第30話
手にした【互酬匣】は、宝箱の形状をしていながら、不気味な意匠に満ちていた。
蓋と台座の両方から伸びるのは、人の手を模した彫刻。掴み合うように組まれたその造形は、まるで生きた手が獲物を求めて蠢いているかのようで、見る者に不快なざわめきを残す。
その箱を抱えながら、ディライトの胸を埋めていたのは、圧倒的な悲しみと悔恨――そして、ほんの達成感。
ケインを討った痛みがまだ消えぬ中、ようやく依頼達成の道を一歩進めたという実感が、皮肉にも彼を締めつける。
だが、感情に沈む暇はない。
「……ごめん」
呟きとともに、ディライトは二階に残された魔法生物たちへと歩みを進めた。
拳に魔力を纏わせ、次々と命を潰えさせていく。
そのたびに血肉が砕け、呻きが途絶える。人ではなくなった存在であれ、確かに彼らも「生きて」いた。
目を逸らしたい衝動を噛み殺し、ディライトはその責を一つひとつ己に刻むように拳を振るった。
時間をかけ、最後の一体を沈めたとき、重苦しい静寂が訪れる。
荒い息を整えながら一階を見下ろすと――そこに、スティレオの姿はなかった。
致命の一撃を加えたのは確かだ。
あの傷では、到底動けるはずがない。
訝しみつつ飛び降り、視線を巡らせたディライトの眼に映ったのは――祭壇にもたれかかるスティレオの姿だった。
「【回復の小瓶】か」
「……詰めが――甘いな。ディライ、ト……ノヴァライトッ」
「凄まじい執念だね。そこは認めるよ」
スティレオの手に残っていたのは、砕けた小瓶の欠片。
トリニティから授けられていたものだ。並の治癒薬ではあり得ない、相当高位の品。
すでに大穴の穿たれたはずの腹は塞がり、肉体はほぼ完全に再生している。
だが――消えたのは傷だけであり、痛みそのものが去ったわけではなかった。
腹部を押さえた指先は白く震え、呼吸は掠れ、今にも途切れそうだ。
瀕死に追いやった獲物が、薬で一時的に持ち直したところで何になる。
ディライトは静かに歩み寄り、冷ややかに言葉を落とす。
「回復されたところで、また叩き伏せるだけさ。今度は確実に、な」
死神の鎌が再び振り下ろされようとしている――そんな状況にありながら、スティレオの表情には奇妙な影が差していた。
苦悶の色と並んで、どこか「余裕」を感じさせるもの。
「執念、か……魔術を得た者たちは、生への執着が常人の何倍も強いのだろうな」
「何?」
「貴様の持つ固有魔術――あれは、脳が死を濃密に、克明に描き出したときに芽吹くものだろう」
「……まさか――」
固有魔術――それは臨死の瞬間、脳が「死」という絶対の結末を想像し、抗おうとした際に発言する力だ。
代償として、基礎的な魔力強化術を除けば通常の魔法は一切扱えなくなる。だが、その制約を補ってなお余りあるほどに、固有魔術は強大だ。
現に、ディライト自身の力がその証明である。
――そして今、スティレオは確かに死の淵を踏み、再び生へと戻った。
それはすなわち、固有魔術を得るに足る条件を満たしたことに他ならない。
唐突に「固有魔術」に言及したスティレオを前に、ディライトは一瞬で結論を導き出す。
(……奴は、今この瞬間、魔術を手に入れたのか)
だが、その推測は幸か不幸か違っていた。
「安心しろ……魔術は手に入らなかった、残念なことにな」
そこで言葉を切り、苦痛に震える口元に、薄く不気味な笑みを刻んだ。
「――だがな」
スティレオが徐に右手を見つめる。
広げた掌を、ゆっくりと――確かめるように握りしめる。
その所作は、まさしく何かを掴み取った者の仕草だった。
ディライトの警戒心が、最高潮にまで張り詰める。
そしてスティレオは、苦痛を押し殺すような声で、それでも誇らしげに、高らかに告げた。
「掴んだぞ……! 死の淵で、この感覚を! 【互酬匣】の真価――生み出す魔道具にではなく、本体にこそ宿っていたのだと、今ならはっきり分かる!」
「ッ!」
宣言の瞬間、ディライトの懐に仕舞っていた【互酬匣】が、不気味な振動を始めた。
慌てて取り出した刹那、それはまるで意志を持つかのようにディライトの掌を離れ、空を裂いてスティレオの元へと飛んでいく。
落下の衝撃と共にスティレオの足元に転がった【互酬匣】は、ガチリと音を立てて自ずから蓋を開いた。
その内部からは、禍々しい黒光があふれ出し、周囲の空気を軋ませていく――。
「――違うだろう」
蓋を閉じたスティレオは、狂気にも似た眼差しを宿しながら【互酬匣】を掴む。
「私がッ――私自身が取り込むのだッ‼︎」
次の瞬間、その禍々しい宝箱を躊躇いもなく、自らの口へとねじ込んだ。
金属の軋む音と、骨が割れるような鈍い響きが広間に反響する。
常人なら到底成し得ぬ暴挙――だが、スティレオの喉奥へ、確かに【互酬匣】は沈み込んでいった。
【互酬匣】を喰らったスティレオの身体が、痙攣するように大きく仰け反った。
全身が弓なりに反り返り、暴れ狂う四肢が床を叩き割る。
やがて力尽きたかのように、ピクリとも動かなくなった。
だが――死んだわけではない。
その肉体の奥底で、嵐のごとき魔力の渦が荒れ狂っているのを、ディライトは確かに感じ取っていた。
それは、まだスティレオの生命が消え去っていないことを告げる、異様な脈動だった。
死んだように動きを見せなくなったスティレオの肉体から、じわりと黒い液体が滲み出していく。
それは血でも汗でもない。ねっとりとした闇そのものが、彼の皮膚の隙間から溢れ出し、床に落ちては蠢き、やがて全身を這い上がる。
瞬く間に、黒は繭のようにスティレオの身体を覆い尽くした。
繭の内部で、スティレオの意識は鮮明に燃え続けていた。
(……貴様に勝つための魔法生物へと、私は進化する。私が描く“最強”は、もしかすれば貴様には通じぬかもしれない――)
スティレオが脳裏に描いた“最強”の姿は、仮面をつけた上司の影だ。
だが、それを模したところで――ディライトに敗北する可能性は、まだ残っている。
ゆえに、スティレオは思考を転じる。
飲み込んだ【互酬匣】から、確かに伝わってくる。【互酬匣】に触れたディライトの思念が――〈巨人殺し〉と呼ばれるランク4の実力者が、心に描いた“最強”の像が。
(ならば――貴様の中の“最強”を利用するまで! 貴様自身が描いた“最強”ならば、必ず貴様を打ち倒す!)
その刹那、黒い繭が大きく脈打った。
内側から暴れ狂う力に押し広げられ、表面に罅が走る。
どろりとした液体が溢れ出し、隙間からは不吉な光が漏れ出している。
膨張の極限に達した繭は、ついに――轟音と共に弾け飛んだ。
『サイィィ――キョォォウゥゥゥノォォォォ……トォォジョォォオオオ゛オオオ゛ダア"ァ"ア"ァ"アアアアアアッ‼︎』
黒い液体の繭を破り、姿を現したスティレオは、もはや人の面影を完全に失っていた。
その体を支えるのは、闇そのものを凝縮したかのような黒の骨格。鋭角的に組み合わされた外殻は禍々しく輝き、見る者に生理的嫌悪を植え付ける。
そして、肩から背にかけて伸びたのは7本の腕。節ごとに軋みをあげながら展開され、まるで蜘蛛か、あるいは地獄の偶像のように広がっていく。
その異形の手に握られていたのは、7本の剣――いずれも濃密な魔力を纏い、刃からは絶え間なく光の亀裂が走っていた。剣身の煌めきは稲妻のように周囲を照らし、刃先を振るうたびに空間そのものが軋む。
7本の魔剣が交錯する光景は、まさしく絶望の具現。黒の骨格と7つの腕を備えたその存在は、もはや破壊の権化であった。
魔剣を携えた異形の姿を前にして、ディライトの眼が微かに揺れる。
7本の剣。姿形はまるで別物でありながら、その戦い方にだけは見覚えがあった。
複数の剣を自在に操り、刃の雨を降らせる――その技を体現できる者は、ただ1人しか知らない。
師――アリアス・ヴァロニア。
かつて絶対の背を追い、幾度もその剣を目にた――最強の存在が、今まさに、異形へと変じたスティレオの姿に重なっていた。
胸奥を鋭く抉る既視感に、ディライトの警戒心は極限へと跳ね上がる。
――この敵はただの怪物ではない。師の残滓を宿した、悪夢そのものだ。
「――チッ、どういう理屈だよ……!」
ディライトが毒づいたその瞬間、スティレオは醜悪に嗤い、7つの魔剣を寄せ集める。
圧縮された刃は、まるで死神の大鎌のように禍々しく輝き、振りかぶられた。
奔流のごとき斬撃が、空間毎叩き斬りながら襲いかかる。
迫りくる死の刃を前に、ディライトの瞳が大きく見開かれた。




