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第270話 和宮降嫁(二)

その日、勝海舟は将軍家小姓頭、那須小太郎の訪問を受けた。

同日、勝は内密に将軍・家茂のもとを訪ねた。

通されたのは江戸城内、離れにある小さな小部屋であった。

小太郎の口上によれば、上様は政策についての講義を所望とのことだったが、その真意は測りかねる。


(あの時、春と共に小春日和の縁側に座り、梅を眺めながら膳を囲んでいた男……)

春に「徳山源之助」と名乗ったあの男。

恐らく、間違いなく家茂その人であろう。

この若き将軍がどのような人物であるかは、いまだ幕閣の間でもほとんど知られていなかった。

その彼がなぜ、あのような場所にいたのか。

春に聞いても埒が明かない。

彼女はあの男を、紀州から流れてきた浪人者だと思い込んでいた。


ただ一つ分かったのは、源之助という男を、春が憎からず思っているということだけだった。

勝にしても、これ以上の皮肉は見たことがない。

その想い人のもとへ、和宮の身代わりとして春は嫁いでいくのだから。


小部屋に入ると、勝は平伏した。

「小太郎、すまぬが誰も近づかぬよう計らってもらえるか」

「御意のままに……」

小太郎が座を辞すと、家茂が口を開いた。

「面を上げよ。儀礼は不要じゃ」

「しからば、御免」

正面から見る家茂の顔は、なるほど凛々しい若武者のそれであった。

春が心を寄せるのも無理はない。

だが、彼の方が春をどう見ているのかは定かではなかった。

いずれ、嫁いできた和宮が春であることには気づくはずだが。


「和宮親王殿下が嫁いでこられる」

「左様にございますな。誠におめでたきことに存じます」

「勝先生、無礼講と申したはず。この若輩者に、腹を割って教えていただきたい。なにとぞお願いいたす」

「……そこまで仰るなら、ざっくばらんにいきましょう」

「ありがたい」

「で、おいらに話ってのはなんですかい? その前に、一つ伺ってもよろしゅうござんすか」

「構いません。なんなりと」

「上様。徳山源之助と名乗られたあの男は、あんたじゃございやせんか?」


家茂は一瞬、苦笑を浮かべた。

「やはり、お気づきでしたか。恥ずかしながらそれがしでございました。大変な迷惑をかけいたしましたな」

「いや、そうじゃねえんだ。おいら、あんたと春にすまねえことをしたと、そればかりが気になっちまって」

「それは一体?」

「遠目に見ても仲睦まじい若夫婦に見えたもんで。そいつをおいらときたら、いい匂いにつられてフラフラっと割り込んじまった。野暮もいいところだ。邪魔しちまって、本当にすまねぇ」

勝が再び深々と頭を下げる。

「勝先生、頭をお上げください。あのような場にいた私のほうが悪いのです。それに……」

家茂は言葉を濁したが、その表情にはどこか穏やかな光が宿っていた。

「その時のことは、誰にも漏らすつもりはありませんのでご安心を」


値踏みをするつもりはなかったが、目の前の若者が素直で、かつ知的な人物であることは即座に理解できた。

どうやら口封じの類ではなさそうだ。

「それで勝先生、今日お越しいただいたのは、少々聞いてもらいたいことがあるのです」

「ほう、それは一体?」

「今後のことです」

「どのような?」

「戯言としてお聞きください。勝先生はアメリカへ行かれたことがあると伺いました」

「咸臨丸のときですな。海の旅はひでえもんでしたが、アメリカ人は極めて友好的でございました」

「そうですか。それで……つかぬことを伺いますが、今、イギリスの国情についてご存知のことがあれば教えていただきたい。特に『立憲君主制』について詳しく」


「それは一体……単なる興味からで?」

「それは……」

しばしの沈黙の後、家茂は決然と語り始めた。

「このことは、絶対に他へ漏らさないでいただきたい。私は、このような夢物語を口にすべきではないのかもしれない。ですが、話をできる御仁があなた以外に思いつかないのです」

家茂は一冊の書物を懐から取り出した。見覚えのあるものだった。

「それは……」

「勝先生、これをご存知ですね」

それはかつてオリバーが、日本への見解と欧州情勢、そして日本が近代国家として歩むべき道筋を記し、勝に手渡した意見書だった。

勝が木版に写し、密かに流布させたものである。


「上様、これをどこで?」

「ある女性からいただいたものだ」

春の手元にあったものに違いない。

次に家茂が口にした言葉に、勝は瞠目した。

和宮降嫁による公武合体の、その先にある道筋。

家茂は将軍職を退き、一橋慶喜へ譲位するというのだ。


朝廷と諮って「大政奉還」への道筋をつけ、家茂は退位、慶喜が将軍位を継承。

その上で大政奉還を実行し、慶喜主導の臨時政府を開始する。

期限は新憲法の制定まで……。

「そして、これが私の考えた閣僚名簿である。そちの意見を聞かせてもらえまいか」

「こ、これは……」

勝はその名簿を食い入るように見つめた。

(理にかなっている……!)

一橋派と南紀派を融和させた上でこれを示せば、倒幕勢力はその大義名分を失い、瓦解するだろう。

「どうですか?」

この若い将軍の頭脳には、予想を遥かに超える知性が詰まっていた。

「一橋卿のご意向は?」

「無闇に人に言えるものではなかろう。そこを、そなたの力でなんとかならないか」


(おいおい、とてつもない札を引き当てちまったようだぜ)

勝は口元を歪めて笑った。

「上様、一つ良いことをお教えいたしましょう。京のみかどのご本心は、攘夷ではございません。『開国』でございます。それと……」

言葉を切って考え込む勝を、家茂の鋭い眼光が射抜く。

「ご降嫁なされる和宮親王殿下にお話しなさいませ。殿下こそが、何よりの御味方となってくださるでしょう」


勝の明晰な頭脳が、目まぐるしく回転を始める。

岩倉が提出した奏上書により、主上おかみの開国への御意は得られていると考えていい。

次は一橋慶喜だが、彼は帝の意向には従順だ。

岩倉と松平春嶽の協力を得られれば……。

(これはいける。面白くなってきやがった)

薩摩、長州、土佐などの雄藩には、ビルマから戻った坂本龍馬と久坂玄瑞が駆け巡っている最中だ。

坂本が舌先三寸で連中を丸め込んでいる様子が、目に浮かぶようであった。


「親王殿下が? では、主上も殿下も私の考えにご賛同くださると?」

「はい。実に見事な策にございます」

懸念があるとすれば、老中の安藤・久世らが譲位に同意するかだが、これだけのグランドデザインを見せられれば、反対する理由は乏しい。

春の背負った役割は、当初の想定より数倍、数十倍の大きさに膨れ上がっていた。


そんな折、勝のもとにイギリスでの政権交代の報が入る。

驚くべきことに、英国王室からマリー王女殿下の来日が決定したという。

これは、イギリスが統一国家の主権者を孝明天皇と認めたことを意味していた。

知らせを受けた朝廷は大混乱に陥り、岩倉具視がその調整に奔走することとなる。


勝は、時代が濁流のごとくうねり始めたのを肌で感じていた。

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