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第159話 共有夢

メタ認知モードのまま眠ってしまうことが、多くなった。

そうすると、見る夢が現実とほとんど見分けがつかないほどの、明晰夢として現れるようになる。

ただし、少し違う点もあった。

その風景の見え方が、まるで精緻な風景画を眺めているかのような、美しさを帯びているのだ。

ヨーダが作り出す仮想世界とも、どこか異なっていた。

そこには、自律的に現れる風景以外、何も存在していないように見えた。

だが、この風景の中に身を浸していると、なぜだか悲しみを感じずにいられた。

今のオリバーにとって、それは大きな救いだった。


ナンシーを失ったことで、すべてが変わってしまった。

世俗的な言い方をすれば、予定していた生活設計が、すべて手の届かない不可能なものになったのだ。

もう二度と、ハムステッド村で平穏に暮らすことなどあり得ない。

仮に脱獄したとしても、これから先、何のために生きればいいのか……それすら分からなくなっていた。

オリバーは、大英帝国の既得権と戦いたかったわけではない。

ただ、快適な生活空間を作りたかっただけだ。

そのためには、矛盾だらけのこのビクトリア時代の社会システムを、少し改善する必要があったにすぎない。

前世を民主主義国家・日本で育ったオリバーの感覚は、この世界では異端なのだろうか?

労働環境の改善、その個人的合理性が社会合理性と乖離していないことは、未来を知るオリバーにとって、ただ単に当然のことに過ぎなかった。

『救貧院』で生まれ、何も持たなかった頃から、ようやく掴みかけた理想の快適空間。

それが、ここまで簡単に転落するとは、思いもよらなかった。


一体、何がいけなかったのだろうか?

ヨーダの説明によれば、世界は表層に現れていない潜在意識によって、実質的に支配されているという。

それが時代の流れとなって動き続けており、その流れが変わらない限り、小さな変化はやがて大きな奔流に押し流される。

そんな、わけの分からない理由で、すべてを失ったのだと思うと、情けなくて、涙すら出なかった。


明晰夢の世界は、ひたすら美しかった。

遠くに霞む山並みは、うっすらと雪をまとい、富士山に似た円錐形の山からは、もくもくと煙が立ち上っている。

樹齢百年は確実と思われるメタセコイアの樹海は、神秘的な空気に包まれていた。

それを抜けると、延々と広がる花畑が視界いっぱいに現れる。

のんびりと歩いていくうちに、風景は少しずつ変化していった。

丘を越えた先に現れたのは、日本の田舎を思わせる田園風景だった。

あぜ道のような小径を進むと、明らかに人工的だが、未舗装の道へと出る。

草むらの中では、鈴虫が静かに鳴いていた。

「……えっ?」

思わず、声が漏れた。

日本の古民家……そう呼ぶほかない建物が、目の前に立っていたからだ。

家屋は柵で囲まれ、庭先には柿の木が一本立っている。

軒先には干し柿が吊るされ、内部を覗くと囲炉裏端があり、室内はよく手入れされていた。

明晰夢の世界で、これほど明確な人工物を目にしたのは、初めてだった。

そのとき、歌が聞こえてきた……。

少女の声だった。

オリバーは、はっと目を見開く。

それは、よく知っている日本の子守歌だった。

滔々と響く歌声は、深い悲しみを帯びながら、オリバーの心に染み込んでくる。

歌声は、古民家からほど近い丘の上から聞こえていた。

吸い寄せられるように、オリバーは足を向ける。

「……いた」

思わず、そう呟いた。

少女は、田園地帯全体を見渡せる小さな丘の上で、歌っていたのだ。

オリバーと少女の視線が交わる。

少女は、きょとんとした表情になり、歌を止めた。

言葉を交わさずとも、互いの瞳だけで理解してしまった。

オリバーは、この少女を知っている。

そして、彼女もまた、オリバーのことを知っている……。

沈黙……。

先に口を開いたのは、少女の方だった。

「……日本から来たの?」

「……なぜ?」

「だって……あの時、歌ってくれたじゃない。日本の歌……嬉しかった」


サイラスと共に、ハムステッド村に現れた、あの最強の少女……。

彼女によって、オリバーは一度、死にかけている。

あの時の彼女と、今この目の前にいる少女は、全く別人としか思えなかった。

いや、別人格なのだ。

「君は……どうやって、ここに来たんだ?」

「分からない。私は……いつも、ここに来てた。夢だと思ってた」

急に、世界が薄れ始めた。

夢が、終わりかけていた。

「また……会いたい。お願い……私を、探して……」

目を覚ますと、そこは冷たい牢獄だった。

少女の願いが、オリバーの心の中に切ない思いとなって残っていた。


(ヨーダ……? 俺は、夢を見ていたのか?)

【夢と現実の違いを、理解できていますか?】

(やめろよ……禅問答をしたいわけじゃない)

【今のは、共有夢と呼ばれる現象です。明晰夢を頻繁に見る者同士の間で、時折発生します】

(共有夢は……チベットの高僧でも、相当な修行の末に至る境地だと聞いてるが……)

【脳内に共有夢の回路が形成されれば、高僧でなくとも可能です。あなたの場合、メタ認知モードへの過度な依存により、回路が固定化したようですね】


(あの少女は……)

【あなたが、以前に戦った少女です。探しますか? 彼女の第二人格は、極めて危険ですよ】

(……探してくれって、言ってたよな?)

それが危険だということは分かっていた。

【彼女は、あなたに何かを求めているように見えましたね】

切実な思いで、何かを願っていた。その願いとは、何なのか?

(彼女に憑いている、あの憑物はなんなんだ?)

【あれは、世界の根本をなしている存在のアーキタイプです】

(太母といってたよな?)

【はい。母性のエネルギーの塊が擬人化し、彼女の人格を乗っ取ることで保護しているのでしょう。ですが、あれほど荒れ狂っているのには、理由があるはずです】

日本の伝承の中に現れる、山姥。

異常な本能に突き動かされる母性。その変質した保護欲が、顕現したものであった。

失望、悪意、嫉妬、怒り……負の感情は、潜在意識に集積しやすい特質を持つ。

憑代となる個体があれば、それらは人格を通して、容易に表出してしまう。

ジャックは、ナンシーの息子を殺し、孫を殺し、怒りと嫉妬、悪意を集積させて悪魔憑きとなった。

原理は、同じなのだ。


潜在意識の流れは、大河のそれに似ている。

表面をせき止め、一部を変化させたからといって、大きな流れを変えることは出来ない。

それは、長い時間をかけて変化するものだからだ。

何億年、何兆年もかけて出来上がった流れに、多少なりとも影響を与えるのであれば、

それは、自らが神に等しい力を振るうことを要求されるに違いない。

もし、それが本当に真実であるのなら、何もかもが虚しい。

オリバーに出来ることは、何もないのだから……。


少女は、何を思ってオリバーに会いたいと言ったのだろうか?

なによりも、彼女がなぜあれほどオリバーに会うことを切に願ったのかが、知りたかった。


彼女は、フェイギンのもとにいる。

だが、現状を考えると、馬鹿馬鹿しくなってくる。

オリバーは、死刑囚として収監されているのだ。

しかも、彼女に関われば、再びあの『太母』が現れる可能性がある。

彼女に会ってみたいと強く願う感情と、警戒する理性とが、せめぎ合う。

【彼女に会ってみるんですか?】

ヨーダが、唐突に問いかけて来る。

「いや、やめとく」

【そうですか……】

その声に、落胆が含まれていたと感じたのは、気のせいだろうか?

「ちょっと、散歩行ってくる」

【良いことです】

既に、いつでも脱獄は出来る状態だ。

交代で現れる看守は全員、オリバーの『暗示』の術中に落ちていた。

人が一人、やっと通れる出入口は、既に出来上がっていた。

オリバーにとって、堅牢を誇るこの牢獄は、ざるだった。

鍵は、釘一本で簡単に開いた。

鉄格子は、筋力強化によって根元から外し、着脱可能にしてあった。

看守は、見回りに来ない。

配置につくと同時に見回りをしたと誤認識する暗示が、掛かっている。

仮に見回りをしても、なぜかオリバーの独房だけは、見回ったつもりになっている。

ロンドンの下町に、小さな小部屋を借りていた。

近所の人々には、行商人だと思われている。

なにか、目的があってのことではない。

ただ、気晴らしのために、意味もなくロンドンの街や公園、下町を徘徊していた。

混紡繊維の事業は、オリバーを失っても何の問題もなく拡大しつつあった。

オリバーはますます繁栄を謳歌するロンドンの街を当てもなく徘徊していた……。

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