最終章_戸板の裏側
隠亡堀に夜霧が下りていた。
川面は黒く、岸に打ち寄せる水だけが、白い筋となって揺れている。
堀の北側には、使われなくなった船小屋があった。
屋根は半分崩れ、戸板は腐り、傾いた柱を太い縄で支えている。
かつては荷舟の修理に使われていたが、今では近所の者さえ近づかない。
宅悦は一人で船小屋の中に立っていた。
杖は持っていない。
足元の板が軋む音や、柱へ風が当たる音を聞き分けるためだった。
お袖と与茂七は、川を挟んだ葦の陰にいる。
弥吉と町方の者たちは、船小屋を囲むように身を潜めていた。
誰も声を出さない。
聞こえるのは、水音と虫の声。
そして、どこか遠くで犬が吠える声だけだった。
やがて、道の方角から足音がした。
一歩ごとに、湿った土を強く踏む。
迷いのない歩き方だった。
男が一人、船小屋へ入ってきた。
丁子油の匂いがした。
「伊右衛門様」
宅悦が名を呼んだ。
足音が止まった。
「なぜ、お前がここにいる」
「お待ちしておりました」
「帳面はどこだ」
「帳面が残っていると、やはりお考えになりましたか」
伊右衛門は答えなかった。
代わりに刀の鍔が鳴った。
「お岩の遺体を見つけたと言ったな」
「そのような文を、お読みになったので?」
「ふざけるな」
「文は、あなた様へ届けておりません」
伊右衛門の呼吸が変わった。
「では、なぜ私がここへ来ると分かった」
「お岩様の遺体が、ここにあるからです」
夜の川を、風が渡った。
船小屋の奥で、縄が軋んだ。
「どこまで知っている」
「私は目が見えません。
知っているのは、音と匂いと、人から聞いた話だけでございます」
宅悦はゆっくりと、船小屋の奥へ顔を向けた。
「お岩様が亡くなった翌朝、あなた様は二台の荷車を出された。
一台には、小平と見知らぬ女を打ち付けた戸板を載せた。
もう一台には、お岩様の遺体を載せた」
伊右衛門は動かない。
「お岩様の遺体は、水に濡らした漁網と菰で包まれていた。
そのため、荷車から水が滴っていた。
魚を運んでいるように見せかければ、夜道で呼び止められても不審に思われにくい」
「作り話だ」
「そうかもしれません」
宅悦は答えた。
「ですが、逃げる機会がありながら、あなた様は江戸を出なかった。
真っ先に、この隠亡堀へ来た」
「帳面を奪うためだ」
「その帳面は、どこにあるのでしょう」
「お前が持っているのだろう」
「私は帳面の一部しか知りません。
左門様が持ち出した帳面は、あなた様が奪った」
「違う」
「では、どこに消えたのです」
「知らぬ」
「本当に?」
「何度言わせる」
「燃え残りまで確かめたのに?」
「残るはずがない。
すべて焼いた!」
伊右衛門の声が船小屋へ響いた。
川の向こうで、葦が微かに動いた。
自分が何を口にしたのか気づき、伊右衛門は黙った。
「左門様の帳面を焼いたのですね」
宅悦が言った。
「罠を仕掛けたのか」
「罠ではございません。
あなた様がご自分で答えられただけです」
「その程度の言葉が何の証になる」
「外で弥吉親分も聞いております」
伊右衛門が刀を抜いた。
暗闇の中で、刃が鞘を擦る音がした。
「出てこい!」
伊右衛門は叫んだ。
弥吉たちは、まだ姿を見せなかった。
遺体の場所を確認するまで待つ手筈だった。
「帳面はもうない」
伊右衛門が言った。
「お岩の死骸も、お前たちには見つけられぬ」
「でしたら、この小屋に何をしに来たのです」
「お前を殺すためだ」
「それだけではございません」
宅悦は、足元の板を杖の代わりに踵で叩いた。
空洞の響く音がした。
「この下ですね」
伊右衛門が踏み込んだ。
宅悦へ刃が届く直前、船小屋の外から女の声がした。
「伊右衛門様」
お岩の声だった。
伊右衛門の刀が止まった。
「私を、どこへ隠したのです」
「岩……」
白い着物をまとった女が、川霧の中から現れた。
長い黒髪。
片側の腫れた顔。
手には黒い櫛を持っている。
お袖が、もう一人のお岩となって立っていた。
「来るな」
伊右衛門が後ずさる。
「私の身体を返してください」
「お前は死んだ」
「誰が殺したのです」
「自分から刀へ飛び込んだのだ」
「では、なぜ遺体を隠したのです」
お袖が一歩進む。
伊右衛門は、さらに後ずさった。
踵が床の一部へ触れた。
そこだけ、他の板とは異なる音がした。
伊右衛門は振り返った。
そして、隠された床板へ手を掛けた。
持ち上げようとして、途中で動きを止める。
自分が遺体の場所を示してしまったことに気づいたのだ。
「そこです!」
宅悦が叫んだ。
弥吉たちが一斉に船小屋へ踏み込んだ。
「刀を捨てろ、伊右衛門!」
提灯の明かりが灯された。
伊右衛門は床板から手を離し、刀を構えた。
だが、逃げ道はすでに塞がれている。
「床を開けろ」
弥吉が同心へ命じた。
二人が鉄棒を差し込み、板を持ち上げた。
床下には、古い舟を収めるための浅い穴があった。
今は水が抜かれ、底へ木炭と石灰が敷き詰められている。
その中央に、菰で包まれた細長いものが横たわっていた。
菰を縛る縄は新しい。
表面には、乾いた血が黒く残っている。
「開けます」
同心が縄を切った。
最初の菰を外す。
内側には、水を含ませた漁網が巻かれていた。さらにその下から、白い着物が現れた。
お袖が息を呑んだ。
「姉上……」
お岩だった。
顔の右側は毒によって崩れ、右の鬢から髪が抜け落ちている。
左の下腹には、出産時に負った三日月形の傷があった。
そして喉には、刀による深い傷が残っていた。
傷は左から右へ斜めに入り、首の後ろ近くまで達している。
自分から刃へ飛び込んだ傷ではない。
背後から髪をつかまれ、振り向いたところへ刀を押し込まれた傷だった。
お袖は面を外し、姉の遺体のそばへ膝をついた。
「遅くなって、ごめんなさい」
お岩の冷たい手を取り、額へ押し当てる。
宅悦には、その姿が見えない。
だが、お袖の嗚咽と、濡れた網から水が落ちる音が聞こえた。
ぽたり。
ぽたり。
戸板が引き上げられたあの朝から追い続けた女が、ようやく名前を取り戻した音だった。
◇
「なぜ、別の女を戸板へ打ち付けたのです」
弥吉が伊右衛門へ尋ねた。
伊右衛門は刀を持ったまま、壁際へ追い詰められていた。
「答えろ」
「私ではない」
「お岩の遺体を隠した場所を知っていた。
それでも違うと申すか」
「あの女を用意したのは、喜兵衛だ」
伊右衛門は吐き捨てるように言った。
「身元の分からぬ女の死骸を、無縁仏を扱う者から手に入れた。
すでに死んでいた女だ。私が殺したのではない」
「顔を潰したのは?」
「喜兵衛の手の者だ」
「お岩の着物を着せたのは?」
「お槙だ」
「戸板へ打ち付けたのは?」
伊右衛門は答えなかった。
「小平を殺したのは、あなた様ですね」
宅悦が言った。
「小平は、お岩様へ渡された薬に疑いを抱いていた。
さらに、あなた様がお岩様を殺したことにも気づいた。
だから口を塞いだ」
「薬を盗んだ奉公人だ」
「病気の妻のためでした」
「盗人であることに変わりはない」
「それが、殺してよい理由になりますか」
伊右衛門は鼻で笑った。
「今さら善人ぶるな、宅悦。
お前もお岩を裏切ったではないか」
「はい」
宅悦は認めた。
「私は恐ろしさのあまり、何度も口を閉ざしました。
その罪は消えません」
伊右衛門が黙る。
「だからこそ、今度は黙りません」
宅悦は、一つずつ罪を並べていった。
「最初に、あなた様は横領を知られたため、四谷左門様を殺した」
「証はない」
「左門様が翌朝届けるはずだった帳面を奪い、先ほど、ご自分で焼いたと認められました。
左門様が背中から斬られていると、まだ誰も話していないうちから知っていたことも、お岩様が覚えております」
「死んだ女は証言できぬ」
「与茂七様へ送られた左門様の書状も残っています。
横領の内容と、あなた様を問い詰めたことが記されております」
葦の陰から与茂七が姿を現した。
手には左門の書状を持っている。
「次に、伊藤喜兵衛様がお岩様の顔を崩す計画を立てたことを、承知しておられた」
「喜兵衛が勝手にしたことだ」
「お槙殿が、あなた様と喜兵衛様の会話を聞いております。
あなた様は、飲み薬へ毒を入れるなと話していた」
宅悦は続けた。
「三つ目。お岩様が真相を知り、伊藤家へ向かおうとしたため、喉を刀で刺して殺した」
「錯乱して飛び込んだ」
「遺体の向きと刀の向きが合いませんでした。
傷も、今ここに残っております」
「目の見えぬお前に、何が分かる」
「見えないからこそ、あなた様が刀を抜く音も、お岩様をつかむ衣擦れも聞いておりました。
この手で、倒れた身体と傷の向きを確かめました」
伊右衛門の顔から、余裕が消えていく。
「四つ目。
小平を殺した。民谷家の土間には血が残り、薬入れの紐も落ちておりました。
戸板の男が小平であることも確認されております」
夜風が船小屋を抜けた。
「五つ目。
身元不明の女をお岩様に仕立て、小平と不義を働いたように偽装した。
お岩様の喉の傷を調べられれば、事故死という説明が嘘だと分かる。
そのため、傷のない別人を使った」
伊右衛門は刀を握り直した。
「六つ目。
婚礼の夜、幻に惑わされたとはいえ、あなた様自身の手でお梅様と喜兵衛様を斬った」
「あれは、お岩の亡霊が――」
「亡霊は人形と灯籠で作られたものです」
お袖が立ち上がった。
「仕掛けたのは私と与茂七様です」
弥吉が顔を向ける。
「町方で、すべてお話しいたします」
「お袖!」
与茂七が止めようとした。
「私たちも、自分の罪から逃げることはできません」
お袖は姉の遺体を見下ろした。
「姉上の名誉を取り戻すのに、また嘘を使ってはいけないのです」
与茂七は何も言えなかった。
「伊右衛門様」
宅悦は最後に告げた。
「戸板の表には、顔を潰されて名を奪われた女がいた。
裏には、不義の男という汚名を着せられた小平がいた。
ですが、その戸板のさらに裏側には、あなた様が隠した六つの罪があったのです」
「黙れ」
「もう隠すことはできません」
「黙れ!」
伊右衛門が斬りかかった。
◇
宅悦は刃が風を切る音を聞いた。
身体を横へ投げ出す。
刀は肩先をかすめ、腐った柱へ食い込んだ。
同心たちが動くより早く、伊右衛門は刀を引き抜き、お袖へ向かった。
「お前が、お岩の亡霊を!」
お袖は姉の遺体をかばい、動かなかった。
伊右衛門の刀が振り上げられる。
その前へ、与茂七が飛び込んだ。
二人の刃がぶつかった。
火花が散る。
「生きていたのか」
伊右衛門が目を見開いた。
「お岩殿だけでなく、お袖まで殺させはせぬ」
与茂七が刀を押し返す。
伊右衛門は後ろへ跳び、再び斬り込んだ。
狭い船小屋で、刃と刃が激しく打ち合う。
伊右衛門の剣は速かった。
追い詰められた獣のように、守りを捨てて斬りかかる。
与茂七の腕が浅く切られた。
血が袖を濡らす。
「与茂七様!」
お袖が叫んだ。
伊右衛門は、その声へ一瞬だけ顔を向けた。
与茂七の刀が、伊右衛門の胸を貫いた。
伊右衛門の身体が止まった。
刀が手から落ちる。
与茂七が刃を抜くと、伊右衛門は胸を押さえ、よろめきながら船小屋の外へ出た。
誰も追わなかった。
すでに致命傷だった。
伊右衛門は堀端まで歩き、膝をついた。
黒い水面に、自分の顔が映っている。
その背後に、白い顔が浮かんだ。
片側が腫れ、長い髪を垂らした女。
「岩……」
伊右衛門が振り返った。
誰もいない。
お袖はまだ船小屋の中にいる。
亡霊の面も、遺体のそばへ置かれたままだった。
灯籠もない。
人形も、糸も、声を運ぶ竹筒もない。
伊右衛門は再び川面を見た。
女の顔は、まだそこにある。
伊右衛門へ向かって、静かに微笑んでいた。
「来るな」
伊右衛門は水面から逃れようとした。
しかし足に力が入らず、その場へ倒れた。
「お前は作り物だ」
誰に言い聞かせるともなく叫ぶ。
「お袖だ。人形だ。灯籠の絵だ。私は騙されぬ!」
川面の女が、櫛を持ち上げた。
濡れた髪を、ゆっくりととかし始める。
「やめろ……」
伊右衛門は後ずさろうとした。
指が泥を掻くだけで、身体は動かない。
宅悦たちが船小屋から出てきた。
「何が見える」
弥吉が尋ねた。
伊右衛門は答えなかった。
胸から流れる血が、川岸の土へ広がっていく。
最後に、恐怖とは違う表情が、その顔へ浮かんだ。
長い間捜していた者を、ようやく見つけたような顔だった。
「岩、そこにいたのか――」
その言葉を残し、伊右衛門は息を引き取った。
弥吉が川面を見た。
映っているのは、夜空と船小屋の影だけだった。
「お前には、何か見えるか」
宅悦は首を振った。
「何も」
彼には、最初から何も見えない。
ただ、川の中から髪をとかす音が聞こえていた。
櫛の歯が濡れた髪を通る、静かな音だった。
◇
夜が明けてから、お岩の遺体は船小屋から運び出された。
今度は別人の名をつけられることなく、四谷左門の娘、民谷岩として記録された。
戸板の女は、最後まで身元が分からなかった。
弥吉は無縁仏として処理せず、お岩とは別の墓へ丁重に葬った。
墓石には名の代わりに、
――名を奪われた一人の女
とだけ刻ませた。
小平についても、お岩と不義を働いたという記録が改められた。
彼が民谷家の薬を持ち出したのは、病気の妻を助けるためだった。
主人の犯罪を知ったために殺されたことも、町方の記録へ残された。
左門の横領調査は、与茂七が保管していた書状と、文机に残った帳面の断片によって裏づけられた。
伊右衛門の罪は、死後ではあったが明らかになった。
お袖と与茂七は、婚礼の仕掛けについて自ら申し出た。
二人が直接刀を振るっていないこと、伊右衛門の罪を暴こうとした事情は考慮されたが、お梅と喜兵衛の死を招いた責任まで消えることはなかった。
どのような裁きが下されるかは、まだ決まっていない。
お千代は、それまで寺で預かられることになった。
「この子には、何と話せばよいのでしょう」
お袖が宅悦に尋ねた。
お岩の葬儀を終えた帰りだった。
「父親が母親を殺したと、いつか教えなければならないのでしょうか」
宅悦は少し考えた。
「お岩様が、最後までお千代様を案じておられたことをお話しください」
「それだけでよいのですか」
「真実は、隠せば毒になります。
ですが、すべてを一度に飲ませる必要もございません」
お袖は、腕の中の赤子を見た。
お千代は何も知らず、穏やかに眠っている。
「この子が尋ねたとき、一つずつ話します」
「それがよろしいでしょう」
二人は四谷へ続く道を歩いた。
宅悦の懐には、お岩の部屋から持ち出した小さな鏡があった。
事件の証として町方へ渡すつもりだったが、弥吉は、
「それは、お前が持っていろ」
と言った。
鏡の縁に残っていた毒は、すでに洗い落としてある。
今では、誰の顔も傷つけないただの鏡だった。
宅悦には、自分の顔を映すことも、お岩の顔を見ることもできない。
それでも、ときどき鏡の表面へ指を置いた。
冷たい金属へ触れるたび、あの夜の温かい血を思い出した。
守るために黙った言葉が、人を救うとは限らない。
見えないふりをすることと、本当に見えないことは違う。
目を持たない自分よりも、多くの者が真実を見ようとしなかった。
噂を信じた町の者。
顔が崩れた妻から目を逸らした夫。
死者へ別人の名をつけた役人。
一枚の戸板を見て、そこに打ち付けられた二人が不義を働いたと決めつけた人々。
事件の真相は、初めから戸板の裏側に隠されていたのではない。
誰も裏返して見ようとしなかっただけなのだ。
遠くで、寺の鐘が鳴った。
宅悦は足を止めた。
風に混じって、胡桃油の香りがしたような気がした。
「どうなさいました」
お袖が尋ねる。
「いいえ」
宅悦は再び歩き始めた。
背後の道から、女の足音がついてくる。
一歩。
二歩。
三歩。
振り返っても、宅悦には何も見えない。
お袖も、誰もいないと言った。
それでも足音は、しばらく二人の後をついてきた。
やがてお千代が目を覚まし、誰もいない方へ小さな手を伸ばした。
赤子は笑っていた。
宅悦は、その足音が恐ろしいものだとは思わなかった。
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