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第1話 ひいらぎにて


ススキノの、小さな店だった。


 扉を開けると、

 カウンターの奥に彼女がいた。


 そのときは、

 ただ少し静かな人だな、

 と思っただけだった。


 まさか、

 あの人と出会ったことで、

 自分の人生が、こんなふうに形を変えていくなんて。


 そのときの僕は、

 まだ、何ひとつ知らなかったんだ。



「人でも殺して、逃げてきたの?」


 すすきの、6・7ビルの奥まったスナック。

 年の頃は30代前半だろうか。カウンターの向こうで、氷を回しながらママはそう言った。


 ・・・何で、そうなる。

 ウィスキーを舐める。琥珀色が喉を通るたび、札幌の夜は少しだけ遠くなる。


 2か月ほど前から、週に2度くらい。

 観光客にしては長すぎる滞在。どこから来たのかも、なぜここにいるのかも言わず、ただ飲むだけの客。

 そろそろ聞いてもいい頃合いだと、ママは思ったのだろう。

 口元が、わずかに固くなる。



 みほと出会ったのは、彼女が29、僕が25のときだった。

 世田谷のマンション。朝のゴミ出しで目が合い、会釈を交わすようになった。

 一緒に駅へ向かうのが、妙に照れくさくて、わざと時間をずらしたりもした。


 ある夜、仕事帰りの駅でばったり会い、流れのまま駅前の居酒屋に入った。

 北海道の町の出身だということ。

 貧しい家で育ったこと。

 仕事で東京へ出てきたこと。

 初対面なのに、よく話す人だと思った。


「あなた、お酒強いでしょ?」

「まあ。結希です」


「あ、ごめんね。みほ」

「どういう字ですか?」

「ひらがな」

 不思議な人だ。それが第一印象だった。


 いつのまにか、どちらかの部屋で過ごす日々になった。

 家で飲み、近所のおいしい店を巡り、何でもない時間を積み重ねていった。


 ある日の蕎麦屋で、みほが言った。

「30までに結婚したいんだよね」

「何で?」

「何となく。いろいろ思うことがあって」

「あとどれくらい?」

「7か月」

 ・・・おお。


 6か月後、僕らは結婚した。

 みほは部屋を引き払い、僕の部屋が2人の部屋になった。

 あの頃が、いちばん楽しかった。



「最初は幸せだったんじゃない?」

 カウンター越しに、とうこママが言う。

「でも半年くらいして」

 知人から聞かされた。

 みほには、結婚前から続いている相手がいると。札幌から出向で来ている、妻子持ちの男だと。


 尾けようかと思った。

 だが、決定的な現実を目にする勇気はなかった。


 それでも2か月後、文京区の興信所を訪ねた。

「別れたいなら、多少は“盛る”こともできますよ」と笑う探偵に、事実確認だけを依頼した。


 さらに2か月後。

 机の上に積まれた、分厚い資料。

「奥様が札幌にいらした頃から、5年以上です。間違いありません」

 人生が、写真に切り取られている。

 ホテルの出入り。並んで歩く背中。

 静かな部屋で、ため息も出なかった。


「別れてほしい、と言ったんだ」

「反応は?」

「上京したときには別れてた。同じ会社だから飲むことはあるけど、って。現在形でね」

「……」

「問い詰めたら、“いろいろあるからさ”って」

 その後は家裁。

 浮気された側のはずなのに、なぜか僕が慰謝料を払うことになった。月払いで、途中まで。


「なぜ払うの?」

 とうこママの目が鋭くなる。

「浮気されたんでしょ。どうしてあなたが?逆に訴えればよかったのに。」

「何の罪で?」

「背信」

 きっぱりと。

 その強さに、思わず笑いそうになる。


 1か月後。

 店がはねたあと、午前1時。地下のスナックで、ミルト・ジャクソンの低いヴィブラフォンが流れていた。

「それで、どうして札幌にいるの?」

「死んだ」

「え?」

「去年の冬に。」

 グラスの氷が、ひとつ鳴る。


「自殺するような人じゃなかった。生きることに貪欲な人だった。だから、何でだろうと思って、休職して来た」

「中島公園のホテルに3か月もいるでしょう?」

「彼の行きつけには行った」

「話したの?」

「まさか」

「実家は?」

「まさか」


 とうこママは小さく息をついた。

「東京に帰るスイッチが押せないのよ。亡くなった事実は受け止めてる。でも理由にしがみつきたがってる。」

「引っかかるんだ。」

「自死した人の気持ちは、夫にも親にもわからない。理由を探すのは、優しさじゃない。冷たい興味かもしれない。」

「厳しいですね。」

「前を向きなさい」

 怒っているようで、どこか悲しそうだった。


「死んだあと、彼氏が札幌に戻ったんだ」

「それを追ってるの?」

「わからない。ただ、何かが」

「何も変わらないわ。あなた、バカなの?」

「・・・。」


 隣の席では、サラリーマンが大声で仕事の愚痴を言っている。

 昭和みたいだと思いながら、以前の自分もああだったと気づく。

 帰れば、とうこママとは二度と会わないだろう。


 3か月。

 僕は何をしているのか。

 突然死なれて、うろたえて、彼氏のせいだと決めつけようとして。

 会ってみれば、彼もまた打ちのめされていた。

 本当に、何をやっているんだろう。

 グラスの底に残った氷が、溶けきる直前の音を立てた。


 次の日の「ひいらぎ」。

 昨夜とは違う、少し乾いた空気。

「北海道って、梅と桜が同じころに咲くんだ。街じゅう、いい香りだね」

「そうね。東京とは違うわね。」

 カウンターに立ち、とうこママは壁を見ている。

「帰ることにしたんだ。」

 ほんのわずか、間があった。

「そう」

 それだけ。


「お世話になりました。」

「はい」

 それだけ?

 胸の奥で、何かがざわつく。

「なにが?」

「別に」

 言葉は、どこかで止まったまま。


 とうこママはグラスを拭きながら、いつもと同じ顔をしている。

 でも、その指先だけが、少しゆっくりだった。


 ・・・何か言ってくれないのか。

 ・・・引き止めないのか。

 そんなことを期待している自分が、子どもみたいで情けない。


 とにかく東京へ帰る。

 帰って、日常に戻る。

 それが正しい、と自分に言い聞かせる。


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