第二十九話:ローストヴィル
鴨肉の焼ける香ばしい匂い。
そこからジューシーな旨みたっぷりの鴨肉のローストを想像してしまい、思わずお腹を押さえる。さらに、一服の涼のように香る爽やかなオレンジの匂い。鴨肉のローストに合わせるソースを作っているのだろう。
慌ててこの地に来たので、夕食はまだ食べていない。だが時間はまさにディナータイム。この匂いに魅了され、苦悩しているのは、自分だけではない。ローストヴィル警備隊の面々も、涎が垂れそうな表情になっていた。
警備隊は表と裏口、その両方の扉の前に陣取っている。建物は、青緑色の屋根にクリーム色の壁の、とてもこぢんまりとした屋敷だった。
豊かな森に育まれ、豊富な獲物に恵まれたローストヴィルは、狩猟地としても有名だ。そこから派生して、バーベキューとローストの発祥の地として知られ、隠居した貴族に人気のエリアにもなっていた。
森のほとんどが国有地であり、狩りが年間を通じて認められている。家督を子に譲り、狩りが好きな貴族の老夫婦が最低限の使用人と共に暮らしていることが多かった。そんなローストヴィルであるから、豪華な屋敷がありつつも、手入れのしやすいこぢんまりとした屋敷も多かった。
少ない人数で目立たず自給自足で暮らすには、まさに最適な地。首都に姿を見せないとなった時、この地への潜伏の可能性を考えることになったのは、フェリス・ラナ・アイゼンバーグ公爵令嬢が才媛であると知ったからだ。
フェリス・ラナ・アイゼンバーグ公爵令嬢。
彼女は隣国、トレリオン王国の第二王子の婚約者として長らく知られていた。
幼少の頃より、美少女だったらしいが、成長してからは、まさに大輪の薔薇のような美しさだと噂されている。しかも妃教育も難なくこなし、実に頭もよく、何よりも上級魔法の使い手。
トレリオン王国の王族は元々、魔力の弱い一族だった。その一族の多くが、中級魔法の使い手であり、上級魔法の使い手はほとんどいない。三世代ぶりに王太子が上級魔法の使い手と判明し、確か祭りをやっていたぐらいだ。
そんな王族であるから、第二王子が下級魔法の使い手であるのも、仕方ないこと。第二王子自身、魔法の使い手として自身が劣ると理解しているため、学問や武術の腕を鍛えようと、努力していたようだが……。
上級魔法の使い手であるアイゼンバーグ公爵令嬢は月に例えられ、第二王子はその月に寄り添う薄雲。そんな隣国の社交界の噂は、アルシャイン国にも届いていた。
それでも王家と公爵家の婚約。これは平民の婚約ではない。そう簡単に覆されることはないと思われていた。
ところが。
「アルシャイン国王陛下にご報告します。トレリオン王国の第二王子と公爵令嬢の婚約が破棄されました。同時に王族に対する侮辱罪にも問われ、公爵令嬢は国外追放となりました」
「何!? 国外追放! トレリオン王国は厄介ごとを自国内で解決せず、隣国に押し付けるつもりか! その公爵令嬢、上級魔法の使い手。それで報告書にあるような悪事と悪行を働いたとなると、まさに悪女だ。そんな女を押し付けられても困る。国境の警備兵の数を増やし、入国を阻止せよ」
「かしこまりました、国王陛下」
トレリオン王国の公式発表で知らされた、アイゼンバーグ公爵令嬢の悪事と悪行。それは、その美貌を鼻にかけ、何人もの令息をかしづかせ、一人の男爵令嬢をいじめ抜いたと書かれていた。そのいじめの詳細も事細かに書かれているが、それにはいささか疑問を感じえない。
手芸の授業中に裁ち鋏で切り掛けたというが、あれを武器にするなら刺すだと思う。美女であり、才女である公爵令嬢が、そこの使い方を間違えるとは思えない。
どこか問われた悪事については胡散臭さが感じるものの、公爵家として抗議の声を上げることなく、婚約破棄と断罪が遂行されている。
そこは相手が王家だったから、というのはあるだろうが……。それでも婚約破棄と断罪を受け入れたのだ。何かやましいことがあったのは事実なのだろう。そしてそんな上級魔法の使い手の、美女で才女であるが悪女の入国は、百害あって一利なしと判断されても仕方ないこと。アルシャイン国だけではなく、他の国々も、悪女追放の知らせに合わせ、国境の警備の強化を始めていた。
しかし日々上がる報告の中で、悪女が国境に現れたという話は、アルシャイン国でも、他の国でも聞こえて来ない。
「やられたな。相手は才女。一報が各国に届く前に、出国した可能性が高い。港から船に乗り、出国した可能性はゼロではないが、貴族令嬢が船旅なんて聞いたことがない。そして可能性として、悪女が逃げ延びようとして足を踏み入れるなら、移民も多く、国土も広い、我が国であろう……」
そう考えた国王陛下はその威信をかけ、悪女を捕える決意をする。
「一斉調査を行う。各貴族達に命じる。自身の領地で最近少ない使用人と共に、一人暮らしを始めた十八歳の美女がいないか、確認させろ」
こうして悪女である可能性の高い令嬢がリスト化され、一斉に家宅調査がなされることになった。時間は令嬢が逃走しにくい夜間。しかも食事の時間だ。つまり寛いでおり、咄嗟に逃げ出せないような時間を狙うことになった。
そしてそのリストの中で、悪女潜伏の高い場所として考えられたのは、どれも利便性のいい大都市だったが。
「自給自足ができ、こぢんまりとした屋敷が多く、少人数でひっそり暮らせる。その観点からローストヴィルに目をつけたという推測は、正解に思えます。わたくしはローストヴィルへ向かうべきと思います」
ゼノビアはそう宣言し、そして今──。
「クラウス、魔法がかかっていないか確認して。乗り込むわよ」
遂にアイゼンバーグ公爵令嬢が潜伏しているかもしれない屋敷に、突入することになった。
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