第166話 雪の夜
その日はロンドンでは珍しく、骨身に染みるような冷え込みとなった。
夜更けには雪になるかもしれない……そんな予感が街の空気に漂っている。
オリバーは隠れ家にしている小部屋で、時間を気にしながら一心不乱に蒸し上げたオーツ麦を練っていた。
マリー王女の手術という想定外の出来事のせいで、ルナと約束した餅は未完成のまま、約束の日を迎えてしまったのだ。
餅に餡子を練り込み、香ばしく焼き上げる。
冷めないよう、何重にも紙と布で厳重に包んだ。
外へ出ると、すでに粉雪が舞い始めていた。
「なんで、こんなに寒くなるんだよ……今日に限って……」
オリバーは厚手のオーバーコートを羽織る。
ルナとは公園で会う約束だ。
だが、この寒さで野外のデートはどう考えても不都合だった。
それでも……彼女に会えると思うだけで、胸の奥からぬくもりが込み上げてくる。
オリバーはこの感情の正体を知っていた。
前世で実ることのなかった、淡い恋……。
今はただ、自分の作った餅をルナが喜んでくれるか、それだけが気がかりだった。
街に出ると、その賑わいに思わず足を止める。
広場には大きなクリスマスツリー。
今日はイブの夜だったのだ。
ガス灯は明々と灯り、無数の蝋燭がきらめいている。
家族連れ、恋人同士……人々は皆、その光景を楽しんでいた。
牢獄にいる間、世間の情報は一切入ってこなかった。
それにしても、うかつだった。
ルナとは「一週間後に、ここで」と約束しただけ。
今日が特別な日だということに、まるで気づいていなかった。
公園に着くころには、雪はいよいよ激しさを増し、このままでは積もりそうな様子だった。
「オリバー!」
ルナは約束どおり、先週と同じ場所に座って待っていた。
明るい笑顔で手を振る。
心に、やわらかな光が灯る。
だが次の瞬間、オリバーは顔を曇らせた。
ルナは意外なほど薄着で、頭や肩にはすでに雪が降り積もっている。
「ルナ、おまえ……寒くないのか?」
「寒いよ。でも、平気……」
「平気なわけないだろ。これを着ろ」
叱りつけるように言ってしまい、ルナの笑顔が消える。
オリバーはすぐに後悔した。
「オリバー、あんたは寒うないん?」
「大丈夫だから……いいから早く着てくれ」
半ば無理やりオーバーコートを着せる。
「ああ、ぬくかね!」
その言葉とともに、笑顔が戻った。
頬にはほんのりと赤みが差している。
「でも、雪になったな。どうする?」
「そうやね。どうしよう?」
見上げたその顔にも、雪が落ちる。
「レストランに行こう」
「ええの?わたし、お金持っとらんよ」
「へへ……言っておくが、俺は金持ちだ」
二人は寄り添うように歩き、広場のツリーを眺めながら約束の餅を食べた。
「今日はクリスマスやったね。懐かしか……」
「そっか。お父さん、オランダ人だったんだよな」
「うん。でも、お上が厳しかったけん、家でこっそりね。私、讃美歌も歌えるんよ」
「そうなんだ」
「餅、食うか?」
「わぁ、嬉しい!」
輝く笑顔に、胸が高鳴る。
包みを解くと、ルナはもぐもぐと食べ始めた。
「甘い……」
「うまいか?」
「うん……でも、これ餅って言うか団子やね」
揶揄うように笑う。
「えっ、そうか?」
「これ、材料はなんつかったん?米やないやろ」
「えっと……オーツ麦……」
「それやったら、片栗入れれば良いんよ」
「なるほど!ルナ、頭いいな」
「ありがとう。今度は一緒に作ろうね」
身体が芯まで冷えてきたため、レストランを探して歩き回った。
だが、イブの夜、どの店も予約で一杯だった。
一通り回り、諦めるしかないと分かったとき、
危険だが、あまりにも魅力的な案がオリバーの脳裏に浮かぶ。
…….ナンシーのコテージ。
悲しい思い出もあるが、楽しかった記憶のほうが多い、あの小屋。
そこへ、ルナと共に行く。
抗い難い誘惑。
【……匂いを嗅ぐのですよ】
ヨーダの言葉を思い出す。
縋るように試すと、結果は「吉」。
単なる希望的観測かもしれない。
それでも、今は信じたかった。
「ルナ、俺の家に行かないか?」
内心、ドキドキとしながら返事を待つ。
「……いいよ……」
小さく、嬉しそうに頷く。
(よし!)
街道まで歩き、人影がないのを確かめる。
「ルナ、ここから走るよ」
「そうなん……」
「だから……俺に、おぶさってくれ」
「えっ!……あんた、大丈夫なん?あんたがええんやったら、私はええけど...」
オリバーはルナを背負い、疾走した。
「えっ!」
最初は驚愕の声。
だがすぐに、彼女の身体能力の高さが伝わってくる。
まったく、バランスを崩さない。
オリバーは全力で走った。
降り注ぐ雪の中を、ただひたすらに。
「きゃあ~~~!はやい~~」
それは恐怖ではなく、歓喜の声だった。
ルナは背を伸ばし、両手を広げ、雪を受け止めて叫ぶ。
「わぁ~~~! 気持ちいい~~~!」
二人は一つになった。
何物にも代えがたい高揚感。
顔に降り注ぐ雪までもが気持ちがいい。
「オリバー~~、わたしね………………」
言葉は、途中で止まる。
ナンシーのコテージには、立ち入り禁止の立て札。
それ以外に変わった様子はなかった。
中に入ると、ここで暮らした日々が遥か昔のことのように感じられる。
オリバーは薪を取りに行き、ルナは厨房へ向かった。
調味料とジャガイモ、少量の小麦粉が残っていた。
火を入れると、部屋は次第に暖まっていく。
外では、深々と雪が降り積もっていた。
「オリバー、ケーキ作ったよ……」
ルナのその言葉に、
「オリバー、今日はケーキ作るからね。早く帰っておいで」
かつてナンシーがそう言って微笑んだ声が、重なった。
心が締め付けられる。思いがけず涙がこぼれる。
「どうしたの?悲しいこと思い出した?」
心配そうに見つめるルナ
そして、癒される。
粗末ながら即席のケーキを食べ、二人でワインを乾杯する。
全て悲しみが洗い流されていくような感覚。
幸福が満ちていく。
暖炉の前で並んで座り、いろんな話をして、知っている讃美歌を歌った。
憂いのない、平穏な世界。
外に降り積もる雪。
いつものようにオリバーの心を癒してくれる、樫の古木のきしむ音。
「オリバー、わたしね……」
ルナはオリバーの目を見る。
「あんたが好き……」
ぽつりとその言葉が響いた。
切ない願いが、静かに満たされる。
……..時間が止まればいい。




