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五日に一度の〈雲曜日〉が終わったばかりのある日のこと。世界の片隅、東の町ビーヤニにて百を超える煙突群の一つから顔を出す者がいた。それは逞しい体躯の背の高い青年だった。
「我が麗しのお姫ぃさまは、今日も輝いていらっしゃるなあ!」
清らかでいて鮮やかな光を享けながら呟く青年の顔には、煤だらけではあったが満ち足りた色が浮かんでいた。フオベという名のこの青年は、ビーヤニに多く住まっている煙突掃除人の一人だった。
「おおいフオベ。そろそろ上がりにしようやー」
少し離れた煙突から声がかけられた。周囲の煙突から立ち昇る蒸気に遮られ、声の主の姿は見えない。
「はいよ、サデルの兄貴」
フオベは朗らかに返事をして煙突の中から縁へと上った。手早く命綱を外すと、大きな体格に見合わぬ機敏な動作で煙突の外面に取り付けてある鉄梯子を軽やかに降りていった。
地面に着くなり清掃と点検作業のため運行を休止させていた煙突を再起動させた。ごうごうと音を立てて勢いよく蒸気を吐き出す煙突を見上げ、フオベは嬉しげに頬を弛緩させた。自分の仕事への手応えもあったが、それ以上に蒸気の向こうにうっすらと見える光の源が存在することに喜びを感じていたのである。
「元気にしてらっしゃるかね、お姫ぃさまよう」
光を見上げる度、フオベは祖母の皺だらけで丸い顔を思い出す。祖母は近頃では珍しくなってしまった〈光の姫君〉の熱心な信者で、幼いフオベによく〈光の姫君〉にまつわる伝説や侍従にして光を遮る雲であるシャルナーグがかつて立てた勲、そして生涯をかけて〈光の姫君〉に尽くした〈仰天王〉ヒアリガの話を語って聞かせた。
ヤイジャリガ王の近習を血縁に持つフオベの母は〈雲曜日〉が訪れる度にこの姑と口喧嘩をし、ことあるごとに祖母の言うことは全てでたらめだとフオベに言い聞かせた。そんな母へ律儀に首肯を返しつつ、フオベの心はやはり祖母の語る話に惹かれていたのである。
そんな母も祖母もすでにこの世にはなかった。十一年前、フオベの一家が住んでいた町はおもむろに進行方向を変えた竜巻に蹂躙され、大地の上から跡形もなく消え去っていた。それはそれまで竜巻によって〈人間〉が受けた被害で最大ともいえるもので、町の住人で生存していたのはまだ十歳にもなっていないフオベだけだった。
フオベが助かったのは正に奇跡としか言い表しようがなかった。フオベは他の〈人間〉と同じように逃げる間もなく家々や煙突の破片と共に竜巻に巻き上げられた。すさまじい勢いで飛ぶその破片にさらされてほとんどの〈人間〉が命を落とした。それを免れた者も結局は遙かな高みから落下したことで粉々になった。
けれどもフオベだけは生き残った。災禍から三日後、ヤイジャリガ王直々(じきじき)の命を受けた巡察使に発見されたフオベの体に目立った傷はなく、あってもかすり傷ほどのものだった。巡察使が事の子細を何度訊ねてみても、フオベが話せるのは家族と共に竜巻に巻き上げられるまでで、それ以後の記憶は一切なかった。これは嘘偽りではない。フオベ自身もそのときのことを思い出そうとしてみたが、竜巻の中で経験したことは分厚い闇の帳の向こうにあった。
フオベは王都にある巡察使の家に半年ほど滞在した後、巡察使の知遇である煙突掃除人の元締めのところに徒弟に出されることになった。その元締めが住まっていた町がこのビーヤニだったのである。
フオベがビーヤニにやって来てからおよそ十年が経とうとしていた。町の左右すら知らなかった少年は、今や一人前の仕事を任せられるほどにまで成長していた。
「まったく。普段は岩みてえにだんまりな癖に、お姫ぃさまを見上げるときだけはいい顔するんだよな、おまえさんはよ」
煙突の下で天を仰ぐフオベに語りかけたのは、先ほど声をかけてきたサデルという煙突掃除人である。サデルは長身のフオベと同じくらい上背がある割に肉付きはやたらと悪く、柳のようにひょろひょろとした風貌だった。
「そうかい?」
応じながらサデルを窺う素振りもなく、フオベの視線は天へ向けられたままだった。
「やれやれ、仕方ねえやつだ」
苦笑を浮かべつつもサデルの口調は柔らかだった。サデルとフオベは同い年だが、煙突掃除人の徒弟に入ったのはサデルの方が二年ほど早かった。上下関係がことさら厳格な煙突掃除人の中でサデルの性格は驚くほど大らかで、こうして余人を交えず二人でいるときだけならばともかく、他の掃除人もいるような公の場でまで気の置けない友人のように声をかけてきた。ぼんやりとした気質でありながら他者との足並みは崩さないようにと心掛けてきたフオベは、そうやってサデルに話しかけられる度に困惑してしまうのだが、しかし不思議と不快な気分にはならなかった。
「さて、そろそろ帰るとしますか」
上下の礼節を重んじつつ敬愛できる友としてサデルと接している内に、フオベは彼を実の兄のように慕うようになっていた。それはサデルも同様で、こうしてフオベが天を見上げるときは、手のかかる弟と一緒にいるようにいつまでも付き合うのだった。
二人は来たときと同じく明瞭に照らされる帰途に就いた。この世界に夜はない。長い長い昼と、時折〈雲曜日〉が訪れるだけだった。
いつまでも続くかと思われる日々に終止符を打つのが己だとは、フオベはまだ知る由もない。
「ったく、困ったもんだぜ」
サデルは肩を落とし、道具箱をぶら下げた両腕をぶらぶらと振りながらぼやいた。横でそれを聞き、フオベは微笑んだ。
「笑いごっちゃねえぜ、フオベよう。十日にいっぺんのお休みが、二十日にいっぺんあるかないかになっちまったんだ。こいつは一大事ってやつだぜ」
サデルは深いため息を吐いた。休みがないのはサデルだけに限ったことではなく、フオベや他の若い煙突掃除人たちも同じ状況だった。ひっきりなしに仕事が舞い込む煙突掃除人は、間違いなく世界中で最も忙しい労働者だった。
それもこれも全て大竜巻の影響である。大竜巻はフオベの生まれ育った町を蹂躙した後、衰えるどころか勢力をいや増し、この十年で手足の指で数え切れないほどの町とそれに十倍する村々を消滅させた。町だけではない。竜巻は森林を根こそぎ薙ぎ払い、山を削り、沙漠を押し広げており、そのため多くの獣たちが種の滅びにさらされていた。大竜巻はすでに〈人間〉だけでなく世界にとっての脅威となっていたのである。
王権を強めんとするヤイジャリガの企図通り、〈人間〉の大半がペサラに不信を募らせていた。それは最も信仰篤く、最も多くの煙突を築造した東の町ビーヤニの住民も例外ではなかった。ビーヤニには、持っている煙突の数に比例してフオベやサデルのような煙突掃除人も多く住まっていた。煙突の管理は〈光の姫君〉への奉仕であり、単なる作業夫ではなく聖職として尊崇されていた煙突掃除人も、職に就く三人に一人までもが〈光の姫君〉ペサラを忌み嫌うようになり、次々とその職から離れていってしまった。何年もの修行を必要とする職人の替わりがすぐに見つかるわけもなく、必然的に残った煙突掃除人たちが穴埋めをすることになったのである。
中でも特に若い掃除人に多くの仕事が割り振られてサデルのように呻吟していたのだが、フオベ一人だけは一言の文句もこぼさず、むしろ満足げに日々の仕事をこなしていた。それは言わずもがな、フオベが〈光の姫君〉に最も近いところで奉仕できることを誰よりも喜んでいたからである。それを知っているのはサデルをはじめとした気心の知れた職人仲間だけだった。
「他人事じゃねえ忙しさだってぇのに、おめえってやつはよお」
サデルは猫背のまま恨めしげな視線を送ったが、フオベは微笑を浮かべて泰然とそれを受け止めた。
「惚れた弱みってやつかい。へ、お熱いこって」
サデルはそう言ってがっしりとした肩をはたく。
「そんなんじゃないよ。こう見えても、おれなりに町のことを心配してるんだぜ」
冗談めかして言ったものの、それは本心からの言葉だった。ビーヤニの生まれでないフオベも、町から信仰が失われつつあることを心底から憂えていた。いやむしろ、フオベが外から来た者だからこそ幼い頃から耳馴染みのある〈光の姫君〉を一途に信仰するビーヤニの民たちを美しいと思えたし、また自分がその町の一員として認められたときは何にも代え難い喜びを感じたのである。
とはいえ、フオベ自身は〈光の姫君〉の信奉者ではなかった。天から光をもたらすその姿に憧憬の念を抱きはしたがそれを崇め奉ろうという気は不思議と全く起こらなかったのである。文字通り手の届かないほどの高みに在りながらその姿をいつでも確かめることのできる〈光の姫君〉ペサラは、フオベにとっては信仰の対象というよりは、親しみを持てる身内のような存在だったのである。フオベは天を見上げる度、今にもペサラが地に降りてくるような、もしくは己が天へと昇っていくかのような錯覚を感じていた。
「ところで兄貴。例のあれは?」
フオベが訊ねると、サデルは大きく頷いた。
「おうおう、ちゃんと捕まえといたぜ」
サデルは腰から下げていた小袋を取り外し、フオベの目の前に掲げてみせた。煤まみれの袋の中で何かがもぞもぞと蠢いているのがわかった。
「ありがとよ、兄貴。あんたに夜の幸いあれ、だ」
それを受け取ると、フオベはほくほく顔で懐にしまい込んだ。
「本当におかしなやつだな、おまえは。何が楽しくてそんなもんを育てようなんて思ったんだか」
呆れ顔のサデルの言葉も上の空で、フオベは足取り軽く家路に就いた。




