5
仮住まいを飛び出したぼくは、幾度目かの空間跳躍を行った。
犬どもに尾けられぬよう、螺旋を描きながら遙けき虚空を目指して跳ぶ。
もうちょっとだ。もう少しで手が届く。
惑星の重力から逃れ、広がる星辰が幾筋もの流れとなって後方へと走る。
銀河を抜け、宇宙を抜け、そして――。
※ ※ ※
跳躍を終え、ぼくは振り返った。
忌々しい犬どもの気配は――ない。
どうやら捲くことに成功したようだ。
前方に向き直り、ぼくは息を呑んだ。
※ ※ ※
星々の海の外は、虚無でありながら無限量の羊水で充たされていた。
羊水に揺られながら、一人の少女が微睡んでいる。
すぐそこにいるかのように思えたが、それは錯覚だ。
少女が揺蕩っているのは、遙か遠く離れた場所である。
少女は大きく広げた腕の内に、無数の卵を抱えていた。
ぼくは、その卵が宇宙卵であることを直感的に理解した。
無数の卵が内包する宇宙の相はそれぞれ異なり、また、その殻にも同じ物は二つとしてない。
文字通りの卵殻だけ数えてみても、鳥類、爬虫類、両生類といったあらゆる形状があった。
のみならず、全ての植物の種子や花蕾も少女の腕の中にあった。
虫蛹や繭、真珠貝の殻など、卵の形ではない有機物もある。
あの奇妙な形の植物は、アリノスダマだろうか。
少女は有機物でない物も多く抱えていた。
雪玉。
砂の城。
真鍮の球。
寄木細工の箱。
着色硝子の小瓶。
アオサギのコロニー。
使い古された目覚まし時計。
またはハッカ飴の包み紙、パイ生地の薄皮、虹色の泡沫――。
多種多様な形状の中で例外のように、同じ形をした骰子が二つあった。
(なぜだろう?)
ぼくが疑問に思った刹那に答えが伝わってきた。
二つの骰子はそれぞれ異なる唯一物で、一つは出目が運命で決まり、もう一つは偶然で決まるのだそうだ。
そう教えてくれたのは、目前の少女なのだろうか。
少女は目を開くこともなく、ただ微笑むだけだった。
言葉はないが、その感情らしきものは察することができる。
無数にある宇宙卵のどれもが少女のお気に入りらしかった。
少女は微笑を湛え、目を瞑ったまま、この上なく優しい手つきで卵の一つ一つに触れていく。
その脳裏に、ときに良夢を、ときに悪夢を浮かべながら――。
遙か来し方より、幾星霜の行く末まで、いつまでも。
夢が終わり殻の破れるそのときまで、いつまでも。
無限量の羊水に揺蕩いながら、夢見る少女は宇宙の輪郭をなぞり続けるのだ。
(〈窮極の門〉は、何処にあるのですか?)
ぼくが問いかけるように念じると、少女はその場所を教えてくれた。
そこは、ぼくが探し求めていた場所だった。
他者の犠牲を厭わずに紡がんとした五つの物語の終着点。
その門を越えれば、悪夢のような現実から逃れ、良夢の郷へと到達できる。
ぼくはすぐさま、少女の教えてくれた場所へと跳ぼうとした。
そのとき――。
※ ※ ※
「待てよ」
誰かがそう言い、跳ぼうとしたぼくの肩を強く掴んだ。
「お、おまえ……」
振り返ると、そこにいたのは空界で狼に形を変え、襲いかかってきた男だった。
「おまえは、一体誰なんだ!」
ぼくが声を荒げると、男は苦笑して鼻を掻いた。
「まいったな。やっぱり忘れちまってんのかよ」
ぼくより頭一つ小さいその男の顔にはやはり見覚えがあった。
だが、誰なのかは一向に思い出せない。
「無駄だ。こいつはおれたちのことなんざ覚えてやしないのさ」
逆の肩に手を乗せたのは、多頭の獅子へと変じた男だった。
「――本当に忘れてしまったというの?」
目の前の虚空が凝り固まって水となり、それが人の形を取った。
「あなたが、あたしたちにした仕打ちの全てを?」
詰め寄ってくるのは、大海で泡に包まれていた半人半魚の女。
「そうよ。彼にはこれといった目的も夢もない」
「だからあたしたちを贄にすることができたのさ。思いつくまま、面白半分にな」
泡の女の左右に赫と碧の炎が生じ、二人の女となった。
二人は炎と同色の剣をそれぞれ抜き放ち、刃を交差させながらぼくの首筋へと押し当てた。
「胴と首を切り離して、虚無へ流してやる」
赫き剣の女が凄む。
「それは最後でしょう。まずは指を一本ずつ切って、四肢を断ち、耳と鼻を削ぎ、舌を落として目を刳り貫いてからにしましょう」
碧き剣の女がそう言うと、五人の男女は一斉に嗜虐的な笑みを浮かべた。
「……ふ、ふざけるなッ!」
ぼくは男たちの手を振り払い、空間を跳躍した。
まずは一旦異なる位相に渡り、そこから門へと跳んだ。
その先に、虚空に浮かぶ石造りの門が見えた。
「ははっ、どうだ。時を操れなくたって、ぼくはおまえたちに捕まるような間抜けじゃあないんだ!」
一気に門を抜けようとするぼくの目に、二つの人影が映った。
門番たる忌まわしき〈猟犬〉を従えている人影は、どうやら男女のようだった。
先ほどの五人とは違う男女だが、同じく見覚えのある顔だった。
「行かせはしない」
男が右手を掲げると、その指先から漆黒の闇が噴き出した。
「ここまでよ」
女が左手を翳すと、その掌から目映い閃光が迸った。
闇と光は混じり合い、灰色の波動となってぼくを呑み込んだ。
永劫という名の波動にさらされたぼくの体は徐々に色彩を失っていく。
色だけでなく、腕や足、胸といった肉体の本質が薄れ、透き通っていくのがわかった。
痛みは全くなく、むしろ心地良さすら感じられた。
その感覚のあまりの恐ろしさに、ぼくは絶叫する。
しかし、そのときにはすでに息を吐く肺も声を出す喉も灰色の波動によって消失していた。
額の第三の目も消える。
思考の最後の瞬間、ぼくは彼ら七人が何者であるかを思い出した。
そうだ。
彼らは、ぼくの――。




