第216話 辺境の港町
清国の商船は、イギリスの商船に劣らないほどの快適な設備を備えていた。
船内は清潔で、食事も日に三度、質の良いものが出る。
オリバーたちがイギリスからビルマへ輸送された時の船に比べれば、はるかに快適な旅であった。
その分、運賃は高めだったが、決して常識外れではない。
このサービスなら納得できる、言わば「リーズナブル」な価格設定だった。
当時の常識では、清国の商船といえば「半商半賊」が当たり前だ。
オリバーも相応の覚悟はしていたが、あまりの快適さに、むしろ不気味さすら感じるほどだった。
驚いたのは積荷だ。
アヘンのような禁制品ではなく、なんと大量のバナナだったのである。どこへ運ぶのかと尋ねれば、今は香港や上海で捌いているらしい。
だが、話を聞くうちに、オリバーはこの男の驚くべき商才に圧倒されることとなった。
この船の持ち主は、間もなく開通する「スエズ運河」に目を付けていたのだ。
スエズを通れば、バナナを仕入れているフィリピンのパラワン島からイタリアのベネチアまで、わずか一ヶ月ほどで到達できる。
今、欧州でバナナには想像を絶するほどの高値が付いている。
この輸送ルートを確立すれば、勝機は間違いなくあった。
船長の謝承理は、二十代前半の爽やかな笑顔を浮かべる美青年だった。
しかも流暢な英語を話す。
オリバーは彼とすっかり打ち解けてしまった。
これこそが「相性が良い」ということなのだろう。
謝は頻繁にオリバーを食事に誘った。
「なるほど、面白いな。カナウン王子か……。ことが落ち着いたら、俺にも紹介してくれないか?」
「俺が生きていればな」
「まあ、ほどほどにしろよ。イギリス海軍の連中が傲慢なのは確かだ、それは認める。だが、俺はそこそこうまく付き合っておくべきだと思うぜ」
「本気で言っているのか? イギリスはお前の国でやりたい放題じゃないか」
謝は肩をすくめて笑った。
「だからどうした。清国がどうなろうと、俺の知ったことじゃない。国が俺に何をしてくれる? 気まぐれに増税し、多額の賄賂なしには指一本動かさないのが清国という場所だ」
「イギリスを恨んではいないのか?」
「場合によるさ。バカで傲慢な奴なら恨みもするだろう。だが、それはそいつがイギリス人だからじゃない」
「そんなものか……」
「ああ、俺にとっちゃ、この海こそが国だ。これより俺たちはマニラには寄らない。その代わり、俺たちの『楽園』を案内してやる。楽しみにしてろ」
彼の言う天国とは、パラワン島南部のことだった。
「清国やイギリス、オランダもここには手を出さない。スペイン領だからな。だが、マニラ総督府の管理もここまでは及んでいないんだ」
上陸した街は、驚くほど発展していた。そして、延々と続くバナナのプランテーションが広がっている。
謝承理はこの広大な農園の支配者でもあった。
「俺はいずれ、熱帯果実をイギリスやフランスまで売りに行くつもりだ。オリバー、俺と組め。儲けさせてやるぜ」
彼の所有する船は、既に三十隻を超えている。
ロンドン育ちのオリバーには、この時代におけるバナナの価値がよくわかっていた。
一房一ポンドでも、買いたいという者は列をなすに違いない。
謝はさらに、中米に拠点を築く構想まで語った。
「アメリカはこれから発展する。中米でバナナを収穫し、それをアメリカへ運ぶんだ」
アメリカの「ユナイテッド・フルーツ社」が中米に進出するより遥か以前に、この男はバナナの可能性を見抜いていたのだ。
だが、輸送には大きな障壁があった。
バナナの房はエチレンガスを放出し、自ら熟成を早めてしまう。
そうなれば、欧州に着く頃には売り物にならなくなってしまうのだ。
「それが問題なんだ。船内は暑いし、バナナは熱に弱いからな」
その時、脳内の「ヨーダ」が簡潔な提案とイメージ映像を示した。
【濡れたマニラ麻を吊るし、蒸気機関と接続したファンで空気を送り続ければ、気化熱による冷却と、エチレンの排出を同時に行えます】
オリバーは少し考えた後、その映像を紙に書き写して謝に見せた。
謝は、その提案の価値を瞬時に理解した。
バナナはフィリピンではほぼ無価値だが、欧州へ輸送できれば巨万の富を生む。
現在、それを実現できる者はこの世に一人もいなかった。
「オリバー、お前、やっぱり俺と組め。お前となら大儲けができそうだ」
謝は紙切れを食い入るように見つめながら言った。
坂本の商船隊がビルマの海戦を生き残れば、謝と共にアジアの商業ネットワークを構築するのも悪くない。
だが、それはすべて「無事に終われば」の話だ。
前向きに検討すると答えると、謝は大きく頷いた。
「約束だぞ。この街で一泊して補給を済ませたら、すぐに出発する。安心しろ、約束の期日までには必ずサイゴンへ届けてやる」
そこは、パラワンの辺境とは思えない活気に満ちていた。
南国の港町独特の風情が心地よい。
港から伸びる街路には飲食店や酒場が立ち並び、船員や労働者たちで溢れていた。
桟橋に船がつくと、酒場から女たちが出てきて船員たちを迎える。
マニラ総督府も知らない、謝が支配する自由の街。
「清国を支配するのが皇帝だろうがイギリスだろうが、俺の知ったことではない」
その徹底した個人主義が彼の行動原理のすべてなのだろう。
この「真空地帯」で彼がどこまで力をつけるのか、オリバーは強い興味を覚えた。
その夜、謝と共に飲んだ酒は格別だった。
フィリピンの美女に囲まれた会食は、まさに楽園そのものだった。
中身は「前世のオヤジ」であるオリバーは、鼻の下を伸ばして大いに楽しんでしまった。
「気に入った女がいれば、部屋に連れて行っていいぞ」
謝はそう言って笑う。
周囲の女たちの目が、獲物を狙う肉食獣のような光を帯びる。
しかしオリバーは、一人で席を立った。
その背中に向かって、女の一人が笑いを含んだ声を投げた。
「ど*てい!」
酒場にどっと笑いが起きた。
「オリバー、何か俺にできることはないか?」
バナナ輸送法の見返りに、何かを返したいと謝は言った。
オリバーは少し考え、一つの提案を口にした。
謝は目を見開き、即座に乗ってきた。
このフィリピンの海を闊歩する「海の覇王」と、オリバーは互いに不敵な笑みを交わし合った。
彼らとの付き合いは、まだ長く続きそうであった。
そして、オリバーはサイゴンに到着した。




