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冬枯れて灰色の空気の中を、私は藁にも縋るような思いで駆け抜けた。町外れにある屋敷の門をくぐり、体当たりをするような勢いで古びた扉を叩いた。
「お、おい、いるか? なあ、開けてくれよ、アヴィ!」
すぐに応答は来ない。忌々(いまいま)しいくらいにいつも通りの無反応だった。
舌打ちしながら五分ほど粘ったところで、それまで巌のように堅かったドアノブが回った。ほとんど独りでに開いた扉の向こうへと入ると、内側からしっかりと錠をかけた。そんなことは無駄だということは理解していたがそうせずにはいられなかった。あいつに追いつかれないようにという焦燥により私の理性は機能しなくなっていたのである。
「ア、アヴィ!」
私は外套も鳥打帽も脱がず、先ほどから幾度となく呼ぶその名の主が篭もっている書斎へと駆け込んだ。書斎にしては余りにも広いその部屋には、入ってすぐに応接の空間があり、その奥に突き当たりの壁が見通せないほどの書棚が図書館のように並んでいた。オーク製の両袖机の向こうで安楽椅子が私に背を向けている。
「なんだい、騒々しいねえ」
安楽椅子が軋んだ音を立ててこちらへと回ると、肩口で切り揃えられた金髪と鮮やかな輝きを秘めた碧眼の女性が現れた。
「ここしばらく無沙汰だった分を取り戻そうと騒ぐのは勝手だけどさ。ねえ、エドワード?」
東洋の煙管をくゆらせ、背もたれに体を預ける姿は二十歳そこそこの淑女である。だがその眼光は猛禽のように鋭く、私は心臓を鷲掴みにされたかのように身を竦ませてしまった。
「あんた、忘れちゃいないかい? ここがこのあたし――アビゲイル・エヴァンジェリンの屋敷だってことをさ」
煙管をふかす彼女の着衣はブラウスにズボン姿で、まるで男の装いのようだった。これも特別なことではなく、彼女はいつもその姿をしている――つまり、彼女はいわゆる男装の麗人というやつだった。
「わ、わかっているさ、アビゲイル。だからこそ、私はここに来たのだから」
私は大量の汗をかきながら言葉を絞り出した。体の前面から噴き出すのはアヴィに対する脂汗、背中から流れるのは恐怖からくる冷や汗である。
「大方の察しはつくさ。生半可な知識で厄介なものに手を出していたんだろう?」
アヴィは呆れた風にわざとらしく鼻を鳴らした。その眼光は背中の冷や汗すら見通していたようだった。
「あんたはいつもそうさ。才覚も努力も一流にはほど遠い癖に、好奇心と虚栄心と自尊心は人一倍。隠れて動いていたのも、あたしに知られて横車を押されたらかなわんとでも考えたのだろう、ええ?」
「む……」
アヴィの的確な指摘に、私は口を噤まざるを得なかった。
「――で、こそこそ準備して、何を喚び出したってんだい?」
私はごくりと喉を鳴らし、重々しく口を開いた。
「……い、犬だ」
「犬だって? 〈吠えるもの〉の類ってことか。どこぞの墓地から翡翠の護符でも持ち出したのかい?」
アヴィはにやりと笑った。私のような木っ端術師には、その程度のことしかできないとでも思って小馬鹿にしているのだろう。矜持を保とうとする気持ちとアヴィに縋りたい気持ちがジレンマとなり、私の胸中で渦を巻いた。
「ち、違う……私は高次への壁を越えようと……」
あそこで視た名状しがたい光景を思い出すだけで総身が震えて奥歯が鳴る。そんな私を見て、アヴィはようやく起きつつある事態の重大さを捉えた。
「ってえことは……〈猟犬〉か。ちっ。よりにもよって、ってやつだね。全く、小人閑居して何とやらとはよく言ったもんだよ」
アヴィの皮肉に内心で臍を噛みながらも、私は何も言い返すことができなかった。
そもそも、私はどうしてあのような犬などに付きまとわれるような愚考を犯してしまったのだろう。確かに私は、アヴィに指摘されたように才能と実力の伴わない虚栄心と自尊心を肥大化させている。適切な努力を積み重ねられてもいないのだろう。甚だ口惜しくはあるが、だからこそ私がそのような――高次へ到達する道筋を見出すことなど、到底できるはずがないのである。
けれども、私は雷に撃たれたかのような閃きを得、書棚を整理するようにそれを成すための理論を構築し、周到な準備をした上で行動を起こしたのである。我がことながら自分が自分ではないような気がしてならなかった。その違和感はここに至っても続いているのである。
「――あんた、誰だい?」
アヴィがそう言ったのは、まるで、そんな私の疑問を察したかのようだった。その眼は変わらず私を捉えたままだったが、碧い瞳の奥には知的な興味の光が迸っていた。
「と、突然何を言い出すんだ。私はエドワードだ。君もよく知るエドワード・スターリングだよ」
アヴィが気付いてくれたことに喜んでいたはずなのに、口から出たのは真意とは全く逆の言葉だった。そこでようやく私は、私ではない何者かに操られていたのだと確信した。私という人格の九割がその何者かに浸蝕され、主導権を奪われていたのであった。
さしもの私も、今日ばかりはいつも辛辣な男装の麗人が私の発する嘘を看破することを願ってやまなかった。
「そうだね。あんたは確かに洟垂れのエドさ。呆れるほど浅学にして、哀れなくらい非才の魔導師――」
しかし、アヴィはその期待に応えることなく何者かの言葉に調子を合わせてしまった。
「そ、そうさ」
絶望に襲われた本心に反し、何者かは私の顔にへつらいの笑みを浮かばせた。
「……そうだよ、あんたにある才能はたった二つだけさ」
「私の才能だって? それは一体何だい?」
私を操る何者かは、なぜだか激しく動揺していた。
「決まってるじゃないか。悪意を喚び込む才と、それに影響を受けちまう才さ」
アヴィは不敵に笑った。堕天使も斯くあらんという邪悪な笑顔も、このときばかりは大天使の祝福のように感じられた。
「何だって? じゃあ君は、亡霊のような何かが私に取り憑いて、高次の壁を越えさせようとしたとでも言いたいのかい?」
語るに落ちるとは正にこのことだった。こうなっては男装の麗人にして邪な天使である彼女に勝てる見込みはない。押しやられつつある私自身の意識は声なき快哉を叫んだ。
「はん。何かが私に取り憑いた、だって? 笑わせるじゃないか」
「何だと?」
私は声を荒げ、身を乗り出した。
「待ちな!」
アヴィは安楽椅子から身を起こすと、掴みかからんばかりの剣幕の私を迎え撃つように両袖机を跳び越えて煙管の先を鼻先に突き出す。すると、あれだけいきり立っていた私の体が時を止められたかのように硬直してしまった。
「余計な話をしてる場合じゃないんだろう?」
口の端を釣り上げるアヴィに観念したのか、私はこくりと頷いた。
「よし。良い子だね」
アヴィが煙管を持つ手を下ろしたそのとき、書斎の入り口から鼻が曲がりそうな臭気が漂ってきた。酢漬けの大蒜が腐ったような悪臭である。
「ちっ、犬コロめ。断りもなくあたしの家に這入ってきやがった」
アヴィは顔を歪めると、踵を返して書棚の方へと歩き出した。
「おっと」
顔だけを振り返らせ、指をぱちりと鳴らすと、私の体に自由が戻ってきた。
「エド、あんたはとにかく歩いてな」
「あ、歩く、だって?」
そんなことをしている間に、悪臭の主に襲われてしまうのではなかろうか。その恐怖だけは、私が私に憑依している何者かと共有できた唯一の感情だった。
「ああ、ひたすら歩き回るんだ。円を描くようにしてね。決して鋭角を作っちゃいけないよ」
私はすぐさまアヴィの言う通りに行動した。書斎と呼ぶのをためらうほどその部屋は広く、私は一周二十メートルほどの円を描くようにイメージしながら応接用のソファの周りを歩いた。すると、それまでひしひしと迫ってきていた悪臭の濃度が心なしか薄まってくるように感じられた。
心にわずかな余裕が生まれ、私は細心の注意を払って足を運ばせながら、書棚の影に消えたアヴィに声をかけた。
「な、なあ。その〈猟犬〉ってのは――」
「気を逸らすな!」
見えないところからの一喝に、私は喉から心臓が出るほど驚き、それからは黙々と早足でひたすら円を描き続けることにした。
数分後。十二周ほどした頃、男装の麗人は三冊の書物を脇に抱えて戻ってきた。
「……全く。あんたも魔導師の端くれなら、〈猟犬〉の何たるかくらいは知っておくんだね」
アヴィは机上に腰をかけ、ズボンに包んだ長い両脚を組んだ。
「折角の危機だ。ただ逃れるのではなく、好機としてお勉強でもしようじゃないか」
幼年学校の教師のような口調で言いながら、アヴィは持ってきた書物の一冊を開いて頁をめくり始めた。
「あんたを追っている〈猟犬〉は、文字通りの犬というわけじゃない」
「あ、当たり前じゃないか。どこの犬が時空を超えて追ってくるものか」
アヴィが言うあんたとは私を操る何者かであり、それに答えたのもその何者かである。私、エドワード・スターリング本来の意識は仕方なく、二人のやり取りを傍観するという立ち位置を取ることにした。
「そりゃあそうだね。けれど、そいつは犬なのさ」
「どういうことだ?」
「どうもこうもない。与えられた本質が犬と同じってことさ」
「犬の、本質だと……」
何者かは歩きながら呆然と呟いた。
「あんた、犬を飼ったことはあるかい?」
「いや、私はない。犬は好きじゃないんだ。昔、叔父が飼っていて、親に連れられて訪ねる度に吠えかかられた思い出があってね」
この何者かにそんな思い出はなかった。エドワードとしての私の記憶を引き出して語っているのだ。非才と蔑まされた私でもそれを察する程度の干渉はできた。
「それさね」
アヴィはやはり、私の内面的闘争には素知らぬ顔で会話を続けた。
「……そうか。犬の本質とは、主人の命令に忠実に従うということか。そして、知らない者に吠えかかる、と……」
何者かが理解したのを見て、アヴィは軽く頷いた。
「犬が吠えるのは、即ち警告さ」
そう言うと、手にしていた書物を私に見えるように開いた。アヴィが見せた頁には、奇矯な風体の男が袋を通した棒を肩に担ぎ、何処とも知れぬ道を進んでいる挿し絵があった。
「〈愚者〉か……」
近年、魔導師や占星術師でなくとも知られるようになってきたが、〈愚者〉とは二十二枚ある大アルカナの0(ゼロ)場面のカードである。アヴィが開いたのはタロットの研究書であるらしかった。
「ようくご覧よ。何処かへ向かおうとする男の後ろから、犬が吠えかかっているだろう? これは、この世界の外へ出ようとすることへの警告を発しているのさ」
「この世界の外……だって?」
「タロットにはもう一つ、犬が描かれているものがある。わかるかい?」
「……つ、〈月〉だ」
「そうだね。じゃあ、〈月〉のカードに描かれている三つの要素を言ってご覧」
いくら私でもそのくらいの知識はあった。だが、何者かにはなかったらしい。何者かは再び私の記憶を検索し、その知識を引き出した。
「上段には夜空に光る月。下段には水があって、ザリガニのような甲殻類がいる。その間に二頭の犬が――」
そこまで口にして、何者かはアヴィの言わんとしていることを悟った。
「〈月〉に描かれた犬も、警告を発する者なのさ。それだけじゃない、この二頭は門番でもある」
「も、門番……?」
「ああそうさ」
アヴィはタロットの本を傍らに置くと二冊目の書物を開いた。一冊目と比べて半分にも満たない厚みのその本は、よく観察すると印刷されたものではなかった。
「それは、拓本か?」
拓本とは、石碑などに刻まれた文字を紙に写し取ったものである。それを何十枚も綴った物が、アヴィが二冊目に開いた本だった。
「これが何だかわかるかい?」
「いや……」
拓本の文字は私の知らないものであり、何者かにとっても未知であった。
「『下のものは上のもののごとく、下のものは上のもののごとし』さ」
言葉で解読してもらい、初めて理解することができた。と同時に、理解する以上の衝撃が私を襲った。
「エ、【エメラルド・タブレット】か……」
そう呟いたのは、抑圧されていた私本来の意識だった。アヴィの授業により、いつの間にか取り憑いた何者かの影響は弱まり、主導権を奪い返せるようになっていたのである。
そこでアヴィが笑みを浮かべたのはそれを察したのか、それとも単に【エメラルド・タブレット】という名称を言い当てることができたからだろうか。目敏い男装の麗人のことだ、おそらくはその両方だろう。
【エメラルド・タブレット】――その名の通り神であるヘルメスがエメラルドの石版に記したと言われる書物である。しかし写本こそ点在するものの、実物の石版はまだ一枚も見つかってはいないはず。少なくとも、私の知る限りでは。
「ほら。こっちには〈防壁の番犬〉についての記述が書かれている。『時の存在せざる彼方の空間に、通り過ぎて行かんとするものを待ちて横たわる。番犬は角度をなしてのみ動き、弧を描く次元を動くことはできない』だとさ。ご丁寧に、気をつけろ、と再三の忠告付きだ」
アヴィは拓本を私に向けたまま、内容を諳んじてみせた。
「門番である〈猟犬〉と、防壁で待ち構える〈番犬〉……」
そう言いながら、私はこれまで与えられた情報の整理ができていなかった。
「あんたときたら本当に浅学だね。今あたしが口にしたのは、拓本なんぞ持ち出さなくてもそこらで出回っている不完全極まりない断片の、それも写本にも書かれている程度の内容だよ」
普段通りのからかい口調でアヴィが語りかけてくるが、今の私には不明を恥じて赤面するような余裕はなかった。
私は悟っていた。アヴィが与えてくれた情報の整理ができていないのではなかった。整理し、繋げ合わせることそのものを避けていたのだ。
犬の本質。
タロットの〈愚者〉と〈月〉に描かれた犬。
エメラルド・タブレットに刻まれた〈番犬〉。
今も私を捕らえようと牙を研いでいる〈猟犬〉。
繋ぐのは簡単だ。どれをどう繋いでみても、結論は同じだからである。私が恐れているのは、その結論そのものが暴かれることだったのである。
そして、眼前に座る男装の麗人は容赦なくそれを暴いた。
「さあ締め括りといこう。つまり、高次の世界だか世界の外だかは知らないけれど、あんたが向かおうとしていた場所への途上にも門があったってことだ。間抜けなあんたはそこに〈番犬〉であり〈猟犬〉でもある凶悪な存在が待ち構えていることにも気付かず、その〈窮極の門〉をくぐろうとしたんだ」
「き、〈窮極の門〉!」
その言葉を聞き、私のあらゆる毛穴から脂汗が噴出した。
「目的は何だったんだろうね。高次の壁を超越して時間を自在にしたかったのか。それとも、門の向こうにある《いや果ての空虚》へ至ろうとでもしたのかい? なあ、教えておくれよ、エド?」
何者かは答えることができなかった。アヴィの授業が終了のベルを鳴らすのと同じく、私の内面的闘争も終焉を迎えていたのである。
「いいや、違うね。あんたはエドワード・スターリングじゃない。あんたは――」
アヴィが耳慣れない名を口にした。それを聞いた途端、私の視界は真紅に染まった。私の体は意思に従わず円を描くのをやめ、獣のごとくアヴィへと飛びかかっていた。男装の麗人は狼狽することなく、流麗な動作で三冊目の書物――出来損ないの藁人形のような異形が表紙に描かれた本を私に向けて開いた。何も記されていない空白のページの合間に鋭角が生じる。そこから悪臭を伴って吹き出した銀緑色の煙が、汚れた顎を形作り、そして私へと――、




