第170話 交渉
般若の面をつけたオリバーが、フェイギンの元を訪れていた。
すでに、この般若がオリバー本人であることは、フェイギンも承知しているはずだった。
もっとも、それはフェイギン自身の推測に過ぎない。
看守たちは、オリバーが牢内にいることを、毎日確認していると信じ込まされているのだから。
「おめえ……どういうつもりだ!」
フェイギンは鋭く目を細めた。
その声に呼応するように、周囲へ主力のメンバーが集まってくる。
地下室の空気が、一瞬で張りつめた。
「ピエロを……」
般若が、ゆっくりと周囲を見回す。
ピエロは、その輪の中にいた。
「俺に譲ってくれ」
「なんだと……」
「三万ポンドある……」
「なっ……!」
周囲がどよめき、フェイギンは言葉を失った。
「おい!席を外せ」
フェイギンが顎で示す。
メンバーたちは不服そうな表情を浮かべながらも、しぶしぶ場を離れていった。
「サイラス、ピエロ……お前たちは残れ」
「はい」
サイラスは即座に応じたが、ピエロは静かに腰掛けたまま動かなかった。
フェイギンは立ち上がり、グラスを二つ用意すると、そこへスコッチを注いだ。
片方を般若へ差し出す。
般若は舌を軽く触れさせ、香りを確かめるように一瞬だけ間を置き、フェイギンを見た。
「毒なんか入っちゃいねぇよ」
「ああ……」
そう言って、般若は一気に飲み干した。
「いいのかい?味も匂いもねぇ毒だってあるんだぜ」
「俺には効かない……」
「いい度胸だ。気に入ったぜ」
フェイギンはニヤリと笑い、自分の分も飲み干すと、再び杯を満たした。
フェイギンは、まじまじと般若を見つめる。
正直に言って、この男の要求は意外だった。
…….何のために、ピエロが欲しい?
(殺す気か?)
このイギリスで、この男に勝てるのは、ピエロを除いて他にいない。
サイラスですら対等だと言う。
ならば、唯一の脅威を先に排除しようとしても不思議ではない。
「目的はなんだ?」
般若は沈黙したまま、口を開こうとしない。
フェイギンはスコッチを煽り、巻きたばこに火をつけた。
「理由を言えねぇなら、譲るわけにはいかねぇな。帰んな」
「俺のパートナーにするつもりだ」
「……パートナーだと?」
フェイギンは、可笑しそうに笑い始めた。
だが、笑いが収まるにつれ、疑念が深まっていく。
「お前だって知ってるだろ?こいつがどんな女か……殺されたいのか?」
「だが、俺は死ななかった。そして、殺されるつもりもない。……そうだな、ピエロ?」
般若が、ピエロを見る。
「この人は……殺さない……」
(どういうことだ……?)
フェイギンは、奇妙なものを見るように二人を交互に見つめた。
「お前ら……どういう……」
……..関係だ。
そう言いかけて、その言葉を飲み込む。
もしこの二人が裏で手を組んでいるなら、これ以上の脅威は存在しない。
フェイギンの組織を壊滅させる力が、この場に揃っている。
(それが目的か?)
考えてみれば、ピエロが暴走しても死ななかった男は、この般若が唯一だ。
元からの知り合い……?
いや、そんなはずはない。
ピエロを運んだ船は、マラッカ、香港、ゴアを経由してロンドンに入った。
子供の頃から、自分が育ててきたのだ。
(断るしかねぇな)
そう結論づける。
これ以上に危険な男はいない……そう思えてならなかった。
「ダメだ。いくら金を積まれても、譲るわけにゃいかねぇ」
(どう出る……?)
フェイギンは、無意識に身を強張らせる。
強硬手段に出てくる可能性は十分にあった。
「待ってくれ。話を聞いてくれ」
「なんだ?」
「お前たち……ビルマへ行くんだろ?やめた方がいい」
「なんだと!?なぜ、それをお前が知っている」
レディ・モントローズからの依頼は、最高機密のはずだった。
それを、なぜこの男が……。
フェイギンは、全身を緊張させる。
考えてみれば、こいつはサイラスたちがハムステッド村を襲撃することすら知っていた。
しかも、完璧な迎撃態勢を整えていたではないか。
「お前……一体、何者だ?」
「それを言うつもりはない。俺にも情報網がある。それだけだ」
「くっ……」
フェイギンは唇を噛みしめる。
「ミンドン王は、お前たちがどうにかできる相手じゃない。全滅する」
「ちっ……そんなことまで知ってやがるのか」
フェイギンは、呆れたように頭を掻いた。
「もし、お前たちがビルマ行きを諦めるなら……無理にピエロを引き渡せとは言わない」
「な、なんだと?お前の言ってることが、さっぱり分かんねぇ。それがお前に何の関係がある?」
「それは……」
般若は、言葉に詰まる。
「悪いが無理だ。昨日だ……依頼が命令に変わった。分かるだろ?行かなきゃ、組織ごと消される。それはピエロも同じだ」
「そっ……」
今度は、般若が唇を噛みしめた。
長い沈黙が落ちた。
フェイギンは、漂う煙を見つめながら、その返事を待っていた。




