第33話
ペルニット街から大きく離れた、東側上空。
一羽の巨大な紅鳥が、その大きな身の上に一人の女を乗せて、夜空を我がものとしていた。
「あーあ、レオ死んじゃったな……」
仮面を付けた女――トリニティ・バウマンは、スティレオの死を見届けた後に【互酬匣】を回収すると、使い魔である魔物を招喚し、その場を後にしていた。
ギルドから命じられた〈冒極〉から魔匠連番の奪取という依頼。それを失敗してしまったからには、いかに幹部といえど相応のお咎めはあるだろう。それに、20年連れ添った親愛なる部下も亡くしてしまった。
失意の底に沈む状況であるにも関わらず、トリニティの声は抑揚に富んでいた。
「ま、いっか! 【互酬匣】の真価も知れたし、ペルニット街も半壊させた――十分でしょぉ」
怪鳥の上で寝そべりながら、【互酬匣】を眺める仮面の奥は、悲しみや失意とは無縁だった。
スティレオを助けにきた形ではあるが、実際のところ魔匠連番を失うリスクを考慮してのことだ。スティレオとディライトの最終局面を覗いていたトリニティだが、部下の死に際に救いの手を差し伸べようと思うことはなかった。
情はあるが、執着はない――その冷酷さが、〈えいこく〉内でトリニティが幹部にまでのし上がった理由だ。
「次はどうしようっかな」
幹部といえど、序列はある。
少しでも組織の上にいくために、次の作戦を考えていた――その時。
紅い軌跡が、空を駆けた。
「なッ――」
天空へと駆け抜けた軌跡が、更に夜空を悠々と流れる雲を切り裂く。それが地表から放たれた斬撃であると認識した時には、既に怪鳥の巨躯は真っ二つに裂けていた。
翼を失った鳥が空を自由に飛べるはずもなく、トリニティの身体は浮遊感に見舞われていく。
「なんっだよ、もうっ」
スティレオの死に際で使用した魔物は使えない。空中に出せはするが、厳密には宙を浮いているわけではない。
空を飛べる魔物は、今の斬撃でその生命を絶たれた。こちらも同様に使用不可である。
そうなってくると、地表の物体が豆粒ほどに見える高さからの落下に耐える術は、トリニティにはそう多く残されていない。
助かる方法を思索する最中でも、地に衝突する距離は刻一刻と近付いている。
「ふぅ……」
暗闇の中でも、緑や河川が鮮明に見えてきた時、トリニティは溜息を吐いた。決意の込められた溜息を。
頭上で、赫々とした身躯を持つ避役を召喚する。すぐさま重力に巨体が支配されるが、ただ落下するだけの供を呼んだわけではない。
尻尾でトリニティの身体に尻尾を巻き付け、柔軟な駆体を起用に丸め込んで召喚主を包み込み、紅い球体を形成する。
避役が相応の硬度を誇るとはいえ、それでも落下速度が衰えることのない現状で、このまま地に叩きつけられれば無事では済まない。
だから、もう一体――赤き大亀を、球体の更に下へと召喚した。
魔力が充填されていく口先が、球体へと向けられる。
『Deeeッ――』
放たれた破壊の奔流が、球体へと衝突する。
トリニティひいては避役を狙った魔法攻撃だ。威力は多少抑え気味であるとはいえ、放たれ続ける破壊の波に、避役の外皮がみるみると削られていく。
だが、その甲斐あってか、落下速度は十分に減速した。
衝突寸前、大亀は粒子となって消え、焦げ付いた球体が、流れている河川へとけたたましい水柱をあげて落下した。
その光景を、近場にある大岩に立って眺める者がいた。
「あの高さを無傷とは、お主相当じゃの」
「……」
避役の召喚を解除し、大亀の甲羅に立って水面へと浮上したトリニティへと、嗄れた声が投げ掛けられた。
剣と盾の紋章が入ったローブを身にまとい、蓄えられた威厳のある白い髭――〈冒極〉ギルド長であるバンギッシュ・テルヲが、その鋭い眼光を光らせていた。
水柱によって辺り一体へと小雨が降りしきる中、テルヲの周囲だけ蒸発し、年季の入ったその衣装が濡れることを拒んでいる。
全身ずぶ濡れとなったトリニティの、仮面の奥から覗く双眸が、老人が持つ大剣を捉えた。
まるで溶岩のように膨大な熱量が刀身を奔り、自然そのものを具現化したかのような赤熱した刃。
「【熔峰ノ大剣】――100年間溶岩に漬け込んだ熔神鋼製の魔剣じゃ。儂も相当じゃろ?」
「……帰る途中だったんだけど」
刀身だけでも自身の体躯と相当である【熔峰ノ大剣】を片手で持ち上げ、テルヲは握った柄を肩に担ぐ。
ぼやくトリニティではあるが、魔剣に秘められた荒々しい魔力が膨大で途方もないことを知覚している。天ごと魔物を切り裂いた斬撃が、老人の技量だけでなく、魔剣の特性ゆえであることは言わずもがなだ。
「若者が先に帰路についてどうする。土産の一つも置いていかんかい」
「ありゃ……ばれてる」
「儂も視とったからの」
左耳に掛けた片眼鏡を、テルヲは人差し指でつついた。
遠方を覗ける魔道具で、ペルニット街の結末は既に知っている。
ディライトたちがどう勝利を掴み、トリニティが横からそれを掠め取り、そして――ケインの行く末でさえも。
だからこそ、空の経路から離脱を図ったトリニティよりも、テルヲは先回りすることができたのだ。
「言っとくけど、何も渡すものは――」
「――おぅ」
がらりと、老人の纏う雰囲気が変わった。
怒り――というよりは竦み上がるほどの殺意が、トリニティに向けられる。
「やるけ? 若ぇの」
殺気を帯びた魔力が、空気を伝って仮面越しにビリビリと伝わってくる。
揶揄でも何でも無く、生命の危機――防衛本能に突き動かされるがまま、トリニティは自身の魔術を解放した。
背後、上空に顕現した深紅の巨腕が、扉をこじ開けるかのように大気を掴む。
罅割れた狭間から、縦に大きく見開かれた瞳が辺りを睥睨する。
「……老いぼれの腕二本や三本、ボクは落とせるけど?」
「フォフォ、血気血気。じゃがーー」
片眼鏡を外したテルオの視線が、トリニティを射抜く。
「ーーお前さんは生命を落とすぞ?」
「……ッ」
戦えば、お前は死ぬ――告げられた死の宣告に、トリニティは息を呑む。
殺気に充てられているのを加味しても、如何ともしがたい実力差があると認識しているからこそ、トリニティは気圧されているのだ。
相手は、あのランク5。勝てる想像が、つかない。
嫌な汗が、仮面の奥で伝っていく。
「見逃してくれるっていう、老婆心はない感じ?」
「お主次第じゃな。儂も要らん傷は負いたくないからの」
実力で劣ることがないとはいえ、テルヲの目から見ても、空中に出現した正体不明の魔物は相当だ。矛を交えて、負けることがないにせよ、何かしらの負傷を受ける可能性は否めない。
「……はぁ」
服のポケットに突っ込んだ手を、トリニティは弄ぶ。中にある物体を掴んでは離し、惜しむように様々な角度へと転がしていく。
敗北が必至であるならば、取れる選択肢は一つしか残されていない。
今度こそ失意に耽った吐息が、トリニティの口から漏れいでた。




