第12話 きっかけの話
しばらくして、久しぶりに店へ顔を出した。
扉を開けた瞬間、懐かしい匂い。
油と、出汁と、人の声の混ざった匂い。
席に着くなり、ミネギシさんが腕を組んで云った。
「お前らに、大事な話がある」
「頼むからそのフレーズやめてくんないかな。心臓がザワザワする癖ついてるんだ」
隣でみきのが爆笑する。
「夏はよ、若い頃はバイクで北海道一周に憧れたもんだよな」
「僕は憧れたことないし」
「ないか?」
「ない」
「・・・以上かよ」
以上です。
ミネギシさんは構わず続ける。
「30過ぎたらな、そんな元気はなくなる。分かるか? だから今だ。はい、大通公園のしょうゆトーキビ、食べたことある奴、挙手!」
一瞬の沈黙。
「何年もいたけど、確かにないわね」
とうこさん。
「僕はすすきのから北に行ったことない。夏じゃなかったし」
「わたしは美唄だから、修学旅行で食べた」
みきの。
美唄。
その地名が、どこかで引っかかる。
「トーキビのワゴンはお盆で終わるらしいぞ。どうする?」
「ネットで頼めるでは?」と、とうこさん。
「とーこ、お前さん分かってない」
ミネギシさんが指を鳴らす。
「リアリティだよ。想像してる暇あったら、行くんだ。自分の店、見に行きたくないのか?」
一瞬、とうこさんの目が止まる。
「・・・はい」
小さく、でもはっきり。
何かを飲み込む音が、聞こえた気がした。
「8月上旬で調整。宿はとーこ。決まり。以上」
「ちょっと待って。なんで女子2人が反対しない?」
「だって、きっかけがないと、見に行けないなって」とうこさん。
みきのがうなずく。
「おいしいビール飲みたいっしょやあ」
「ああ。この人たちマジ?」
「俺が思うに、みんなマジ」
勢いに飲まれる。
でも、行かない理由も、確かにない。
その夜。
「あなた?」
「なに?」
「引っ越し、春頃にしましょうか」
「いいね」
「押上?」
「どこでもいいよ。とうこさんが住みやすいとこじゃないと」
一瞬、目を丸くする。
「こんな優しい人だった?」
「だって、一番長く家にいるのはとうこさんでしょ」
何かに気づいた顔。
そして、少し間を置いて。
「あなたは、子ども、ほしい?」
唐突。
「いきなりどうしたの。フィジーでも聞かれた気がする」
「何となく。大事なことだし、どう考えてるのかなって」
窓の外は、東京の夜。
遠くで車の音。
「嫌いじゃないよ。でも、産むのも育てるのも負担が大きいのはとうこさんだし。選ぶのはとうこさんでいい」
しばらく黙る。
「分かった。じっくり考えるね」
その声は、軽くもなく、重くもない。
ただ、真面目だった。
「何かあったら言って」
「ありがとう」
彼女は笑う。
でも、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ影が差す。
未来の話をするとき、
とうこさんは、いつも少し遠くを見る。
いまだけでいい、と云った人が、
それでも未来を考えようとしている。
その背中を、
僕はちゃんと支えられているのだろうか。
でも今は、
隣にいるこの人の体温を、ただ、信じるしかない。




