第10話 ちゃんと話す、ということ
月曜の朝。
目を開けたら、顔のすぐ前にとうこさんがいた。
「起きますか? もう少し、ねばりますか?」
寝ぼけたまま天井を見る。
「えっと……日曜でしょ。ねばる」
「そう。11時だけどね。それと、月曜日だけどね」
一瞬で血の気が引く。
「やばい。たぶんやばい。会社に電話する」
布団から転がり出る僕を見て、とうこさんはくすっと笑った。
「大きなプロジェクト終わったって聞いてたから、まあいいよねって思っちゃった」
電話口の上司は妙に明るくて、「休んで休んで」と連呼した。
いつもなら嫌味の一つは挟むのに。
「珍しい感じだった」
「相当がんばったってことよ。式の段取りも忘れるくらい」
「……それは本当にごめんなさい」
式当日、30分前に滑り込んだ。
「キャンセルされたかと思って、ちょっと覚悟してた」
「笑えない冗談だよ」
「冗談じゃないもの」
そう言って、でも目はやわらかい。
「もっと寝ていたい?」
「うん、ちょっと」
「じゃあ、起きててもつまらないから。一緒に入ろ」
ぬくぬく。
「あなた、昨日のみきの、少し変じゃなかった?」
「ああ、思った。急に核心ついたり」
「今度聞いてみるね」
さらりと云う。
人の変化を、ちゃんと覚えている人だ。
少し間があって、僕は聞いてしまう。
「とうこさんは、何で僕といたいと思ったの?」
すっぽりと布団をかぶりながら、彼女は少しだけ目を細めた。
「ねずみーで、ギュってしてくれたから」
「ああ……」
「あの時、もし何も言ってくれなかったら、好かれてないんだなって思って、そのまま札幌に帰らなきゃって考えてた」
静かに続ける。
「会いたくなった理由、あの時ちゃんと伝えてなかったでしょう?」
確かに。
僕はあの頃、仕事のばたばたに飲み込まれていた。
「正直、あれがなかったら、札幌のこと全部忘れて生きようと思ってたかもしれない」
「だったら、私をなぜ?」
「東京に帰るって云った時の反応。どうでもいい感じじゃなかった。言いたいけどやめておこう、みたいな顔してた。気持ちを抑える人なんだって、勝手に誤解した。
だから、店でメモを渡された時、神様がこの人を離すなって言ってるのかと思った。」
とうこさんは、少し笑う。
「分かってるじゃない。あなたは、そこなの」
「分からないよ」
「分かってるのに、分からないって云うところも、そこ」
逃げ場がない。
「大事な話をします」
来た。
ベッドの中が急に熱くなった気がする。
「私は離婚したことがあるの。28のとき」
「つらかった?」
「その頃はね」
淡々としている。
でも、水面の下に沈んだものが、少し揺れている。
広告会社に就職して、担当先の人と結婚したこと。
結婚するまでは優しかったこと。
数年経ったら、見てもらえなくなったこと。
「そして、離婚された」
言い方が、やさしい。
誰も責めない。
「何も考えられなくなった。母は、そういうこともあるのよ、って言ってくれたけど」
「話し合わなかったの?」
「自分は、女として受け入れられない人間なんだって、勝手に絶望したの。これじゃだめだって。逃げたの。福岡かな、とか思って、結局札幌」
少し笑う。
「やられた人はみんな札幌に向かうのね」
「札幌に謝りなさい」
やっと笑いが戻る。
「だから僕の行動にイライラしてた?」
「怒ってない。少し、イライラしただけ」
やっぱり。
「僕は前の人とは違う。会った回数なんて数えるほどだったけど、離したくないと思った。嘘じゃない」
とうこさんは、まっすぐ見る。
「私もね、時間の量だけが大切なんじゃないって初めて知ったの。あなたと離れることが、考えられなくなった。」
胸が、静かに締まる。
「言ってくれてありがとう」
「ごめんね、は言わないの」
「ありがとう」
「うん」
「でもね、一応言っとくけど」
僕は続ける。
「とうこさんが僕に話すこととか動くことって、他の女子の10分の1くらいじゃない? もっとわがままでもよくない?」
彼女は驚いた顔をする。
「そう? そうかな」
「誰にでも“ありがとう”って云うし。自分より相手、でしょ」
少し黙る。
「ありがとう」
その声は、いつもより小さい。
「そこまで言ってくれた人、いなかった」
間。
「離さないでね」
やわらかいのに、必死な響き。
僕は腕を伸ばして、ギュっとする。
彼女は目を閉じる。
この人は、やさしい。
やさしすぎるくらいに。
だからこそ、
守らなきゃいけないのは僕のほうなのに、
いつか僕の手から、するりと抜けていきそうな気もして。
それでも今は、
このぬくもりが本物だと信じて。




