10・文化祭に向けて
「由宇、それを歌ってもらえるか?」
いつものように宿題をしていると、学人先輩が驚いたように言った。
無意識の内に鼻歌を口ずさんでいたようだった。部室で、前より大きく吹奏楽部の演奏が聞こえる。それは文化祭に向けて牽制するためだと学人先輩は言っていた。吹奏楽部は音楽が専門なのだから、他の部や組は音楽系統のものはやるな、ということだ。確かに、音楽で本格的な吹奏楽部に勝てる部はないだろう。
音が自然と耳に入るから、勝手に口が動いていた。
「今聞こえている曲を、ですか?」
「ああ、今すぐに」
今聞こえているのは、最近人気のある曲だった。弟が流行りの曲を入れたMDをくれるから、部屋にいるときはいつも聴いている。その一つにこの曲があった。
この曲は男性二人で歌っているから、一人だと味気ない。でも、学人先輩は待っていた。
決心して、腰を上げた。そのまま後ろに下がって学人先輩から距離をあける。
「じゃあ、サビに入るところから…」
吹奏楽部の演奏に合わせて歌い出した。この曲は得意な音が多く入っていて歌いやすい。ちなみに、声の伸びがいいのはソからシまでの間だった。
音響設備が整っていない部屋だから、声は響かなかった。でも、学人先輩との距離なら問題はない。久しぶりに歌ったので、所々は声が擦れた。
不満が残る出来だったけど、一応歌い終えた。
吹奏楽部の演奏も終わった。
「…学人先輩?」
「…歌だな。合唱部があるから、バンドにすればいいか」
一人でブツブツを呟いている学人先輩に、それ以上声を掛けられなかった。自分の歌に何かあったのだろうか。歌は趣味とストレス発散を兼ねて週に一度は歌っている。
評価を待つかのように、何故か緊張していた。
「由宇、特技があるじゃないか。今回の文化祭は君の歌でいく」
「僕の歌、ですか…」
歌は別に特技だとは思わなかった。ただ、好きなだけだ。好きこそ物の上手なれ、とでもいうところかな。自分の声なんてわからないのだから、上手いかどうか知る由もない。
学人先輩は決定事項のように、文化祭の提出用紙に記入していっている。
「先輩、聖さんと透先輩に相談しなくていいんですか?」
「文句は言わないさ。特に聖はな。由宇、本気で歌わなかっただろ? 声を抑えていたな」
なんで分かるんだろう。確かに声を抑えていた。防音設備もないこの部屋で歌えば、周りの迷惑になる。それに、学人先輩との距離なら、耳が痛くなるだろう。腹筋を使って歌ったけど、力は出し切っていなかった。
「ここでは全力で歌えません。音楽室や体育館や外ならいいですけど」
「ちゃんと腹式でやっているのか。鍛えてるんだな」
「そうです。触ってみます? 結構筋肉あるんですよ」
見た目はただの細い男子高校生だけど、筋肉はある程度付いている。細く見えるのは、無駄な脂肪がないからだ。そして、筋骨隆々とまでは鍛えていないので、外見だけではひ弱に見えているだろう。
学人先輩の前に立った。学人先輩は検分するように腹部に触れた。
「着痩せするタイプか。しっかりと鍛えているんだな。声のためか?」
「はい。咽喉で歌うとすぐ疲れますし。本格的にはやっていませんけど、これくらいはしようかと」
「背筋もバランスよく鍛えてあるな…これなら」
「あー学人がセクハラしてる!」
勢いよくドアを開けた聖さんは、突然叫んだ。そしてそのまま動きを止めた。
改めて自分の状況を見てみると、学人先輩に抱きつかれているようだった。その上、腰に手が回っている。背筋を触っていたのだから、仕方ないの体勢だ。
聖さんから見れば、学人先輩がセクハラしているようにも見えるか。
「聖、勘違いするな。これは診断みたいなものだと思え。文化祭の主役なんだから」
「…文化祭の主役? 由宇が何かするの?」
「ああ。歌を歌う」
「うわー凄いね。学人が言うからには本気で勝ちにいくつもりだよ」
聖さんは後ろから抱き付いてきた。所有権を主張するみたいなその行動に、学人先輩はあっさりと手を放した。
背中に温もりを感じる。いつもは前から抱きつかれているから心構えができているけど、この体勢は苦手だ。聖さんの方が背が高いので、息が髪に当たる。
「聖さん…この体勢はちょっと…」
「リハビリだよ。由宇、人を拒絶しすぎ。初めて会ったときに思ったんだけどね」
図星だった。裏切られるのが嫌だから、傷付きたくないから、初めから無かったことにしたい。人が嫌いなわけじゃない。人が醜くなるのが嫌だった。
少しの悪意で人は変われる。悪口や陰口はグループに必ずあった。他人を悪く言って仲間だと感じる。自分は悪くないと思えるし、皆と一緒だという一体感がある。それが嫌だった。
そして、自分が傷付いていると思うのが嫌だった。
「こうやって接触していれば、僕は味方だと思ってくれるかなって。人との摩擦は慣れていくしかないんだし」
「それもあるだろうが、聖はただ由宇に抱きつきたいだけなんだろう」
尤もらしいことを言っていた聖さんは、「それもあるけどねー。でも言ったことも本音だよ」と苦笑して返した。
温もりが不快なんじゃない。掴めない距離感が不安だった。先輩たちは良い人だとは思うけど、まだわからなかった。
言いたい言葉を呑み込んだ。それは確認と、希望の言葉で。
あなたを信じてもいいですか?
「学人先輩、具体的にはどういったことをするんですか?」
「由宇がメインで歌を歌う。聖と一緒に歌うかは選曲しだいだな。透はバイオリンが弾けるし、俺はピアノだな」
「へえ、もう決まったのか」
聖さんが開けたままだった入り口から、透先輩は意外そうに言った。聖さんに抱きしめられたままで目が合った。途端に眉を寄せられる。気持ち悪いと思われたのかもしれない。男二人が抱き合っているのだから。
まあ、最初が最初だから、今更って感じだけど。もう三度目だし。
「聖、職権濫用するな。部長だからって、なんでも許されるわけじゃない」
「学人もさっきしてたし、いいじゃん」
「学人も!?」
透先輩の驚きに、学人先輩は溜息を吐いた。つまらないことを言うな、という感じだった。そんな誤解をされるのが不愉快なのだろう。
「俺は腹筋と背筋を確かめるために触っただけだ」
「まあ、そんなことだろうとは思ったけど。文化祭の主役にしようとするくらいだしな」
透先輩は近寄ってきて、聖さんの腕を抓った。服の上からだけど、痛そうだ。聖さんは渋々腕を放した。
背中が寒くなった。ただ、聖さんが離れただけなのに、無くなったのは温もりだけじゃないような気がする。
「これから頑張ります。文化祭も、人に慣れるのも」
僕の決心に、三人は頷いた。息の合ったその動きに、笑みを浮かべた。心の奥では笑みは引き攣っている。
この三人の中に入ることはできない。先輩のためにも、自分のためにも。




