、ブレム元首相との激しい確執は自明の理であった。
国民に慕われている国王との対立は、反対派につけ入る隙を与えることになった。故に反対派は、王様のシンボルカラーである黄色のシャツを着て、自分たちは国王の臣民だとアピールするようになったのである。
そして、ついにタクシンは致命的な失策を犯した。
2006年1月、自ら興した携帯電話会社の株をシンガポールの政府系投資会社に売り渡し、730億バーツ(約2200億円)という、莫大な売却益を得た。
タイでは株の売買に税金がかからない。相続税もないので、タクシンは税金をほとんど払わずに、一族に名義変更までして売却した。
しかし、タイにはタンブン(布施)という慣習があり、持てる者は寄付や施しをすることによって、仏教に帰依し、面目を保つことができる。ところがタクシンは、莫大な収入があったにもかかわらず、それに見合うタンブンをしなかった。
何よりも問題となったのが、売り渡した会社が国家の安全にまで関わる通信事業の会社であり、しかも売った先が、タクシンと同じ客家が国を牛耳っている国、シンガポールだった点だ。
反タクシン派は、タクシンは国を売り渡したと非難した。
華僑が権力と富を独占する国……国民から慕われる国王さえも、実は客家の末裔である国タイ。それでも、現在に至るまで民族対立が起こらなかったのはなぜか?
それは、タイには暗黙の了解、不文律のようなものがあったからだ。例え出自が華僑であっても、彼らは純然たるタイ人であった。どんなに私利私欲に走っても、祖国だけは絶対に裏切らない。タイに愛国心と忠誠心を持っている。最低条件として、それさえクリアしていればすべて大目に見よう。
ところが、客家なまりで話すこの四角面の男は、金のためなら、平気でタイを売り渡すだろう。そう確信した時、反タクシン派の焦りは恐怖にまで高まった。どんな手段を使っても、タクシンを権力の座から引きずりおろさなければならないと……。
彼らはPAD『民主主義のための国民連合』という団体を組織して、反政府運動を展開した。PAD参加者の多くが、黄色いシャツを着たので、通称『黄シャツ』と呼ばれている。
黄色いシャツの起源について補足しておくと、タイでは曜日ごとにシンボルカラーが決まっていて、月曜日は黄色となっている。今の王様は月曜日に生まれたので、市民の間で月曜日に黄色いシャツを着て、王様に敬意を表すことがブームとなった。
一時は、月曜日になると街が黄色で埋め尽くされるほど大流行したが、PADが着るようになってからは、黄色いシャツを着ていると赤シャツから狙われるので、PADのメンバー以外は着なくなっている。
ちなみに、タイの王室を象徴する色はピンクなので、黄色は現国王に限ったシンボルカラーということになる。
クーデターの噂が広がる中、2006年8月、タクシン暗殺未遂事件が起こった。首相宅近くで、大量の爆弾を積んだ車が発見され、運転していた軍の士官が逮捕されたのだ。
翌月、危機を察したタクシンは外遊を名目に、持てるだけ金を持って国外に逃れた。その留守中、クーデターが起こった。
国外に逃れ、亡命者となったタクシンも、そのまま黙ってはいなかった。
国外から選挙を支援して、傀儡政権を誕生させることに成功した。そして凱旋を果たしたのもつかの間、汚職で実刑判決が出る寸前に、わずか五ヶ月ほどタイに滞在しただけで、2008年7月、タクシンは再び国外に逃れた。
いくら反タクシン派が結集しても、有権者の数では農村部に遠く及ばない。そして農村部では、相変わらずタクシンはヒーローとして祭り上げられている。数が物を言う選挙では、タクシン派に絶対勝てない。そう悟った黄シャツは、ついに非合法手段に出た。
黄シャツは、メンバーを大動員して、首相官邸や空港を占拠し、座り込みを開始した。空港が使えなくなった影響で、タイは莫大な経済損失を被ったが、結局黄シャツは逮捕者を出すことなく勝利を得た。反タクシンの民主党が、政権を掌握したのである。
こうして正当な選挙ではなくて、非合法な手段で現政権は誕生した。そしてこの時の黄シャツの反政府運動が、赤シャツの暴挙につながる悪しき前例となった。政府を転覆させるためには、何をしてもかまわないのだ。どんな非合法なことをしても、反対派が勝利さえすれば、罪に問われることはないと……!
一方タクシンは、黄シャツに対抗して、UDD(反独裁民主戦線)を組織した。UDDは、国家と国民の団結を象徴する、タイ国旗の赤をイメージカラーにして、メンバーが赤いシャツを着るようになったので、通称『赤シャツ』と呼ばれている。
しかし、本当にそうだろうか? 赤いシャツを着て、赤旗を振るのは、それだけが理由なのだろうか?
タクシンの背後には、常に紅い国の存在がちらついている。実際タクシンは、他のどの国よりも訪中を重視していた。
タクシンには、共産主義思想の側近が多いから、国王をないがしろにしたのだということもよく言われてきた。タクシン政権の政策を見ても、それは色濃く表れている。
赤シャツが中国から買った装甲車を走らせていたこと、さらに黒服が軍並みの重火器を備えていて、タイ軍が使用している米国製自動小銃M16だけではなく、旧ソ連で開発されたAK47を使用していたことも、裏で紅い国が支援しているのではないかという根拠になった。
日本にいると実感がわかないが、大陸で暮らす人々にとって、共産党の大国の存在は身近な脅威なのだ。いつ傀儡政権に取って代わられて、国の主権が侵されてもおかしくない。それは現実的な恐怖であり、華僑の中にも中共アレルギーの人は多い。むしろ華僑であるが故に、母国を過小評価しないのである。
四月十日に、あれだけの犠牲者を出しながら、現政権に対する批判が日本人には理解できないほど少なかった。その背景の一つとして、この根深い中共アレルギーがあげられる。
2010年、四月十日の衝突が起こった直接のきっかけは、二月二十六日に遡る。この日最高裁は、タクシンが国内に残した資産、766億バーツのうち、464億バーツを不正蓄財と認め、没収するという判決を下した。
莫大な資産が国庫へ没収されるのを黙って見過ごすわけにはいかない。そこでタクシンは、大金を投じてでも、これを阻止しようと決断した。
タクシンは大金をばら撒いて人を集め、UDDに大規模デモを実施させた。赤シャツ一人頭、日当五百バーツ支払ったと言われている。
貧しい農民たちにとって、きつい農作業をやるよりも、都会へ行って、働かずにお祭り騒ぎで盛り上がって、日当まで貰えるというのは、断る理由が見当たらないお誘いだった。しかも、三度の食事までただで支給されるのだ。
もちろん、彼らは紛れもなくタクシン支持者ではあったが、赤シャツの多くが、そうやって集められた素朴な農民たちだと見られている。
追放された独裁者が、私欲のために扇動したデモ隊が、非合法な手段で成立した現政権に、解散総選挙を要求して行った抗議活動……というのが、今回の赤シャツ騒動のそもそもの発端だったのである。