三章 黒魔術師 ②
新人賞の応募原稿を、最初から最後まで、毎日少しずつ上げていきます。
〈アカデミー〉の実技室。
普通の教室くらいの大きさで、およそ六人掛けの木製のテーブルがある。
初等魔術の授業で使われることが多い部屋だ。
放課後のこの実技室に、アーニャの他には誰もいない。
教室の一角に、魔術仕様の備品が保管してあるスペースがある。
様々な大きさの試験管、フラスコ、ビーカーなどのガラス器具などが整頓してある。
アーニャはそこから透明なプラスチックのコップを手に取った。
教室の後ろにある水道の蛇口を捻り、水をコップに注いでいく。
八分くらいまで入れると、それをテーブルの上に置いた。
もちろん、飲むために用意したわけじゃない。
コップの前に立ち、〈ポータブル〉に発熱魔術のルーンコードの魔術式を入力する。
眼前の水に意識を集中させる。
水道から出てきた冷たい水の温度が徐々に上がっていく様をイメージする。
頭の中でコップの水に指を入れると、冷たい水は常温になっていて、その後だんだん暖かくなる。
浸している指が心地よいくらい水温が上がったところで、変化を停止させる。
うん、大丈夫だ。
ぴたっと静止している水面をじっと見つめ、アーニャは実際に、水の中に人差し指をゆっくり入れてみる。
水は、冷たいままだった。
自然と表情が曇る。
不機嫌そうに顔をしかめ、指をコップの水から乱暴に抜いた。
上手く行かない。
何故こんなにイライラするのだろう。
この苛立ちの原因が、発熱魔術が成功しなかったことだけではないのは分かっている。
むしろ他に原因があって、そのせいで集中しきれず、魔術が失敗したように思う。
では、具体的には何が原因なのだろう。
きっとあいつが関係している。
シンクレアが合鍵を持っていて、頻繁に夕食を作りに来るから?
ミオを部屋に入れて、二人で抱き合って、キスしていたように見えたから?
裸を見られたから?
それらもまったく関係がないと言えば嘘になるが、もっと別のことだろう。
先日のショコラの勇姿が脳裏をよぎる。
最近は放課後、時間があればこうして魔術の練習をしている。
今更こんなふうに焦って、初等魔術の練習をしたところで、ショコラとは雲泥の差があるのは分かっている。
ビアスはきっと、彼女を選ぶだろう。
それが痛いほど分かってしまう。
さっきだって意地になって、ショコラの提案とは反対の意見を通そうとしてしまった。
そして、もう一つ違う感情が浮上してくる。
ショコラ言った。
――ビアスは私を助けてくれたんだ。
ビアスは私以外の女の子も助けたことがある、と知った。
私以外にもビアスに救われた女の子がいる。
あの日訳の分からない通り魔に襲われたのが私以外の誰かでも、ビアスは間違いなく助けただろう。
襲われたのが、たまたま私だったというだけのことだ。
彼は誰にだって手を差し伸べる。
今更だとも思う。
無愛想なようだが、いつだってその優しさに救われてきた。
まだ出会って二か月ほどだが、その間だけは同居している自分が、一番その優しさに触れていたのかも知れない。
ビアスはきっと、困っている人や落ち込んでいる人を放っておけないのだ。
それはもう病気みたいなもので、しかも基本的には良いことだ。
だから、こんなふうにイライラしてしまうのは、お門違いで、良くないことだ。
――でも。
それでも。
どこかで、自分がビアスにとって何か普通とは違う存在なのではないかと思っていた。
いや、願っていた。
だけど、私は特別なんかじゃない。
それがはっきりと分かってしまって、ショックを受けているんだ、私は。
携帯電話が振動した。メールのようだ。
ビアスからだった。
もう帰るけど、どうする?
返信せず、電話をブレザーのポケットにしまった。
ケイタイの振動で、考え事から我に返ると、いつの間にか、窓際に人影があった。
黒いローブを被っている。
あの日と同じだ。
ただし、あの日と違い、今日は二人いる。
片方は前回と同じで背が高く、もう片方は低い。
おそらく二人とも魔術師だ。
逃げなきゃ。
アーニャは反射的にドアに向かって走り出していた。
いつからいたとか、どうやって入ってきたとか、そんなことを考える前に、体が動いていた。
ドアを思いきり引くが、ぴくりとも動かない。
鍵なんかかけなかったはずだ。
振り向くと、背の高い方の魔術師がすぐ側で立っている。
魔術師がゆらりと右腕を上げると、アーニャは恐怖で咄嗟に、
「嫌! 何もしないで!」
そう叫ぶと、目の前にいた魔術師が後ろへ飛び退り、テーブルを超えて着地した。
アーニャの眼前に新しい人影が現れた。
短いポニーテールが揺れている。
「ミオ?」
「うん。大丈夫?」
突然姿を見せたミオは、アーニャを庇うように魔術師たちに立ち塞がる。
「大丈夫だけど、何でここに?」
「今はもっと大事なことがある」
ローブの魔術師たちに視線を向けるミオ。
アーニャに襲いかかった方が口を開く。
低く、太い男の声だ。
「空間魔術で外部からの侵入を拒む結界を張っていたはずだが」
「あなたはこの教室を結界の対象にした。私は魔術を発動する前に、すでに室内にいた」
「気配を消していたのか。俺が察知できなかったということは、やはりなかなかの魔術師のようだな」
「得意分野だから」
ローブの男がミオに肉薄した。
強化魔術で自身の移動速度を向上させているようだ。
初等魔術に分類される強化魔術も、上級の魔術師が使用すると、とんでもない脅威となる。
魔術の入り口として入りやすいから初等とカテゴライズされているが、究めれば強力な魔術よりも上を行く場合もあるというのは確かなようだ。
ローブの魔術師は拳を上げ、躊躇なくミオに振り下ろす。
ミオは背後のアーニャを守るように、その攻撃を受け止めた。
バチバチッ――。
幾本もの紫電が走ったかと思うと、ミオが顔を歪めて片膝をついた。
「くっ……!」
ローブの男は雷電魔術で拳を強化したようだ。
高電圧の電流がミオの華奢な体を伝播し、筋肉がところどころ一時的に麻痺したらしい。
魔術耐性のない一般人なら、今の攻撃で間違いなく気絶している。
「ミオ、大丈夫なの?」
「ちょっとビリッとしただけ」
心配そうに声をかけるアーニャにそう答えてから、ミオは立ち上がり、〈ポータブル〉をスカートのポケットから取り出した。
左手で端末を持ち、ルーンコードを入力する。
そして、空いている右手をローブの男に向けて広げた。
「〈ウィンド・スラッシュ〉」
掌から風の刃が繰り出される。
風嵐魔術による術式だ。
大気を切り裂きながら直進する風の刃はローブの男の前で、弾かれるように消滅していった。
再び疾風を放とうとしたとき、構えている右手が凍り始めた。
「しまった」
指先から手首、肘を超えて一気に肩まで侵食されていく。
右腕だけではない。
〈ポータブル〉を持つ左手、右足、左足と次々に氷漬けになる。
四肢の動きを封じられたミオに、ローブの男が迫り、電雷魔術で付加した拳を叩き込んだ。
電光が瞬き、鳩尾に強烈な一撃が入る。
ミオは顔を歪め、力なく崩れ落ちた。




