第162話 波
冬の名残をわずかに残した公園には、まだ人影は少ない。
湿った芝生の上に朝露がきらめき、裸の枝を伸ばした並木の向こうで、街はゆっくりと目覚めつつあった。
ベンチに腰掛けたオリバーは、その静けさの中で思考を巡らせる。
ひとつの目標が出来た。
それを陳腐と笑うなら笑えばいい。
今、オリバーが持っている能力を使えば、このイギリスで巨万の富を築くことが出来る。
『天眼智』を金もうけのために使えば、数か月で数万ポンドを稼げる自信はあった。
まず、ロンドン周辺各都市の必需品の価格差を調査する。
そして、荷馬車を一台買う。
御者も護衛もいらない。
本気になれば、数十人の盗賊団が来たとしても、二度と立ち上がれないほどに叩きのめす自信があった。
情報を持っていて、セキュリティコストもゼロ。
馬車さえ買えば、あとは弁当代だけで、最安値で買い、最高値で売る。
最適売買ルートはヨーダが一秒で最適化してくれる。
一月もこれをやれば、今度は船舶の輸送に切り替える。
行動範囲をイギリスとその周辺国にまで広げるのだ。
収益率は数十倍になるだろう。
その計画をヨーダに伝える。
【可能です。『天眼智』で収集した情報を私が分析して、端的に、どこで、いつ買って、どこで、いつ売る。その時点で最も効率的なルートを提案できますよ。利幅は仕入れ値の二倍程度と考えてください。資金はいくら残っていますか?】
まだ、アンセルから奪った金が三百ポンドほどあった。
【十分です。まず、それを六百ポンドにするルートを計算します。『天眼智』で各地の相場、仕入れ状況、生産状況、それに災害発生状況、港の荷揚げ状況、天候、道路状況を、ロンドンを中心に三百キロ圏内で取得してください】
オリバーはベンチの背にもたれ、静かに結跏趺坐する。
公園を渡る冷たい風の中で、情報の奔流が意識へと流れ込んできた。
それを、リアルタイムでヨーダが分析を開始する。
【前提を、現在、荷馬車一台所有とします。結論です。ここから百マイルほど離れたネトルトン村の羊毛牧場で一定量の羊毛を買い付け、ブリストルまで運べば一・五倍。バーミンガムまで運べば、二倍の価格で買い取る工場が存在します】
(なるほど……ネトルトン村の羊毛は、近郊工場の廃業で急なキャンセルが入っているな。バーミンガムの方は、天候不良で輸送船が出航できていない)
【そこへ、あなたが馬車一杯の羊毛を持ち込めば、言い値で買ってくれますよ。この時代、工場が一度蒸気機関を止める損失は、計り知れませんからね】
(なるほど!)
【この場合、少し遠いですが、バーミンガムが推奨です。あの規模の工場であれば馬車一杯では材料の在庫は一、二日しか持たない。契約さえ取れれば、最安値の産地を走り回って集めた羊毛を、何度でも買ってくれます】
(それで、どれくらいの金になる?)
【一週間もあれば、五千ポンドは固いかと……】
(おお……!なら、馬車一台じゃすぐに足りなくなるな)
【そうですね。次は、信用できる船舶のチャーターと、鉄道貨物の貸し切りを提案します。すぐに十万ポンド規模に届くでしょう】
(そんなに儲かるのか?)
【あなたは、人がアクセスできない情報を自由に使えるのですよ。それくらいは当然です。……もっと儲ける方法もありますが】
(えっ?なになに?)
【あなた自身が種を蒔きました。混紡繊維です。ブラウンロウ氏の無担保融資で新規導入する工場に投資するのです。少なくとも先着五十社は、当面、大幅な黒字を出すでしょう。資金不足の工場は『天眼智』ですぐに特定できます】
(なるほど!)
オリバー自身、つい最近までその経営に関わっていた。
今では、混紡繊維はブランド化しつつあり、その流れは欧州全体へと広がり始めている。
【……そんなに儲けて、何に使うのですか?】
(ルナを、フェイギンから引き取る)
【ああ……そういう理由ですか。随分とご執心ですね】
(わ、悪いかよ?でも、あいつ……やばいものが憑いてるよな?)
【そうですね】
(おまえ、あの正体を知ってるんだろ?)
【はい。前にも言いましたね。あれはアーキタイプです】
(ユングの心理学に出てくる元型ってやつだろ?)
【その概念に最も近い言葉で説明しています】
(この世界を本当に動かしてるのが、そのアーキタイプなんだよな?)
【いいえ、違います。この世界を動かしているのは、波の共振です。アーキタイプは、その性質を表しているに過ぎません】
(なんで、ルナに憑いてる?)
【アーキタイプは方向性を持つ波のエネルギーです。人間の意識もまた波です。共振が起きた……それだけです】
(でも、この世界であんなのが憑いてるの、ルナくらいだろ?原因は?)
【保護されるべき幼い意識が、長期間にわたって保護されなかった場合、アーキタイプ『太母』の保護欲求を強く刺激します。その結果、共振が生じたと推測されます】
(どうすれば、落ちる?)
【通常は、自然に消えます】
(じゃあ、ルナも待てば……)
【可能性はあります。ただし、彼女の場合は別の可能性も考えられます】
(重症ってことか?)
【それは分かりません。 もし彼女が、大きな時代の流れの一部であるなら……その共振は、決して消えません】
(……なんで、そんなことが分かる?)
【可能性の話です。ですが、彼女をフェイギンから引き離すことには賛成です。普通の憑物であれば、環境が変わり、彼女自身がそれを受け入れた瞬間に、そのエネルギーは消滅します。逆に、戦闘を重ねれば、エネルギーは強化されます】
(つまり、彼女を戦闘から遠ざけて、平穏な暮らしをさせれば、あの憑物は現れない……そうだな?)
【それは、彼女の意識が持つ位相の性質によります】
(もっと分かるように話せよ)
【この世界は、波のエネルギーによって支配されています。その方向性を示すのが位相です。人の意識も同じく波で構成されています。世界との位相差によって、その意識の運命は概ね定まります】
(要は、エネルギーの方向と世界とのずれで、運命が決まるってことか?)
【その通りです】
(それって、生まれた時に運命は決まってるってことなのか?)
【いいえ、違います。波である以上、他の意識や世界……つまり、他の波と共振したり、打ち消し合ったりしながら、その形を少しずつ変化させます。運命も、それに従います】
(他人との交流や、その時の環境で変わるってことか?)
【その通りです。先ほどの質問の結論ですが、稀に、世界との位相差が極端に大きい意識があります。ルナの位相差は、極めて大きいと言えます】
(なんで、そんなことが言えるんだ?)
【なぜなら、『太母』が負のエネルギーを負って、彼女の意識の中に顕現したからです】
(なに……それって、かなりやばいことなのか?)
【一般に、位相差が大きい意識は、そのエネルギーの法則上、表層の人生が過酷な運命として現れます。位相の性質を示すのがアーキタイプでしたね。それは意識と世界の双方で共有されています】
(....?)
【ただし、顕現した際のエネルギーの方向性は、世界の状態に大きく影響されます。反位相に近いルナの意識には、ネガティブな性質として現れる法則が働いているのです】
(だけど、さっきは……)
【保護されなかったから現れた、と言ったのは、表層世界では、そのような現象として観測されたに過ぎません】
オリバーは空を見上げた。
雲の切れ間から、月が明るく地上を照らしている。
耳を澄ますと、街の喧騒が遠く、かすかに聞こえていた。
【ひとつ、言っておかなければならないことがあります】
(なんだよ?)
【あなたも、位相差が極端に大きい意識の持ち主です】
(なんで、今さらそんなことを言うんだ?)
【それは、あなたがルナと出会ったからです】
(えっ……?)
それは極めて重大な意味を持つ言葉だった。
オリバーは、静まり返った公園を見渡した。
冬の光の下で、世界は何事もなかったかのように穏やかだ。
だが、彼の中では、すでに道は定まっていた。
どんな手段を使っても、フェイギンからルナを引き離す。
それが、彼の次の行動目標だった。




