第160話 廻る因果の中で
死刑宣告から1月が経過した。
未だ、オリバーの執行日は保留されていた。
世間の噂程移り気なものはない。
あれほど、ロンドンの街を震撼させた事件も既に話題になることもなくなっていた。
同じ頃....
(ウィリアムとはこのような男であったのか?)
エドワード・モートンは寄宿舎時代の旧友の鬼気迫る姿を感嘆の思いで見ていた。
父から引き継いだ繊維工場の作業環境にエドワードは以前より懐疑的な目で見ていた。
劣悪=安価=高収益率
この公式を父は疑いなく信じていた。
本当にそうだろうか?
彼の結論は否であった。
工員達は最初は素人同然、少し慣れてくると病欠者が増えて来る。そして機械の扱いに熟練したころ、その半数が身体を壊して辞めていく。
工員の平均的な勤務年数は異常なほど低かった。
結果として、歩留まりは異常に低いままにとどまっていた。
このやり方で経営的なメリットは賃金の低さだけであった。
その代償として低い歩留まり、大量の低品質在庫、持続性のなさなど様々な問題がある。
エドワードは工場の経営改善を望んでいたが、若い彼を支持するものは少なかった。
そんな時、混紡繊維のファッションショーが話題となる。
実際にロンドンまで行って、見てみようと思ったが簡単にはチケットが手に入らないことが分かった。
ロンドンの友人に頼んで、チャドウィックデザイン工房の宣伝用リーフレットを入手してもらった。
律儀な友人はそれを手紙に挟み込んで送ってくれた。
その手紙の中にチケットが必要なら”ウィリアムに頼んでみるのが良い”と記されていた。
(ウィリアム?)
その名前で思い出したのは寄宿舎時代の友人、真面目で几帳面、そして正義感の強かった友人のことだ。
リーフレットを見ていると工房の役員の中に「ウィリアム・フォスター」の名前が記されていた。
(あいつか!)
エドワードは思わず膝を打った。
早速、連絡を取ると、直ぐに返事が来た。
分厚い計画書には驚くべき内容が含まれていた。
まず、工場内の工員50名の一月間集中職業訓練。
安全装置付き製造機械の導入。
能力給の導入。
マスクの導入。
大型換気扇の導入。
これら全ての導入を条件として、ブラウンロウ家からの無担保融資が先着50工場に対して行われることが書き添えられていた。
(ブラウンロウ伯爵は一体何を考えているのだ?)
だが、チャドウィック家の繊維工場を見学して、その1級品の歩留まり80%という実績とその作業環境の美しさに魅了されてしまう。
自分の工場には足を踏み入れるのも躊躇するほどに不潔で、なによりも埃で息も出来ない程だった。
ところがチャドウィック家の工場は床も磨き上げられていて、なによりも埃がないのだ。
適度な温度。
工員達の顔色もよく、なによりも仕事に対して積極的であった。
次に驚かされたのはウィットフィールド村の繁栄であった。
地方議員を務めるエドワードにはまるで魔法でも使ったようにしか見えなかった。
エドワードからの手紙を受け取ったその翌日、ウィリアムはアランと共に馬車一杯に機材を積んで現れた。
「アラン!お前もいたのか!」
考えてみれば不思議はなかった。
寄宿舎時代からこの二人はよくつるんでいた。
テーブルをはさんで3人で語り始めると、学生時代を思い出して心が弾んだ。
「どうだ!エドワード、これは学生の言葉遊びとはわけが違うぞ。口先だけの理想じゃない。工場が変われば村も変わる。お前にその仕組みが分かるか?」
学生時代の冷静な貴公子。
あのウィリアムが今では猪のような突進力で向かってくる。
熱い男に変わっていた。
その熱に押されて、父の猛反対を押し切って、新規事業へ乗り出す決心をした。
彼らは50人の工員を集めた。
今回は読み書きができるものに限定したが、時間をかければ誰でも同じ技能を習得できることが全員に説明された。
2週間の講習の後、彼らはウィットフィールド村へ工場の補助要員として派遣された。
それ自体がOJTと彼らが呼んでいる最速の技能習得法なのだそうだ。
一方でエドワードにはアランが張り付いて、新規機材の導入を急いだ。
2週間の後、ウィリアムに連れられて戻って来た工員たちの顔には生気が満ちていた。
ウィリアムとの別れの際には全員が固い握手を交わし、なかには握手をしながら涙を流して感謝の意を示す工員もいた。
果たして、新規工場の稼働から1月目.....
1級品歩留まり50%を達成し、これは上がりつづけている。
予想を遥かに上回る成果に驚きを隠し切れなかった。
ウィリアムとアランを招いてささやかな宴会。
「ウィリアム、そしてアラン。正直言って俺は驚いている。率直に言わせてもらうが、悔しいが君らは卒業からわずかな間に大きく成長した。いったい何があったのだ。」
二人は意味ありげに顔を見合わせて笑った。
「実はたいしたことじゃないんだ。」
「いや、大したことだろ!イギリス中の繊維工場が注目し始めているぞ?」
「ああ、だが、やっていることは単純だ。工場から埃を取り除き、工員の技能研修をやり、効率に応じた能力給を導入しただけだ。その気になれば誰でもできたはずだ。」
「だが、誰も気が付かなかったことをお前たちが始めた。」
「俺たちじゃない。これを始めたのはオリバー・ツイストと言う男だ。」
「オリバー・ツイスト?....」
エドワードは絶句する。
ウィットフィールド村への隣村で起こったあの陰惨な事件。
”入れ替わった悪魔”確かそんな悪名までついている殺人犯の名前だ。
「エドワード、これだけは信じて欲しい。オリバーは人を殺すような男ではない。」
エドワードの工場は順調に稼働し始めた。
ウィリアムの予測が正しければ、数年後、村は大いに発展する。
地方議員も兼務する自分はどう動くべきかを真剣に考えるときなのかもしれない。
オリバー・ツイストという男の名前が強い印象となって頭の中に残った。
アミラのもとにナイチンゲール看護師養成学校の一期生のキャンディスとアニーから工場の衛生管理と付属診療所の見学の申し出があった。
コレラ発生ゼロを達成した村の噂を聞いたのだと言う。
二人はアミラの功績を称賛した。
「素晴らしいですわ!ナイチンゲール先生のおしゃっておられたことがここでは全て現実の成果となっている。本当に参考になりました。」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。でもね。あなたたちには一つ言っておかなくてはならないことがあるのよ」
「なんでしょうか!是非お聞かせください。」
「ナイチンゲール先生の方法は極めて優れた実践的な方法であることはあなたたちが一番よく知っているわね。でもね。コレラゼロはそれだけでは達成できないのよ。」
二人の瞳に真剣な光が現れたのを見てアミラは続ける。
ナイチンゲールの行った医療とは統計に基づいた極めて実践的な公衆衛生と体調管理であった。
環境衛生(清潔・換気・水)、栄養と休養、統計による「原因の可視化」、規律と記録。
ナイチンゲールはこれに徹して成果を上げたのだ。
これは経験と観察から導いた最適解であった。
「だけどね。それだけではコレラをゼロには出来ないわ。あなたたちもそう思ったのではないかしら」
「はい、私たちもそれは考えていたところです。一体それは何でしょう?」
「それはね。コレラは空気・水・手・布・食物を媒介として移動する小さな生物であるってことを知り、それに対策することよ」
「なんですって!」
二人は同時に素っ頓狂な声を上げた。
コレラが生物だなどと考えたこともなかったからだ。
「そう!その感染経路を適切に断絶することこそが重要なのよ。あなたたちにこれをあげるわ。ここに感染経路を断絶する方法と、万一感染者が出た時の隔離方法が全て記されているわ。」
それを渡された二人はしばらく食い入るように読んでいた。
「これをアミラさんが作成されたのですか?素晴らしい功績じゃないですか?」
「ありがとう。でもね。その小さな生物説が、なかなか受け入れられないのが事実なのよ。あなたたちが実践してくれればもっと普及すると思うの。お願いできるかしら?」
「もちろんです!大変勉強になりました!」
二人は深く頭を下げた。
「それとね。そのマニュアルの製作者は、そこに記されている通りオリバー・ツイストと言うあなたたちと同年代の人よ」
二人の顔が豹変する。
顔を引き攣らせてアミラへ尋ねる。
「あの、大変失礼なんですが、そのオリバーという人は、新聞で話題となったあの殺人犯ではありませんか?」
アミラは小さくため息をつく。
「あなたたちにこれだけは言っておくわ。例え世界中が彼を殺人犯だと言ったとしても私は絶対にそれを信じない。彼は人を殺すような人じゃないわ」
二人にとって実り多い一日であった。
同時にオリバー・ツイストと言う名前が彼女たちの心の奥深くへ浸透していった。
やがて、それは二つの相反する虚像が都市伝説のように好んで広がっていった。
「今日よりも明日は必ず良くなる……か……」
エドウィン・チャドウィックは、一人スコッチを傾けながら独り言を漏らしていた。
以前、ブラウンロウとともに飲んだ下町の酒場であった。
オリバーとは、よく言い合いになった。
大人しい性格であったはずだ。
それがなぜか、エドウィンにだけは舌鋒が鋭かった。
オリバーは、エドウィンが策定した「新救貧法」を正しく理解していた。
大英帝国は、その華々しい発展の陰で、年々増大する軍事費の支出に喘いでいた。
一方で、急速に進む機械化の波、『囲い込み』による農業の大規模化。
増大する失業者の生活保障を、国庫は既に賄えるほど豊かではなかった。
痛みを伴う冷徹な政策が、どうしても必要だった。
オリバーもそれを理解した上で、突きつけてきた言葉だ。
「経済学や緻密な計画の前に、どうしても必要なことがあります。
今日よりも明日は必ず良くなる……その信念が人々の内側に宿った時だけ、国は本当に発展するんです」
切ないほどの言葉を重ねて、自分にぶつけてきた。
なぜ、それをもっと真摯に受け止めてこなかったのだろうか。
苦い思いが、胸の奥から込み上げてくる。
「……どうだい、最近は」
職人風の男たちだった。
「どうもこうもねえよ。仕事が減る一方だ」
「結局さ、腕なんて時代遅れなんだろ」
「機械に勝てるわけがねえ」
苦笑混じりの声が続く。
「まあ、そう決めつけるのも早えって話もあるがな」
別の男が、グラスを揺らしながら口を挟んだ。
「ほう……どんな話だ?」
「ウィットフィールド村だ。あそこじゃ女工でも、腕があれば食えるってよ」
「冗談だろ?」
「冗談ならいいがな。姪が働いてるんだが、先月七ポンドだとさ」
「七ポンド……?」
聞いていた二人の男が瞠目する。
七ボンドは女工の給与としては破格だ。
「出来のいい絹糸を作れば、その分だけ払われる仕組みらしい。能力給とか言ってたな」
一瞬、沈黙が落ちる。
「……昔はさ」
年嵩の男が、ゆっくりと口を開いた。
「腕を磨けば、少しずつでも暮らしは良くなった」
「今日よりも明日は良くなる……そんな言葉を、信じられた時代もあったな」
「……ああ」
短い相槌が返る。
エドウィンはその言葉に人々の淡い希望を感じた。
そうだ。
私に欠けていたものを、オリバーは示してくれていたのだ。
(オリバー..なんたる傲慢、お前は私を...いや、世界を導こうとしたのか...)
その結果、オリバーは獄中に落ちた。
だが、私がここで立ち止まっていいはずがない。
苦しくとも、前進するしかない。
エリザベスを見ろ。
ウィリアムはどうだ。
前進を止めたか?
否。
私以上に、オリバーの喪失に苦しんでいるはずだ。
それでも彼らは、歩みを止めていない。
エドウィン・チャドウィックは、静かに決意を固めた……。




