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第217話 ビルマ動乱(序)

フェイギンは夢を見ていた。

もはや遥か昔のことだ。クリミアの戦地。

仲間の戦士と共に塹壕ざんごうを掘り、その中に身を潜めていた。

補給が途絶えてから既に二日が経過していた。

敵の攻撃は散発的にあったが、ついぞ本格的な強襲はなかった。

だが、仲間はこの二日間で次々と倒れ、息絶えていった。

飢えと寒さ、そしてコレラによる発熱。

嘔吐と下痢にまみれた塹壕の中は、さながら地獄の様相であった。

フェイギン自身、何度も死を覚悟した。

だが、彼は配給された生のジャガイモをかじり、泥水をすすって生き延びた。

故郷には、フェイギンが持ち帰るはずの多額の報酬を心待ちにしている妻と娘がいる。

その思いだけが彼を繋ぎ止めていた。


戦争は唐突に終わった。

生き残った兵士たちは「英雄」として迎えられた。

与えられたのは、鈍く光る銀の勲章。

大きな名誉であった。

だが、その名誉が腹を満たす役には立たないことを、彼はすぐに思い知る。

さらに故郷へ帰ったフェイギンを待っていたのは、妻と娘が既にこの世の人ではないという残酷な報せだった。

「この世界は、強き者のみに生きる権利がある」

その真理を、フェイギンは身をもって悟ることとなった。


彼は組織の人間となり、非合法な仕事を請け負った。

他に生きる道などないと思ったからだ。

やがて一つの組織の長となったフェイギンの役割は、食い詰めた孤児を集めて訓練し、暗殺と諜報活動に従事させることだった。

フェイギンはこの頃から、子供を「消耗品」として見るようになっていた。

スリをさせ、過酷な環境に耐え抜いた子供だけが残る。

生き残った者だけが、うまいものを食える。ただ、それだけのことだ。


皮肉なことに、公式な『救貧院』での強制労働よりも、フェイギンのもとで泥棒を働く方が、孤児たちの生存率は高かった。

なぜなら、この世界は人間の力ではどうにも打ち破ることができない暴虐な神、すなわち『白鯨モビィ・ディック』の支配する世界だからだ。

そう考えれば、すべてが腑に落ちる。

これこそが、神の造りたもうた摂理なのだ。


時折、彼は思う。

もり一本で白い悪魔に立ち向かった、エイハブ船長の亡霊に導かれる自分を……。


「親方、連れてきましたぜ」

サイラスの声で、フェイギンは唐突に夢から目覚めた。

「サイラスか……」

「大使は無事にお連れしましたよ」

「そうか。……で、例の件はどうだった?」

「はい、オリバーの言った通りでした。フェダラーの野郎は組織の諜報員です」

「エドワード大使はそのことを?」

「ご存じないようです。それと……反乱の件ですが」

「裏は取れたか?」

「いいえ、フェダラーはまだ吐きません」

「うむ……」

「親方」

「なんだ?」

「ここはひとつ、オリバーの話を信じてみちゃあどうですかね。あいつの言うことが、これまで外れたことがありますか?」


確かにその通りだった。

フェイギンの一党が今なお生き残っているのは、オリバーの助言に従ってきたからに他ならない。

(オリバー……あいつは一体、何者なんだ)

ウィットフィールド村の奇跡。

暴虐の神『白鯨』が統べる弱肉強食の国、大英帝国のど真ん中に、まるで別の神が創ったかのような村が実在した。

フェイギンにはそれが奇跡としか思えなかった。

その村には、飢えや貧困から悪に手を染める孤児など一人もいない。

そんな理想郷をオリバーが造ったというのだ。

だが、奴は何のために……。

(奴は、神に挑もうとしているのか? だとしたら俺は……)


「オリバーは日本へ発つ前にもう一つ、情報を残していきました」

サイラスが言葉を継ぐ。

「なんだ?」

「反乱勢力に対し、ラングーンの海軍御用商人からマスケット銃五百丁とエンフィールド銃二十丁が供与されたようです」

「行先は?」

「やはりオリバーの読み通り。王宮財務卿、ウー・テイン・ミンのところです」


ウー・テイン・ミンは、反カナウン王子派の最大勢力の首魁だった。

カナウン王子の経済改革と欧州技術の急速な導入に対し、ウー・テイン・ミンは貴族の既得権益を頑なに守護しようとしていた。

彼が擁立する王位継承者は、ミンクン王子とミンコンナイン王子の兄弟である。


「つまり、ミンクンとミンコンナインの反乱は、オリバーの預言通りに進んでいるということか?」

「ここまでは、奴の予想通りの動きですね」

サイラスは肩をすくめた。

「カナウン王子も、当然知っているんだろうな?」

「オリバーから警告を受けたようです」

「よし、詳しく調べろ。状況が分かり次第、カナウン王子と連携するぞ」

その言葉に、サイラスが顔を綻ばせた。

「サイラス、おまえ何を嬉しそうにしていやがる?」

「いえね。やっと、俺たち向きの仕事ができると思ったもんで」

「ふん、それだけかよ。……まあいい」


状況はすぐに判明した。

カナウン王子が精鋭百名を率いて、予定通りマンダレーを発つ。

行先はパテインの港。そこへ機雷を運ぶためだ。

その情報を受け、ミンクン王子率いる五百の軍勢が動き始めた。王宮を急襲するためだ。

一方、パテインにはミンコンナイン王子が五百の軍勢を率いて向かっている。

カナウン王子を暗殺するために。


すべてがオリバーの掌上で踊る駒のように、フェイギンの目には映っていた。


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