第169話 幽体離脱
人間の意識は肉体のどこにあるのだろう……。
そんな疑問を持ったことはないだろうか。
実は、それは肉体の中にあるわけではない。
脳神経科学はいずれ、その事実を証明する日が来るのだとヨーダは言う。
なぜなら、肉体そのものが脳によって作り出された幻想にすぎないからだ。
『天眼智』の能力は、ここに来て急速に上昇し始めていた。
経験値が十分に蓄積されたことが理由だという。
肉体を残したまま、意識だけが仮想体のように独立し、飛び、走り、散歩することさえ可能になった。
ただし、その意識体を他人が視認することはできない。触れることも、まして会話など不可能だった。
自分が幽霊になって街を彷徨っている……そんな錯覚を覚えないでもなかった。
この能力を使い、オリバーは毎日のようにルナの元へ通っていた。
だが残念ながら、ルナの側からこちらを認識することはできない。
【一種のストーカーですね。】
(うるせぇ……)
人が一番気にしていることを、容赦なく突いてくるやつだ……と、内心で毒づく。
現実の世界では、繊維材料を専門とした小商いを始めていた。
トムから借りた馬車が、ここで大いに役立った。
すぐに返すつもりではあったが、注文した馬車の完成まで一週間を要すると言われ、やむなく借り続けることにした。
ヨーダの予測どおり、最初の一週間で資金は六千ポンドにまで膨れ上がった。
工場主たちは大損失を免れ、オリバーは神様のような扱いを受ける。
工場の損失回避が、そのまま彼の収入になる……これ以上ない構図だった。
その頃、トーマスが面会に訪れた。
「オリバー……」
トーマスは、檻越しに見るオリバーの顔色に、わずかに目を見張った。
長期間、光の届かぬ独房で暮らせば、人は否応なく衰弱する。
だが、オリバーの顔色は驚くほど健康的だった。
「お前の刑の執行は、ひとまず保留になった。女王の元で止まっている。だが……せいぜい一週間が限度だろう」
「そうですか」
一週間あれば十分だった。
六千ポンドを三万ポンドにまで増やすルートは、すでに確定している。
このビクトリア時代において、三万ポンドで買えない命など、ほとんど存在しない。
ファイギンは大量の孤児を養っている。
武器の調達にも金が要る。
いくらあっても足りるはずがなかった。
海外から連れて来られる奴隷一人の相場は五十ポンド。
当時、子供であったルナなら、せいぜい三十ポンド程度で引き取られたはずだ。
それが三万ポンド……。
刑が執行されるタイミングとしては、むしろ好都合だった。
すでに看守の一人は洗脳した上で買収済みだ。
絞首刑で仮死状態に陥り、一度死んだふりをする。
その後、遺体処理の段階で別の死体とすり替え、自由の身となる。
オリバーにとって、脱獄は驚くほど容易な作業だった。
思わず、笑みがこぼれる。
「オリバー……お前、怖くはないのか?」
それを見たトーマスが、心配そうに問いかける。
「えっ……ああ、もちろん怖いですよ」
騙すようで気が引けたが、意識して暗い表情を作った。
「まだ諦めるな。ベスが再審嘆願の署名を集めている。すでに一万もの署名が集まった」
「一万もですか?」
その数字に、オリバーはさすがに驚いた。
トーマスは新聞記事を差し出す。
以前、メアリーの事件で知り合ったジェームズが書いたものだった。
冤罪の可能性を鋭く突いた、説得力のある衝撃的な記事だ。
「ありがとうございます。もしジェームズさんに会うことがあれば、よろしくお礼を伝えてください」
だが、内務省で交わされている議論を傍受しているオリバーは、無罪放免があり得ないことをすでに知っていた。
とはいえ、今となってはそれもどうでもよかった。
ルナを連れて、どこへ行くべきか……。
それが最大の問題だった。
混紡繊維の事業は、すでに軌道に乗っている。
ウィリアム、エリザベス、トムを中心に、問題なく運営されるだろう。
オリバーの役割は、ここで終わった。
未練がないと言えば嘘になる。
だが、それ以上に重要なのは、ルナを戦いの世界から切り離し、あの恐ろしい『太母』を消滅させること……それこそが、次の最重要ミッションだった。
だが、年の瀬のその夜。
オリバーの意識体は、ピエロの格好をしたルナと対峙するフェイギンの姿を目撃し、衝撃を受けた。
「ピエロ……皆、行くんだ。何が気に食わない。待遇だって、今までとは比べものにならん」
説得するフェイギンの言葉に、ピエロ……ルナは最後まで首を縦に振らなかった。
「行かない……」
ただ、それだけを繰り返す。
一瞬、怒気を含んだフェイギンの表情に、オリバーの心臓が跳ね上がる錯覚を覚えた。
だが、その怒りはすぐに消え、諦めたようにフェイギンは首を振る。
ファイギンの元に、ビルマ行きの依頼が来ている……。
しかも、ルナを連れて行くつもりなのだ。
急がなければならない。
オリバーの胸に、焦りが芽生え始めた。
【フェイギンは、ルナを置いていくことはないと思われます。】
(なぜだ。ルナは繊細な任務には、まったく使えないだろ?)
【使えません。ですが、彼女は緊急時の切り札になります。】
追い詰められ、状況が決定的に不利になった時……ルナを前面に出せば、敵が壊滅する可能性がある。
つまり、保険だ。
(フェイギンは、どうすると思う?)
【連れて行くでしょう。阿片を投与してでも。】
(……なんだと)
焦りは、さらに増大する。
そして、衝撃は続いた。
オリバーは意識をビルマへと飛ばした。
すでにイギリスのインテリジェンス部隊は現地に投入されていた。
しかも、先行した二部隊は任務に失敗し、全滅している。
フェイギンは、そこまで過酷な任務だとは知らない。
はっきり言えば、捨て石だった。
ミッションは、レディ・モントローズとレイヴス提督の間で練られたものだ。
大英帝国海軍の損耗を最小限に抑えつつ、ミンドン王の排斥を狙う……それが目的だった。
だが、ミンドン王は甘い相手ではない。
温厚で優柔不断に見えるその態度に、大英帝国のインテリジェンスは完全に騙されていた。
彼は、百人を超える独自の諜報部隊を抱えていたのだ。
わずか二十人でどうにかできる相手ではない。
すでに、レイヴス提督の艦隊はビルマへ向けて出港していた。
ルナを、絶対に行かせるわけにはいかない。
激しい焦燥感の中で、オリバーは必死に考え続けていた。
どうすれば、ルナをフェイギンの手から引き離せるのか……。




